第四部 冬 『雪の日のグレー・ホワイト』
1
その晩、僕は珍しく郁を抱きしめながら寝た。耳にイヤフォンを挿して、黙って彼女を抱きしめた。僕がそうすると、郁は何かを察したのだろう。黙って抱き返してくれた。
「話ってなに?」
「そんなものないよ」
僕はそこに彼女の体温が存在することに安心した。確かにそこに在るのだと、そう思うととたんに震えていた心臓がゆっくりと時を刻み出した。吊り橋の上で少年のように震えていた僕は、やっと立ち上がったんだと思う。
「ただこうしたかったんだ」
「ふうん。珍しいね、薫くんからそんなこと言ってくるなんて」
「僕だってそういうときがある」
「いつも冷め切ってるのに」
「うん、僕はいつも冷めてる」
冷え切って、凍り付いてしまって、僕は冷凍都市で一人になるところだった。噴き上がった性的衝動は八坂を思っていたのに、僕の手元にあるのは郁で。僕は彼女で満足だった。そのはずだった。
やがて僕は眠りに落ち、夢を見た。
†
夢の中で、僕はライブ会場にいた。
あれはたぶん新木場のスタジオ・コーストで、僕は飲みかけのジントニック片手にステージを見つめていた。鳴り響くのはニューオーダーの『ビザール・ラヴ・トライアングル』。フロアの観客たちは、極彩色の光の中で踊り狂っていた。
だけど僕は、そのスタンディングの群のなかで一人とても冷静だった。静かに、ジントニックの残りカスを喉に放り込むと、光のむこうを見た。バーナード・サムナーが歌ってる。
たぶんこれは二〇一六年の来日公演だと、僕はぼんやりと思った。一人見に行ったときだと、思い出した。思い出して、やはりこれは夢なのだと悟った。イヤフォンはシャッフル再生でニューオーダーを流し、その音楽は僕の記憶のなかのライブの体験を呼び起こして、それを頭のなかで再生しているのだと。そして僕の全感覚器は、その過去の記憶に没入していまあるのだと。そう思った。
だけど、それは完璧な過去の再現じゃなくて、夢だった。
夢だから、本当はあり得ないことだって起きたのだ。
夢だから、僕の深層心理を反映したのだ。
夢だから、僕が求めていたものを映し出したのだ。
ニューオーダーに踊り狂う人々の群に、一人たたずむ青い髪の女。ブルーアッシュのボブカットをした女は、僕のまっすぐ目の前にいて。そして僕と同じく飲み干したジントニックを右手に握り締めていた。
〈おどらないの?〉
彼女の口はそう言った。言葉は音楽にかき消されたけど、僕にはそう聞こえた。そして直後には、彼女はビートにあわせて体を揺らし始めてた。目を閉じ、リップシンクして、指先が踊り出す。その細く長い指は、ゆっくりと伸びて、そして僕の鼻に触れた。
〈八坂、どうしてここに?〉
僕は彼女の手を取り、リップシンク。八坂を抱き寄せて、一緒にリズムに乗った。大好きな曲が大音量で鳴り響き、聴覚を支配する。こんなにうれしいことはないだろう。そして目の前の彼女は、僕とそれを共有してそこにいる。聴覚はやがて肉体を揺らし、体で音楽を表現する。二人で手を取り、飛び跳ねた。好きなタイミングで、二人で飛び上がった。それがまったく同じタイミングだから、僕はうれしくなった。
でも、これは夢なんだ。
〈君はあの曲しか聴かないはずだ〉
僕は八坂の手を取り、彼女の細い体を抱き寄せ踊りながら囁いた。
〈そうね、そのとおり〉
〈じゃあどうしてここに? どうして僕らのライブに来なかった?〉
〈理由が必要? わたし、気分屋だから。なんだか興醒めしちゃったの。悪かった〉
〈そうだね、悪いよ。だって僕は、君とこうしたかったから。でも、君は望まなかった〉
〈そうね。あなたはわたしにこうして欲しかった。でも、わたしはこうしたくなかった〉
手が解ける。
八坂の指が、僕の指先から解けて、溶けて、消えた。ふとした瞬間に彼女は人混みの中に戻り、そしてあの青い髪はどこかに失せた。一瞬だった。一秒と無く、一小節と無いうちに、八坂はどこかに消えてしまったんだ。
秋の日が一瞬にして雪の降る冬景色へと変貌するように。
「八坂!」
*
「八坂!」
そう口にしたとき、世界はもう朝で、あのライブの夜から一晩明けていた。時刻は朝七時前で、キッチンでは郁がトーストを焼いていた。
夢と現実との境界線が曖昧で、僕は本当に「八坂」の名前を口にしたのか判然としなかった。彼女の名を口にしたのは、夢のなかの僕だったのか。それとも現実の僕だったのか。あるいはどちらもだったか……。
寝汗なのか冷や汗なのか分からない雫を額に、僕は布団から飛び上がった。郁は鼻歌まじりにトーストを焼きつつ、何もない様子で紅茶用意していた。
「あ、おはよう。朝食できてるけど。紅茶飲む? 今日はアールグレイだけど」
「いただくよ」
「ごめんね。ミルク切れてるからストレートだけど」
「いいよ別に。郁、今日仕事は?」
「お昼から。薫くんは?」
「休み。じゃなきゃライブなんて入れないよ」
眠たい頭を叩き起こすみたいにあくびをして、寝癖だらけの頭を掻いた。髪の水分がすべて吹き飛んでるのか、乾いた芝生みたいにあちこちに跳ね回っていた。
「ずいぶん遅くまで寝てたもん。昨日やけに帰り早かったし。それに……珍しかったし」
「僕にもそういう日がある」
紅茶を一口。ティーバッグを少し長く入れすぎたか、ちょっとだけ渋かった。でもそれぐらいのほうが眠気を覚ますには良かった。
「シャワーだけ浴びてくるよ。眠いし、酒を飲んでないのにひどく酔っぱらった気がするんだ」
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