6

 二十分ほど電車に揺られて、アーケード前の駅舎に降り立った。そのころにはもう街はすっかり帰宅路の様相を呈していた。駅前のコンコースにはタクシーと代行の群が連なって、酔っぱらいの集団を引き入れている。平日の昼間から飲んだくれた老人たちが千鳥足でアスファルトを叩き、眠るように車内へ倒れ込む。僕はそれを後目にイヤフォンの音楽を聞き、一路アーケードの先を目指した。

 聞いていたのは、リクが作ったデモテープだ。歌詞はまだなく、彼女のハミングと適当な詞がついている。いちばん盛り上がるサビ前の転調のところは、「パンツ濡らして、視姦坊や」なんてヒドい詞がついていた。なんていうか彼女らしかった。

 僕はリクの歌にあわせてハミングしながら、吸い込まれるようにTのバーに向かった。まっすぐアパートに戻って、郁の顔を見れば良かったのに。僕の上着のポケットにはまだ八坂がくれたチェ・ブラックが残されていたから。

 ドアベルを鳴らして店内に入ると、カウンターにはすでに八坂が座っていた。そしてその髪色は、まだ大きく変わっていた。髪型もだ。

 僕は言われるまでもなく、八坂の隣に腰を下ろした。まもなくマスターは僕のぶんの灰皿をくれたので、僕はジン・トニックを注文した。

「また髪型変えたんだ」と僕はハイライトに火をつける。

 八坂の髪型は、このあいだのオレンジからはずいぶん変わっていた。長くポニーテールにされていた髪はばっさり切り落とされて、肩より短いボブになっているし。明るめのオレンジだった色は、暗めのブルーに変わっていた。

「そうなの。いいでしょ? 今度は暗めにしたのよ」

「そう。ちなみに今回のテーマはあるの?」

「もちろん。今回のテーマはね、『秋空のブルーアッシュ』」

「へえ、なんだか冷たい感じがするね。すごくクールな感じだ」

 そう言ったところでジン・トニックが来た。僕らは軽く乾杯をしてから、その一口目の流し込んだ。

「約束を果たしに来たんだ」

 僕はハイライトのパッケージを叩き、そのなかから醜いアヒルの子を呼び出した。

 つまり八坂のチェ・ブラック。

 つまりあの日、僕が加えて自慰行為にふけったタバコ。

 つまり僕が八坂に欲情しているという証拠。

「さすが。わたしも今日は来るかなと思って、用意してたの。ほら、あなたのハイライト・メンソール」

 差し出されたお互いのタバコを、お互いに交換して、それを口に銜えあった。八坂はチェが似合ったし、僕もやはりハイライトが性に合っていた。

 ただそれよりも僕は、僕が銜えたタバコを、いま八坂の唇が――彼女の真っ赤な二枚貝がついばんでいること。その事実に興奮していた。僕の心臓は脈動し、下半身は中学生のようだったと思う。今立ち上がったら、僕は八坂に幻滅されるはずだ。

「火、つけるよ。ほら」     

 だから僕は誤魔化すみたいにマッチを擦った。ぼうっと火が点くと、八坂はそこへむけて唇をつきだした。青黒いブルーアッシュの髪。青白い肌と、赤い唇、そして葉の詰まったタバコには、僕の唾液があって。それをいま八坂は煙と一緒に吸い込んだ。僕はとたんに胸のすくような思いに駆られて、自分のタバコに火をつけることなくマッチの火を消してしまった。

「じゃあ、次はわたしの番。火つけるから、ほら」

「いいよ、べつに。僕はマッチで吸うのが好きなんだ」

「いいから。ほら、貸して」

 八坂は机上のオイルライターを拾い上げて、それを僕に差し出した。ハイライトにはあっという間に火がついてしまう。八坂の手の内から、するりと。

「いい曲は書けた?」

「まあ、さっきまでスタジオにいたんだ。デモテープを作る下敷きに、セッションをね。聞いてみる?」

「森島君たちの曲?」

「ああ、先週作った曲のデモがあるんだけどさ。聞くかい?」

「いいや、止しておくわ」

 言って、八坂は僕が銜えたあのタバコを、ゆっくりと灰皿の上に置いた。

「なんだか聴く気が起きないから。いや、嫌いじゃないんだけど。あなたたちのバンド。でもね、前も言ったけどわたし――」

「元カレのバンドが作った曲しか聴けない、だろ?」

「そう、そうなの。残念ながらね」

 そう言う八坂の表情は、申し訳なさというよりも、つらさが勝っているように見えた。僕に対する罰の悪さというよりも、ただ純粋にその曲に囚われている自分に対する痛みだとか、苦しみだとか。逃れられない呪縛を、彼女は呪っているみたいに見えた。

「だからさ、今日はこれを聴かない?」

「これって?」

「これよ」

 見れば、八坂の手元には一枚のレコードがあった。仄暗い夕焼けの中、床の上に倒れ込む女性の写真。アンニュイな雰囲気に秘せられたアートワークは、僕の知っているバンドのものではなかった。

「店長が売れ残りでいらないからって、もらってきたの。どうせ売れないから適当にとってけって。それで、ジャケットが気に入ったからもらってきたのよ。聴かない?」

「試聴はしたの?」

 八坂は首を横に振った。

「どの曲を聴いても好きになれないんだもの。試聴する意味なんてある?」

「それは言えてる。じゃあ、聴いてみる?」

 僕はマスターに目配せ。谷さんはゆっくりとうなずいて、レコードを拾い上げてくれた。

 スピーカー出力がCDからレコードプレーヤーに切り替わる。ホワイトノイズ、そして針が落ちる音。ぷつんと鳴って、それから静かにピアノが響き始めた。

「ジャズ?」

 僕はしばらく聴いてから問うたけれど。でも八坂は首を横に振るきりだった。

「そう? わたし適当にもらってきたからわからない。どこかのインディーズレーベルなのかしらね」

「そうかも」

 アルバムジャケットの両面をじっくり見たけれど、ピアニストも、ウッドベースを弾いてる

のも、誰だか知らなかった。でもボーカルのパワフルな歌い方は嫌いじゃなかった。

 それから一曲、二曲と続いたけれど。だんだんとそのレコードはBGMに成り下がっていって、僕らはその曲を注意して聴かなくなっていった。代わりに話題になりだしたのは、僕のバンドのことで。そしてそのころには、僕は二杯目のレディ・スターダストに手を出した。

「来月、ライブをするんだ。レノンってライブハウスで」

「ビートルマニアが集まりそうな名前ね」

「昔はそうだったらしいよ。いまはそうでも無いけど」

「ふうん。で、そこでライブするんだ。客は来そう?」

「まあまあかな。儲けられるほどはないよ。僕らはあくまで趣味程度にしかやってないから」

「そうなんだ。ねえ、前も聞いたけど。森島君はどうして音楽を続けてるわけ? 曲を作るわけ?」

「自分のためさ。たのしいから」

「そう。あいつもそうだったのかしら?」

 八坂は根本まで吸い終えたタバコを、灰皿に優しく押し当てた。なんでだろう、その『彼』の話をするときの八坂はすごく物憂げで、しかし優しさに満ちてる気がした。

「まあいいわ。ライブ、行くよ。あなたたちのバンド、見てみたいから。いつなの?」

「来月の二十四日の土曜だ」

「オッケー、シフト空けとく」

 やがて八坂が持ち込んだレコードは最終トラックを再生し終え、針は溝から飛び上がった。再びノイズが走り始めて、僕らはそれを合図にマスターにチェックを頼んだ。値段は割り勘というか、八坂のが多く飲んでいたから、彼女が六割くらい出していた。

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