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 作詞のあいだに仕事をするのは、実は好きな時間でもある。なぜって、たくさんの言葉に触れることができるからだ。むろん書棚に排架してる最中に中身をかいつまんで読むなんて、そんなことはできないけれど。でも表紙だけなら見ることができる。

 表紙には、作者が込めた最高の言葉が書いてあると、僕は思っている。もちろんそうでない場合もあるけれど。たとえば新書で、それも翻訳となった場合には、訳者や出版社によって作者の意図が歪められているときがある。だけど小説の場合には、タイトルの一言にすべてが詰まっていると思う。そこには作品のテーマだとか、結末だとか、ギミックだとか、思想だとかが凝縮されている。そしてそれを描写するために、たった数文字の中であらゆる技法が用いられている。

 僕はそれを眺めながら、頭のなかでタイトルたちをバラバラにして、パズルのように組み合わせるのが好きだった。そうして歌詞を思い浮かべると、楽しかった。

 たとえば今日見ていておもしろかったのは、チャンドラーの『水底の女(The Lady in the lake)』だった。正直に言うと僕はチャンドラーを『長いお別れ』と『プレイバック』しか読んだことなくて、あとは悪名高いロバート・アルトマン版『ロング・グッドバイ』を見たぐらいで。フィリップ・マーロウについては表面的なことぐらいしか知らない。それこそ猫好きのエリオット・グールドが思い浮かぶくらいには、にわかだ。けれど『水底の女』というフレーズはすごくミステリアスで、暗く、陰鬱で、しかし幻想的な光景を思わせて。僕は二、三時間ほど湖中に漂う美女を思い浮かべながら、言葉遊びをしていた。そうしていると長く面倒な仕事の時間も、あっという間に過ぎるように思えた。


 午後七時には閉館作業を初めて、八時過ぎにはタイムカードを押していた。お局のおばさまたちは先にあがって、僕だけが最後の戸締まりの確認をしていた。

 商業施設が立ち並ぶ駅前のメインストリートにあるとは言え、さすが公共施設というか。ほかと比べても閉館時間は圧倒的に早い。入り口自動扉の前では、老婆たちが「あら、閉まってるわ」とか「これ今日までに返却なんだけど」とかしゃべっていた。僕にはどうでも良かった。

 最後にバックヤードの点検をすると、僕は上着とギターケースだけ取ってタイムカードを押した。このままスタジオで悟たちと合流する予定だった。

「お疲れさま、森島さん」

 そう声をかけてくれたのは、司書の笹山さんだった。この空間のなかで、彼女は数少ない正規職員だった。つまり僕ら非正規の契約社員ではなくて、市に勤めている公務員だった。

「お疲れさまです。残業ですか?」

「ええ、まあね。レファレンスの対応が残ってるのと、あと週明けに入ってくる資料の整理をね。まったく、最近は定時で帰れた試しがないわ」

「大変そうですね」

「まあね。いまどき図書館につける予算なんてないのよ。私、なんとか夢を追いかけて司書になったけれど。なったらなったで、待っていたのは人材軽視に人手不足だもの。まったく……」

「公務員は公務員で大変、ですか?」

「まったくよ。世間が言うほど安定なんかしてないわ」

 彼女はそう言うと、瓶底のように分厚いメガネを持ち上げ、オンボロのパソコンに向き合った。もうすぐOSがサポート切れになるというそれは、彼女の二代前のからの古強者だった。

「森島さんはこれからバンド?」

「ええ、まあ」

「いいわね、そういう夢を追いかけるのって。追いかけてる間は楽しいものよ。追いつくと、それまで見えてなかったものが見えてくるの。ずっと前しか見えてなかったけど、横とか裏とかが見えるのね。いまの司書の現状みたいに」

「わかりますよ。お疲れさまです」

「ええ、お疲れ」

 ギグバッグを背負い直し、僕は職場を出た。スマートフォンには、さっきからひっきりなしに悟から通知が着ていた。

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