3
翌朝、僕は珍しく郁より先に起きた。ほんとに珍しいことで、これは僕が朝帰りのときを除けば初めてだった。
だいたい朝六時ぐらいだったと思う。朝のテレビはまだ明け方の曇り空のなかで天気予報を伝えていた。
僕は二組のコーヒーとトースト、それから炒り卵、ボイルしたウィンナーを用意した。そしてそれらが冷めかかるのを待ちながら、コーヒーだけ飲みつつ、ペンをノートの上で転がしていた。朝にコーヒーを飲むとこんなにも目が冴えるのかと、久々に思った。
「ん……ねえ薫くん、私もしかしてまだ夢見てる?」
やっと目を覚ました――とはいえアラームにはちゃんと従ってる――郁が布団から這い出て言った。
「薫くんが私より早く起きてるなんて夢みたい。どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「違うよ。ただ、早く目が覚めたから。たまには二度寝せずにいようと思っただけ。それに、いろいろやることがあるから」
僕は机に並べたボールペンとノートを示した。使い古したモレスキンのノートは、長らくの僕の相棒で、思いついたネタはここにすぐにここへ書き付けることにしていた。
「作詞?」
「うん。ライブが決まったらしくてさ。また悟のやつが勝手に決めてるんだけど。それまでに何曲か詞を書き下ろさなくちゃいけなくって。いま頭を抱えてるところ」
「へえ。ライブ、いつやるの?」
「来月。もうすぐだ」
「じゃあ急がないと」
「ほんとに。今日練習あるから、遅れるかも」
「夕飯は?」
「わからない。もしかしたら悟と食べてくるかも」
僕はそう言いながら、コーヒーを飲み、ペンを走らせた。思いついた台詞。言葉。それを書き連ねていく。あてもなくフレーズを並べては再構築していくのが、僕の作詞スタイルだった。
郁はそんな僕の横に腰をおろして、トーストとコーヒーに手を着けた。テレビは芸能ニュースに切り替わり、離婚報道を垂れ流していた。
朝食を終え、郁が朝の支度を終えたころ、僕はまだ詞を書けずにいた。そして結局、作詞はあきらめて僕も朝の支度をすることにした。
食べ終えた食器を洗って、寝間着を脱いで、寝癖のついた髪を溶かして、適当にワックスを塗り込んで。それから適当なジーンズとシャツに着替えると、仕上げにわき腹あたりに香水を振りかけた。
それを見ていた郁が、すこし微笑んで言った。
「それ使ってくれてるんだ」
「ああ、香水のこと?」
うん、と郁は小さくうなずく。玄関先でパンプスに履き替えながら、彼女は忙しそうだった。
「私が記念日にあげたやつだよね。うれしい。ちょっとはオシャレに気を遣うようになった?」
「まあ。ライブも近いから、少しは身だしなみを気をつけなきゃと思ったかな」
「いいことだよ、それって」
郁は鼻を鳴らす。アパレルショップのベテラン店員である彼女にしてみれば、ダサいボーイフレンドが洒落っけに目覚めてくれるのはうれしいことなんだろう。とはいえ、僕には未だにオシャレのイロハもわかってなくて。郁に言われるがままに着てるだけだったけど。
「じゃあさ、薫くん。今週の木曜って休みだったよね?」
「ああ、その日は休館日だよ」
「私も休みだからさ。ねえ、デートしようよ」
「デート?」
「うん。冬服、見繕ってあげる。ライブ用の服も」
「そうだね。郁のセンスに任せておけばハズレないし」
「そりゃそうだよ。私、薫くんの服を選ぶことについては天才的だから」
郁は自慢げに言うと、パンプスのかかとをぐいっと押し入れた。
「了解。じゃあ二人のカレンダーに書き込んどく」
「うん、約束ね」
郁は玄関先に立ったまま僕に手を差し出した。細いゴールドの指輪がくくりつけられた手は、僕のことを招いてるみたいで――ああ、この指輪まだ大事につけてくれてるんだと思いながら。僕は、その手を優しく取った。
約束と行ってきますのキスは、どことなくコーヒーの味がした。
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