2
ノートに書き出した詩を眺めながら、僕は晩酌のウィスキー・ソーダを飲んでいた。とはいえ特売になっていたバランタインをウィルキンソンで割っただけのものだけど。谷さんが作るのと比べたら、まったく別物だ。
「なにそれ?」
ちょうど風呂上がりの郁がリビングに戻ってきた。濡れた髪をタオルで拭いながら、僕の隣に腰を下ろす。洗い立ての髪のにおいが僕は好きだった。
「歌詞。悟に頼まれて新しい曲を書いてるんだけど、どうにもうまくいかなくてさ。とりあえず思いついた言葉を適当に書き出してるんだ」
「へぇー、ちょっと見ていい?」
郁はそう言いながらも、僕が「いいよ」という前にノートを取り上げた。そしてあぐらを掻く僕の上に座り、僕の胸板を背もたれ代わりにした。
「夏、夕暮れ、カラス、宵闇、燃焼、煙、夕暮れ、初夏、戯れ、熱さ、冷たさ、オレンジ、アプリコット、音楽、理解者、すれ違い……どういう意味?」
「意味はないよ。ただ最近見聞きしたり、感じたものを書き出してる。それから歌詞を作ろうと思ってさ。ちなみに郁ならどんな詞を書く? いちおうメロディだけは悟が作ってくれててさ……」
と、僕は郁の脇の合間から腕を伸ばし、机上のスマートフォンを手に取った。脇の下をくすぐられた顔を真っ赤にする郁を、僕はそのままにでもテープを再生する。
スマホのスピーカーを引き裂くような爆音。それから一転、静寂。つま弾くようなアルペジオ。また静かにドラムスが入って、轟音の雨がごときサビに入る。僕がずっと考えていたのは、そのサビの部分の詞だった。
「どう何か感じた? この曲を聞いてさ」
「うん、なんだろ」と郁は少しだけ首を傾げてから。「真夏のゲリラ豪雨って感じ? 静かに晴れ間が出たと思ったら、またムシムシする感じ。ほら、このギターのぐわぁーんって感じとか?」
「なるほど。いいね、『真夏のゲリラ豪雨』もらい」
僕はそのフレーズをノートに書き記す。僕の殴り書きは、およそ他人には判読できない。郁なら読めるかもだけど。
「えー、私の思いつきを詞にしないでよ。恥ずかしい」
「いいだろ。バンドマンのガールフレンドは、いつ自分のことを詞にされてもいいよう覚悟しておくもんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
くるりと、郁が僕のほうへ首だけ回した。
数秒間、視線が合った。僕は一瞬、ノートに目を落とそうとしたけれど。郁がそうさせなかった。
「こっち見て」
そう言うときの彼女は、彼女でないと僕はよく知っていた。ああ、仕事でつらいことでもあったのかと、僕は彼女の身を案じた。
「うん、香」
僕がその名を呼んだ次の瞬間には、香は僕の唇を奪っていた。密着した身体は押し倒され、布団を床に敷く暇さえ与えてくれなかった。
*
結局その晩、寝たのは十二時過ぎだった。郁はそれまで僕を寝かせてくれず、しばらくのあいだ香で居続けた。僕を耳元に抱き寄せては「名前、名前で呼んで」と隙間無く囁いていた。だから僕も応えるみたく「香」と彼女の名前を囁き返した。そのたびに背中へ伸びた指が肩甲骨のあたりを撫でまわし、吐息は耳たぶを揺らした。
やっと香が満足すると、僕の胸元に顔を埋めて眠った。いつも香はそうやって消えていく。そうして消える間際に、郁が現れて言うのだ。
「ごめんね、薫くん。私って変な女だよね」と。
僕はその言葉に何を返すでもなく、ただ彼女を抱きしめ返す。そうする以外に何をすれば郁の罪悪感が紛れるかわからなかったし。言葉が見つからないから。
だけど、今日は少し違った。
「ごめんね、薫くん。でもね」
――でもね
その枕詞に続けて、郁は言ったのだ。
「どこにも行かないでほしいんだ、私。たぶん薫くんの前じゃないと、こうなれないから」
「……知ってる」
だって、僕らはパズルの凹と凸みたいなものだから。磁石のSとNみたいなものだから。異質な物だからこそ、それは深くつながりあえて、許容し合えるものなのだと知っているから。
でも、僕は胸の奥と腹の奥底にくすぶりを覚えていた。深く抱きしめる郁の身体に、僕の分身は静かに頭をもたげていたのだ。
この日、僕は何度か香を満足させたけれど。僕は満足していなかった。香のふんわりとした肌を握りながら、僕は今日、自分が一度として果てていないことを気づいた。そして、いまだ僕の分身は頭を垂れていることにも。
そうして郁が眠ると、僕はスマートフォンを片手に布団を這い出た。そして外に出る気もないのに、上着を手に取り、トイレに入った。年代物のシャワートイレに腰掛けると、僕は何度も何度も熟考してから、結局それを実行することにした。
上着のポケットに隠された一箱のタバコ。ハイライト・メンソールのソフトケースの中に一つ、チェ・ブラックが紛れ込んでいる。僕はそれを震える指でつまみ上げて、自分の唇まで運んだ。そうして吸うわけでもなく、ただ銜えたまま天井を仰ぎ見た。目を閉じればすぐに思い浮かぶ。ガールフレンドの笑顔ではなくて、よりにもよって八坂未彩のあの冷め切った表情が。赤い髪ウルフカットがオレンジ色のポニーテールに変わり、血色の悪いヴァンパイアのような化粧で僕を見つめる。カラコンでも入ってるみたいな黒い瞳を見たとき、僕は胸がすくような思いだった。
「……八坂……!」
気づけば僕は、彼女のチェ・ブラックをついばみながら、ペニスを右手で強くしごいていた。果てるまでに時間はあまりかからなかった。
トイレットペーパーに受け止められた精液は、本来であれば郁の膣に吐き出すべきだった。なのに僕は、八坂のことを思いながら、紙切れの上に吐き捨てている。僕は罰が悪い気分になって、どうしようもなくなって。かといってそのトイレットペーパーを流す気にもなれずに。拳の中で丸めてから、トイレを出た。
トイレから出ると、郁が眠たげに寝返りを打っていた。寝息のような声を漏らしながら、彼女は僕がいた場所をさすりながら、その体温を感じていた。
「薫くん? 起きてるの?」
「ああ、ちょっと目がさえて。のどが渇いたから、コンビニにでも行ってくるよ。郁はなにかいる?」
「そうだね……朝食用のパン、残り少ないから。買っといて。八枚切りね」
「了解。行ってくるよ」
そう言うと、僕は上着だけ羽織って外へ出た。上着のポケットには丸めたティッシュと、そしてタバコとマッチとがあった。
あたりはすっかり暗くなっていた。アパートの前には街灯が一つだけあるが、最近はずっと切れかかっている。点いたり消えたり、モールス信号みたく発光しては、蛾を引き寄せたり突き放したりしていた。
僕は自販機で頼まれていた食パンと、缶コーヒーを買うと、タバコとマッチ箱片手に公園に向かった。いつもの、あのコウモリが飛び交い、サックス型の噴水が噴き上がる公園だ。
園内はひどく静かで、もちろん僕以外には誰もいなかった。野良猫とコウモリぐらいはいただろうけれど、しかしこの寒空の下、青姦でもしようという根気あるアベックはどこにもいなかった。
僕は噴水前のベンチに腰を下ろすと、タバコに火をつけようとして、辞めた。脳裏にさっきまで抱きしめていた郁のことを思い出したからだ。彼女のために禁煙していた自分は、ここ最近どこかに消えつつある。僕は、その僕を取り戻さなくちゃならなかった。
灯したマッチは、タバコの代わりにあのティッシュに点けることにした。八坂を思って吐き出してしまったあれだ。炎に触れるや、ティッシュは瞬く間に燃えだした。空気をいっぱいに吸い、吐き出すみたいに。全身をあっという間に焦げ付かせて、どこかに消えていく。残ったのはタンパク質が焦げた匂いだった。
僕はその匂いを嗅ぎながら、夜空を見上げた。この街には大した明かりもないくせに、空は星明かりが見えないぐらい暗い。どこかに散ってしまった星空は、僕を見下ろし、闇の中へを誘うようで。むしろ僕は闇を見ていると、心の中にぽっかりと空いた穴の輪郭をなぞってくれているみたいで、安心した。
そうしてしばらく、夜の冷たい空気を吸ったり吐いたりしていると、スマートフォンが小さく揺れた。なにを期待したんだろう。八坂からのメッセージとでも思ったんだろうか? 二連続で鳴ったビープ音に惹かれて開くと、一通ずつメッセージが来ていた。一つは悟で、もう一つは郁だった。
〈どこ行ったの?〉と郁。
〈来月ライブが決まった〉と悟。
僕は郁のメッセージにだけ「散歩してた。今帰る」とだけ返事をして、公園を後にした。肺には暗く冷たい空気がいっぱいだった。
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