第三部 秋 『秋空のブルーアッシュ』
1
性格も趣味も何もかも噛み合わない僕と郁とが付き合いだしたのは、悟の紹介が理由だった。
「薫、お前もいい加減ガールフレンドの一人や二人作ったらどうなんだ。そんな堕落した生活ばかり続けてないで」
性にも音楽にも何に対しても奔放な悟にそう言われたのは、僕がもっとも堕落しきってた時期だった。つまり大学を出た直後で、まだ図書館のバイトすら決まってなかった時期で。そのころの僕と言えば、日雇いの仕事で食いつないでは、紅茶とタバコだけで腹を満たし、ギターを弾き、文学にかぶれて、汚い四畳半の部屋で無精髭を掻いていた。
「いまは必要ない」
たしか僕は、そう言って悟の誘いを断った気がする。だけどやけに悟がしつこいので、四度目ぐらいの誘いで乗ったのだった。あのころ僕らはまだお互いに紙巻き煙草を吸っていて、喫煙所の片隅でそんな話をしていた。夏が来る前の、嵐吹き荒れる梅雨のころだった。
そうして僕は、残暑が尾を引く九月に郁と会うことになった。事前にお互いの顔写真だけはもらってたけど、それ以外は本当になんの事前情報もなかった。彼女がどんな音楽が好きで、映画が好きで、文学が好きなのか、悟は何も教えてくれなかった。今思えば、それは教えるも何も「存在しなかった」だけなんだと思うけれど。
初めての逢瀬の日には、僕はそれまで伸ばしていた髭を剃り、クローゼットの中から比較的きれいな服を選んだ。昔買ったリーバイスのジーンズと、ソニック・ユースの『ウォッシング・マシーン』のTシャツ。それから古着屋で買った薄手のジャケットだけ羽織って出掛けた。
待ち合わせ場所は隣町にある小さな喫茶店だった。予約したのは悟で、すべてヤツの手の内にあったと言っていい。駅前からは少し外れた、小高い丘の上にある喫茶店で、テラス席からは公園が見えた。九月だっていうのに初夏みたいな暑さで、欅の木も青々と茂っていた。
正直に言うと、僕は遅れてきた。五分ぐらい。だから予約されていたテラス席にはすでに郁が待っていたのだ。
僕はてっきり怒られるかと思った。初めましてからこんな有様では、すぐに愛想を尽かされてしまうと。けれど、彼女はそんな嫌味ひとつ口にしなかった。ただ朗らかな笑みを浮かべて、注文もせずに僕を待ってくれていたのだ。
「ごめんなさい、遅れちゃって」
「大丈夫です。私もいま来たとこなんで。あの、森島さん……ですよね?」
「ええ。芳丘さんで合ってます?」
「はい、そうです! えーっと、あの、せっかくだしそういう堅苦しいのはなしにしません? 古橋くんの紹介だし、私あんまりかしこまったのは苦手なの。いいかな? あ、注文どうします? 私は紅茶がいいかなって思うんだけど。森島くんは?」
「じゃあ、僕も同じのを」
そうして僕らはミルクティとケーキセットを囲むことになった。郁はミルフィーユを心底おいしそうに食べていた。頬張る、という言葉がまさしく似合うように。フォークにいっぱいのクリームを口に運んでは、シマリスがそうするみたいに頬を膨らませていた。
しばらく僕らはどうしようもない雑談を続けた。趣味の話。仕事の話。学生のころの話とか、いろいろ。
だけどしばらくすると、僕はこのデートに来るべきじゃないと思い始めていた。暑いし、彼女には気を遣うし、僕のタイプとは言い難いし、会話は弾まないし。僕はこの場にいることが苦痛に思えてきていた。
「そう言えば薫くんって、古橋くんとバンド組んでるんだよね」
紅茶が飲み終わること、郁は僕にそう聞いてきた。それも当たり障りのないありきたりな問いだった。
「ええ、まあ。『ナギサニテ』ってバンドでギター弾いてる」
「すごいよね、それって。私には出来ないよ、そういう何かを作るっていうこと。ねえ、薫くんはどうして音楽をやろうと思ったわけ?」
「それは――」
†
それは、そうすることでしか自分を表現することができないからだった。そうすること以外に表現する方法を知らなかったからだった。図書館の契約職員である僕には、そこで自分を表現する方法なんて知らなくて。ただ無知な老人に本を並べて渡すしか出来なくて。そんな日々のうちに思うことを、ある瞬間に爆発させたくなる。それが僕の音楽だと、最近はそう思い始めていた。
あるいは、まだ僕は高校時代の僕にすがりついているのだと。しがないフリーターに過ぎない自分を否定するために、幼かったころの自分になる方法として、ギターを弾いているのだと。そう思いたいけど、思いたくない自分がいた。
†
「――たぶん、そうしたいから、そうしているんだと思うよ」
僕はぶっきらぼうにそう言って、紅茶を飲んだ。自分でもバカなことを言ったと思った。せっかく郁が僕のために話題を振ってくれたのに、僕はそれを無碍にしたのだから。
それから僕らは紅茶を飲み、スコーンを食べ、近くの公園をゆっくり散歩してから別れた。
帰り際、僕は悟に〈僕と彼女は合わないよ。性格も趣味も違うんだ〉とメッセージを送ったけれど。でも数日後には、また僕らは二人でデートをしていた。特に理由はないけれど、お互いの凹凸を嵌め合わせるみたいに、性格が違うS極とN極とが引き合うみたいに。互いを気遣いながら、少しずつ近づいたり離れたりする距離感が心地よかった。
そうして気づけば僕らは付き合っていたし、同棲を始めていた。たぶん僕は郁のような気が利く女性に甘えたかったし、郁は郁で僕のような優柔不断な男を探していたのだと思う。
初デートの帰り際に僕が送ったメッセージに、悟るはこう返した。その言葉をいまでも僕は覚えている。
〈いや、合うはずだ。薫、お前は優柔不断で青臭い男だし。芳丘さんはメサイア・コンプレックス持ちのお人好しで、でもどこかに浮島を捜している甘えん坊だから。だからお前が彼女の浮島になるんだよ。適度に沈没したり、浮き上がったりする島にな〉
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