9

 八坂の背中が夕闇の向こうに消えてからも、僕は一人漠然とタバコを吸い続けていた。休憩時間があとどれくらいかだとか、悟たちを待たせてるなとか、そんなことはまったく頭になくて。脳裏に浮かんで消えるのは八坂のオレンジ色の髪と、そして詞の断片だった。

 八坂にもらったチェをより分けて、僕はハイライト・メンソールを一つ呼び出した。火をつけ、煙を吸うと、彼女の髪が頭のなかでさざ波を打ったような気がした。そしてその波が寄せては引くたびに、波音のように詞が浮かんでは消えていった。ぼんやりと音の輪郭だけが見えて、言葉の骨格は見えてこない。意味のない、取り留めもない音の羅列だけが頭によぎり、それが適当な言葉を伴って、ふっと指先に現れる。僕はとっさにスマホヲ取り出すと、浮かんだ詞をメモ帳に書き殴った。

「ここにいたか」

 ヴァースらしきワンフレーズを書いたとき、誰かが喫煙所に押し入ってきた。悟だった。

「悟か。もう休憩は終わりか?」

「いや。俺も休憩しようと思って」

 そう言うと、彼は懐から電子タバコを取り出した。見慣れない黒いチューブ状のそれは、電源スイッチを押すと七色に光り出した。

「てっきりお前は辞めたと思ったよ、タバコ」

「やめてるよ。これは電子タバコだ。味のついた水蒸気を吸っているだけだよ。なにせ今のボーイフレンドがタバコ嫌いだからな。吸ってると、キスを拒まれる。隣で寝るのも許してくれないんだ」

「ああそう」

 僕は少しだけヤな気持ちになって、ハイライトのにおいが生乾きの雑巾のように感じられた。僕は悟の生々しい私生活の話を聞くのがイヤだった。特に彼のセクシュアリティの話なんかは。別にバイセクシャルになった悟を否定するわけではないけれど、彼の赤裸々な性事情の暴露は、なんだか罰の悪い思いにさせられる。

「まだ”男の時期”なのか?」

 僕は雑巾臭くなったハイライトを吸いながら言った。

「まあな。ここ一、二年はそうだ。おかげでリクに振られた。思えば俺たちはよき友人だったが、恋人じゃなかった」

「その言葉、二年前のリクに聞かせてやりたいよ。男に恋人を寝取られた女の気持ちを、お前に想像させてやりたい」

「そうは言うが、俺はそういう人間だ。セクシュアリティだ」

「浮気性なバイセクシャルだって言えよ」

 そう言うと彼は黙ってしまって、おもむろに電子タバコを吸い出した。あとから気づいたのだけど、雑巾臭いのは彼の電子タバコのその水蒸気だった。

「そういえばあの子はどうした? あの、派手な髪をしたパンク娘は」

「パンク娘って、八坂のことか? 彼女ならさっき帰ったよ」

 僕がそう答えると、悟は深いため息ともうなずきとも言えない声をあげた。

「しかしお前が女を連れてくるなんて思わなかったよ。それも芳丘さん以外だなんて」

「そんな意外か?」

「というよりも、予想外だった。お前は女といるイメージがない。芳丘女史を紹介したのだって、お前の女っ気がないからだっただろ?」

「まあ、そうだけど。でも、僕はそんなにモテない男に見えるか?」

「モテないというよりも、お前は女の子といてもいつも楽しそうに見えないんだよ」

 悟はそう言って、深く煙を吸い、吐いた。性格には水蒸気だ。キャラメルみたいに甘い匂いがじんわりと空中に広がった。

「どういうことだ?」

「そのままの意味だよ。お前は女性といてもなにかぎこちないよな。芳丘女史とは良きパートナーって感じだが。でも、それも楽しさ以上にビジネスパートナー的な側面が強い気がするんだよ。お互いの傷を舐め合うために一緒にいるというか、お互いの傷と傷の形が符合したから、一緒にいるというような。そういうものを感じる」

「否定はしないよ」

 実際、その通りだと僕はここ数ヶ月ぐらい思っている。

「だけど、あの八坂という女性といるとき、お前は心底楽しそうだったよ。心の底からあの子といることを楽しんでいるように見えた」

「べつに、音楽や映画の趣味が合うだけだ。お前とさして変わりないよ」

「そうか? お前は楽しそうだったよ。俺が悔しくなるぐらいに」

「どうしてお前が悔しくなる?」

「ギターを弾いてるときより楽しそうだからだよ。『ナギサニテ』よりお前はあの女を取りそうな気がする」

「バカ言うなよ。僕は音楽をやりたいし、すでにガールフレンドがいる。郁を裏切るわけないだろ」

 そう言ったけれど、でも心の内では本当にそう断言できるか疑ってしまう自分がいた。


     †


 僕は八坂のために曲が作りたい。

 彼がかつての男を忘れられるような曲を。

 彼女の奥底に染み着いたその記憶を、

 すべて吹き飛ばしてしまうような

 曲を

 詞を

 音楽を、

 書きたいと思っていた。


     †

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