8

 トーキングヘッズを弾き終えると、八坂が小さく拍手していた。僕は彼女の燃えるようなオレンジ色の髪を見て、なんだか気恥ずかしくなった。

「続けよう。何となくだが、俺はパンクをやりたい。それもスカした感じのパンクが」

「いつもそうじゃないの」

 奥でリクがトゲのある口調で言った。思えばこれが、今日僕が初めて聞いたリクの言葉だった。

「それもそうか。俺はスノッブだからな。メロディはこんな感じがいいと思ってるんだが……」

 そう言うと、悟は床に転がっていた小さなキーボードを手に取った。おもちゃみたいに小さい鍵盤を巧みに操って、彼はなんとなしのメロディラインを紡いだ。もうだいたいの曲の構想はできていたらしい。僕はそれを聞きながら、なんとなくコードを鳴らし、それからリクが適当にリズムを付けて、曲は少しずつ出来ていった。

 一時間ぐらい僕らは没頭して、何となくのフレーズはできていた。

「じゃあ、いったん休憩しよう。とりあえずコード進行は固まったし。俺はその間に歌メロを考えるよ。だから歌詞は頼んだ」

「はいよ」と僕。

 作詞はいつも僕の担当だった。元文学部だからという適当な理由で押しつけられたけれど、僕は作詞するのはキライじゃなかった。良い詞を書けた試しはないけれど、でもイヤじゃなかった。

「僕はちょっと外の空気吸ってくるよ。地下は息が詰まる」

 僕はそう言いながら、心の中ではタバコを吸うことを考えていた。郁には禁煙したと言っているのに、最近は吸ってばかりな自分がいる。そんな自分がイヤになるけど、でもまた僕は上着のポケットにハイライトを忍ばせていた。

「わたしも行くわ」

 スタジオの端で座っていた八坂が立ち上がった。僕は後ろをついてくる八坂を止めなかったし、悟もリクも止めなかった。それに、八坂にもわかってたんだと思う。僕はタバコを吸いに行くって。だから彼女は僕についてきた。


     ♪


 思えば僕は、彼女のために吸っていたのかもしれない。八坂のために。彼女の死んでいく季節と、変わらない音楽のために。


     ♪


 スタジオ兼用とは言えラブホテルなのだから、喫煙室はもちろんある。一階のフロント脇、非常口へ向かう道すがらに、ガラスで区切られた空間があった。先客は居らず、僕と八坂の二人きりだった。ラブホテルには少し早すぎる時間なのかもしれない。

「どう? 元カレの気持ちは少しわかったか?」

 タバコに火をつける。同じタイミングで八坂もチェ・ブラックに火をつけた。

「まったく」

「そう。少しの参考にもならない?」

「まあ、少しはなったけど。あのさ、わたしずっと不思議だったのよ。カレの書いた曲って、まるでわたしの人生そのものを歌ってるみたいなの。わたしの人生のその隅々まですべてを知っているようで、そしてその隅々に散りばめられた無数の傷という傷を、優しく撫でてくれる……。そんな気がするのよ。

 でもね、カレがそんなふうにわたしのことを想ってくれているはずがないのよ。カレはわたしのことなんてどうでもよくて、わたしがいくら尻尾を振ったとしても、鞭で叩きつけてくるような。そういう男だったから」

「それでもカレが好きだった?」

「ええ。でも正直言って、”付き合っていた”って言うのはわたしの主観にすぎないのだけれど。そうなのよ。わたしはカレが好きだった。あの人の曲だけが、わたしの生きている意味を作ってくれた。あの人はわたしのことなんてどうでもよかったのにね……。ねえ、どうしてあの人にはそんな曲が書けたと思う? ねえ、どうして人は音楽を作るの? どうして詞を書くの? どうして歌うの?」

「そうだね。少なくとも僕の場合は――」

 僕は、どうして音楽をしているんだろう?

 そう言えば、郁と付き合いだしたときも同じことを聞かれた気がする。あのとき僕はなんと答えたんだったか。たしか適当なことを言ったんだと思う。ありきたりな、当たり障りのない、退屈な台詞を。


     †


「薫くんはどうして曲を書くの?」

「わからない。でも、そうしたいから、そうしてるんだ」


     †



「誰かに声に出して読んでもらいたいんだと思う」

 僕は八坂の質問にそう答えた。口から漏れる紫煙とともに、こぼれ落とすみたいに。

「どういう意味?」

「さあ。でも何て言うか、自分が作った意味だとか言葉だとか響きだとかが、誰かの口から発せられたり。形を変えて誰かの耳に残るっておもしろいと思うんだよ。こうして会話してる内容なんて三日もすれば忘れてしまうのに、歌にすればしばらくは覚えてるだろ。だから、僕は詞を書くんだとおもう」

「誰のために?」

「誰かのために」

「ふぅん」

 突然、八坂は興味を失ったみたいな乾いた返事をした。そうしてまだ半分しか吸ってないタバコを灰皿に押しつけた。

「そういうふうに考えてるのね」

「少なくとも、僕は」

「ちょっとは参考になったかも。でも、わからないの。どうしてあの人はわたしを理解できたんだろうって。わたしのことなんて興味のなかったくせに」

「それは僕にもわからないよ」

「でしょうね。誰も他人のことなんてわからないはずなのに。わたしはどうして未だにあの男の歌に縛り付けられているのか……もう、抜け出したいのにさ!」

 もみ消したタバコを灰皿の中に押し込むと、八坂はぱっと飛び起き、僕の前でくるりと半回転。青白い笑みを浮かべて、僕を見つめた。

「だから思うの、言葉は呪いだって。それはときに夏の日差しのごとく輝いて人を勇気づけるけれど、あるときは凍てつく鉄風のようにわたしたちを呪いにかけてしまう。そういうものなのよ、きっと。少なくとも、わたしにはそう」

「そして君は、呪いを解いてくれる王子様を探している?」

「あるいは別種の呪いをかけてくれる魔女かもね」

 八坂は二本目のタバコに火をつけようとし、そしてやめた。黒いチェのパッケージを上着に押し込むと、彼女はとたんに真顔になった。ブルーベースの八坂の表情は、青色の季節ですべてが止まったみたいだった。夏のようなオレンジの髪とは正反対に。

「わたし、帰るわ。今日は楽しかった。あなたたちのバンド、嫌いじゃないわ。好きでもないけどね」

「ありがとう。まずはカレを乗り越える第一歩だな」

「そうね。ねえ、また会える?」

「まあ。どうせ僕は君のバイト先に行くだろうし。客として」

「そうじゃなくて。客とバイトとしてじゃなくて、一個人同士としてよ」

 ――それって、デートの誘いってことか?

 僕はそう言おうとしたけど、やめた。脳裏に郁の顔が映ったからだ。八坂と二人で寝たことがフラッシュバックし、郁の冷め切った表情が思い起こされた。優しい郁が滅多に見せない、冷たい顔が。

「……じゃあ、またTのバーで会おうよ。レコードを持ってくるから」

 僕は郁に喉を締め付けられるような思いになりながらも、何とか言葉を振り絞った。そのときの僕は、唖か何かに見えたに違いない。

「決まりね。約束だから」

 すると、八坂はしまったはずのタバコをおもむろに取り出した。そうしてパッケージの底を叩き、チェを一本拾いあげると、それを僕に差し出した。フィルターを僕のほうへ向けた。

「約束の証拠に。お互いのタバコを一本ずつ交換しておかない? で、Tのバーで交換してまた吸うの。約束の証拠」

「そんなの約束、初めて聞いたよ。とんだ指切りげんまんだ」

「そうね、大人の指切りげんまん」

 そうと決まれば、僕もハイライト・メンソールを一本拾い上げて彼女に渡した。お互いのパッケージに一本ずつ仲間外れがやってきた。そいつは醜いアヒルの子みたいによそよそしそうにしていた。

「じゃあね。古橋さんと、舟渡さんによろしく」

「伝えとくよ」

 吸いかけのハイライト・メンソールの炎がフィルターに侵食したころ。八坂は喫煙所を出て、駅へ向かって歩き出した。外は暗く、もう夜更けが近づいていた。

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