5
夕飯はクリームシチューで、僕が帰ったときにはすでに皿によそうだけになっていた。
白米の上にたっぷりのシチューをかけ、僕らはそれをじっくり食べた。それから二人がかりで洗い物と、残り物のタッパー詰めをした。こういうとき洗い物は決まって僕の担当だった。
「今日遅かったね。電車混んでたの?」
郁はタッパーにご飯を冷蔵庫に入れながら。
「まあ、帰宅ラッシュだったし。ちょうどいい時間の列車を乗り過ごしちゃったからね」
「あるある。東京なら五分おきに来るのに」
「まあ、そこが地方都市の良いところでもあるよ。東京ほど時間に縛られてないから」
時間に縛られたくない。
思えば僕が東京の大学を出て、この地方に戻ってきたのもそういう理由からかもしれない。就活をやめて、図書館でフリーターとしてダラダラしているのも。郁と二人で何げなしに過ごしているのも。迫り来る老いだとか、ライフステージだとかいうステロータイプな規範や縛りに嫌気がさしたからかもしれない。
そう思うと、僕は少しだけ悟のやつの言う言葉もわかる気がした。たまには発散したいって、ヤツの言葉が。
「私、先にお風呂入っちゃうけど。いいよね?」
「いいよ」
僕は鍋にこびりついた油汚れを落とす。安物のスポンジは油を吸ってネチョネチョと音を立てていた。
「ありがと。じつは明日も早いんだよね」
「大丈夫? シフト、けっこう入れてるでしょ。最近」
「そうでもないよ。ただ季節の変わり目だからさ、そういうタイミングってけっこう繁忙期なのよ。アパレル関係ってさ」
「そうなの?」
「そうなの。あ、それからさ。薫くんの冬物の服もまた選んであげないとね。じゃないとまたダサい服着るでしょ。ヨレヨレでシワの寄ったシャツとかさ」
「まあ、着るだろうね。僕はオシャレに無頓着だから」
「ダメだよ。バンドマンらしく少しは外面もカッコよくしないと」
「かもね」
鍋にあふれた水をひっくりかす。あふれた湯が風呂から吹き出すみたく、シンクの中を滞留した。
郁が風呂に入り、僕が入り、そして布団を敷いたころには二十二時を過ぎていた。八坂が仕事を終わるタイミングであり、あの瞬間からおよそ三時間が経過していた。
「電気消すよ」
「ああ、おやすみ」
「うん。ねえ、おやすみのキスしてよ」
「いいけど。どうして? いつもはしないのに」
「うん、なんだか疲れてるからさ。夢の中ぐらい、少しでも良い夢が見たいなって」
「そう。……ねえ、郁って呼んだ方がいい? それとも――」
僕がそう言って寝返りを打つと、郁は問答無用で唇をぶつけてきた。僕の上唇と、下唇、それから舌の先とを舐めあげると、彼女はまた布団の中に潜り込んだ。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
――郁。
あるいは、香。
三十分としないうちに郁は眠りについた。僕が布団の中でイヤホンを着け、音楽を聴きながら悟にメッセージを送っても、彼女は目を覚まさなかった。
〈起きてるか?〉と僕は送信。
既読はすぐについて、しばらくして返事が戻ってきた。
〈寝るとこだったが。どうした、薫?〉
〈週末の件、一つ相談があって。友人を一人呼びたいんだ〉
〈友人? 誰だ?〉
〈おまえの知らない人だよ。ただ僕らのバンドを見てみたいって〉
〈ファン?〉
〈いや。でもよく言えば潜在ファン〉
〈かまわないが。そうだな。そいつ、なにか楽器はできるか?〉
〈わからない。たぶんできないと思う〉
〈そうか。まあ来てもかまわないと思うが。別に減るものでもないし、潜在ファンなら好都合だ〉
〈じゃあ、呼んでいいんだな?〉
〈おまえが言う相手だ。相談するまでもないだろう?〉
〈ありがとう、それじゃ連れてくるよ。じゃあ週末に。おやすみ〉
〈おやすみ〉
僕はスマートフォンをの明かりを落とした。
そのときから僕はやんわりと考え始めていた。郁の体温を背中に感じながら、スマートフォンの熱を指先に覚えながら、悟たちとのバンドのことを思いながら。
「八坂のために曲を作りたい」と。
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