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翌朝、僕は仕事に出た。郁は休みで、僕が布団から這い出ても起きることはなかった。それだけ昨日は怒りと悲しみに任せて、香になっていたのだと思う。
郁が洗濯してくれた服に着替えて、僕は仕事に出かけた。今日は目覚ましいほどの快晴で、秋空には似合わぬ夏のような暑さだった。おかげでジャケットが邪魔で仕方なかった。
暑さのせいかわからないけれど、今日はやけに利用客が多かった。まあ確かにエアコンが効いていて、何時間も自由にのんびりできる公共施設と言えば、図書館ぐらいしか想像できない。新聞のストックコーナーは、浮浪者みたいな格好をした老人たちの吹き溜まりになっていた。
こういう日は、そのわりに貸し出しの客があんまりいないから楽だ。平日なのもあったけれど、僕は返却された本を指示通りに並べるだけで時間が過ぎていった。ときおりむかっ腹を立てた老人に宛のない怒りをぶつけられたけれど。僕は香にそうするように優しく受け止めてあげた。
†
「香はそのままじっとしてて良いから」
「香は動かないで。僕がしてあげるから」
「香は悪くない」
「香は」
†
昼休みになって、僕はまた喫煙所にいた。郁と付き合いだしてから禁煙を意識してきたのに、なぜかだここ数日妙に吸いたくなる。ハイライトに火を灯すとき脳裏に浮かぶのはやはり八坂未彩だった。
あの晩以来、僕は八坂と話していない。連絡先は知っているけれど、メッセージも送ってないし、送られてきてもない。あの日の礼もしてないし、店にも行ってない。なにか言わなきゃと思ってたけど、でも郁のことを思うと何もできなかった。
「……せめて礼ぐらい言っておかないとな」
そういえば八坂はあの日こう言っていた。「朝は不機嫌だから、昼過ぎに連絡して」と。今はちょうど午後一時過ぎだし、まあいいだろう。
八坂の連絡先を開きながら、いったいなんて言うべきか考えた。
「あの夜はありがとう」
違う。
「また店に行くよ」
違う。
「またTのバーでレコードを聴こう」
それも違う。
じゃあ、なんて?
言葉が紡げなくて、僕はタバコを吸った。
「またあのコンビニでタバコを吸おう」
何を言ってるんだ。
僕は情けない自分を呪いたくなって、刻々と迫る休み時間の終わりに苛立ちを覚えた。
そんな矢先、通知がきたのだ。
でも、八坂かからではなかった。
それは、古橋悟――僕のバンドメンバーからのメッセージだった。
〈新曲を作る。週末にスタジオに来てほしい〉
*
悟とは長い付き合いだが、ヤツから曲を作ろうなんて話が出るのは珍しかった。ともすれば空から槍が降ってくることのほうが、まだ自然だと思えるぐらい。それぐらい不自然だった。なにせアイツは、何もかもが『
〈かまわないけど。どうしたんだ急に? おまえから曲が作りたいだなんて珍しいな〉
僕はそれだけ送って、昼休憩を終えた。
悟からの返信は三十分後ぐらいしたらやってきた。ズボンのポケットの中で携帯がブルブル震えてたから、何通か送ってきてるんだろうなとわかった。
もっとも仕事中にまじまじ読めるはずもないから。僕が返事を確認できたのは、二時間ほど過ぎたあとのこと。トイレ休憩がてらの五分休みだった。
僕はこぎれいな大便器にでんと腰掛けると、ズボンもおろさずにスマホを開いた。悟からの長文がつらつらと来ていた。
〈別にこれと言った理由はない。ただ、やりたいと思っただけさ〉
〈つまりだな。俺たち『ナギサニテ』が活動を始めてから、もうかれこれ二年――その前の『ザ・ドレーズ・トレインズ』のころも含めたらなんだかんだで六年近く活動しているわけだが。俺にはいま、どうしても過去に作った自分の曲がピンと来ないんだ。つまりだな、この感覚はなんというべきだろう〉
〈……いや、要するに俺は、日々の仕事漬けの生活に嫌気が差し始めているのかもしれない。今の仕事は好きだし、ずっと続けていたいと思う。だけれど、たまに違うことがしたくなる。刺激がほしくなる。音が炸裂し、弾け飛び、吹き飛び、魂が形となって折り重なり響きあう、あの瞬間を今一度味わいたいと感じたんだ。わかるか?〉
〈……って、そうかおまえは仕事中だったら。すまない、この仕事を続けてると時間の感覚を見失う。すまない。時間が空いたら返事をくれ。週末、いつもの駅前のリハーサルスタジオを取っておく〉
〈リクのヤツにも伝えておくよ。あいつが一番やりたがってたしな。じゃあ、返事を待ってる〉
まったくこの男は、自分のペースだけで生きている。僕はヤツの打ち込んだ文面を見て、一瞬読む気を失った。まあ、最終的には頭からお尻まですべて読んだけれども。僕が抱いたのは「素直にバンドで合わせたくなったと言え」ということだった。悟は昔からそうだが、建前を気にするというか、あまのじゃくで面倒くさい男なのだ。
〈わかった。土曜の午後からなら空いてる〉
僕はそれだけ打つと、個室を出て、水道の蛇口で顔を洗った。図書館の水道はなぜかいつもぬるく、そして鉄臭かった。
鏡に写る自分の顔は、びっくりするぐらい疲れて見えた。
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