第二部 夏 『太陽のようなアプリコット・オレンジ』
1
――郁、ごめん。
「薫くん、ねえ、薫くん」
――郁、ごめん。
「薫くん、そこ、もっと」
――ごめん。本当に、ごめん。
「そこだよ、うん、ねえ、薫くん」
――心から謝るよ。
「ねえ、ねえ、名前呼んでよ。私の名前、ねえ」
――ごめん、こんな僕でごめん。
僕は裸の郁を抱きしめ、耳元でその名を囁いた。
「香、愛してるよ」
*
八坂と一晩過ごした翌日の夜のこと。僕は久しくガールフレンドの身体を抱いた。その感触はしばらく忘れていたもので、そして僕が思い出すべき感覚だった。
布団のなかでうずくまりながら、僕は背中側から彼女を抱きしめ、ただ深呼吸した。郁は黙って首だけ動かして僕の顔を見ていた。
「ねえ、昨日どこ行ってたの?」
仕事帰りの郁は、疲れも相まって苛立っていた。いつも朗らかな笑みを浮かべてる彼女には、らしくないシワが眉間に寄っていた。
「言っただろ。悟といたんだ。いや、同僚のほうじゃなくて。ベースのあいつだよ。そろそろ新曲でも作ろうって話になって、夜明け過ぎまで二人で曲を作ってた」
僕は嘘をついた。
僕のギターは、今朝までこの家にあったし、悟とは一週間ぐらい連絡を取ってなかった。何もかも嘘だった。
でも郁はそれを受け入れたみたいで。代わりに僕の肩を抱いた。
「じゃあいいけど。どこかに行くなら、先に連絡してよ。心配になるから」
「うん、ごめん」
――うん、ごめんね。郁。
郁から僕を求めるときは、たいがい僕が彼女を傷つけたときと相場が決まっている。だから僕がガールフレンドの寝顔を見るときというのは、決まって罰が悪い思いになっている。
初めてしたときも、そしていまも。僕らのセックスにはいつも気持ちよさと罰の悪さが表裏一体になって付いてくる。それは僕のせいでもあり、郁のせいでもあった。
郁は完璧な女性だ。僕が不完全で、どうしようもない未熟者だとしたら。彼女は完璧だと思う。もちろん世の中に完全無敵の存在なんていないけれど。でも、僕にしてみれば彼女はそうだった。
僕と郁は、三つしか年が変わらないけれど。彼女が僕より多く過ごしてきたその三年という歳月は、何倍にも濃縮されて郁の中に蓄積されているんじゃないかと。僕らの過ごした時間に相対性理論は通用しないんじゃないかと、たまに思うときがある。
だけど、もちろんそんな彼女にも欠点は存在していて。それが発覚したのが、僕が初めて彼女の肌に触れたときだった。
†
「あのね、薫くんだから言えるんだけど」
郁の両腕に指を這わせたとき、彼女は震えながらそう言った。
「なに?」
「名前、呼んでほしいの」
「郁」
這わせていた指をおなかへと滑らせる。中指の先端で臍の周りとぐるりと一周してから、僕はゆっくり下腹部に近づいた。だけど、そのとき気づいたのだ。彼女の蜜壷がまったくのがらんどうで、砂漠のようであったことに。
「違うの。してくれるのはうれしいんだけどね、だけど私……」
「郁がイヤなら、やめるよ」
「だから、違うの。薫くんのことは好きだし、私だってしたいの。けどね、でも……」
「でも、なに?」
「名前、呼んでほしいの」
「郁」
耳元で囁く。ティファニーの香水の匂いがする。でも彼女は体をわなわなと震わせるだけ。感じるというよりも、恐れるみたいに。
「違うの」
「違うって、何が」
「名前。あのね、名前で呼んでほしいの。郁じゃなくて、妹の名前で。
「どうして?」
「どうしてだろう。でも、そうしないとダメなの。だからいろんな男の人に気味悪がられるんだけど……あのね、私って双子なの」
「初耳だ」
「うん。実はね、妹がいるはずだったの。私、お姉ちゃんになるはずだった」
「はずだった?」
「死んじゃったの。私が生まれたときに。それが香」
「そう。……香って呼んでほしい?」
「うん」
「香」
「うん」
「これでいい?」
「うん。そう呼ばれると、なんか安心する」
「そう。ねえ、香……?」
下腹部のさらに下へと指をおろす。郁――いや、香は僕を受け入れてくれた。甘い囁き声とともに。
†
ガールフレンドが隣で寝息を立てるのを見て、ほかの女の子のことを思い浮かべるなんて。僕はなんて愚か者なんだろうと思う。けれど、寝そべる郁の姿を見ても、僕の脳裏には八坂未彩のことがこびりついて離れなかった。焦茶色の郁の髪を撫でながらも、僕は八坂の赤いウルフカットのことを考えてしまっていた。
「香」
僕は八坂のことを忘れるため、彼女の名前を呼んだ。そして首筋に顔を埋めて、目をつむることにした。考えごとをしたら自然と眠れる気がしたから。八坂のことを考えずに済む気がしたから。
*
かつて郁に「どうして死産した双子の名前で呼んでほしいんだ?」と、ストレートに聞いたことがあった。そのとき彼女は、「どうしてだろう」と首を傾げてから、気恥ずかしそうに「でもそうしたら濡れるから」と答えるきりだった。
だけど僕には一つの仮説があって。それはつまり郁の弱さが『芳丘香になること』ということだと考えている。
郁は完璧な人間だ。仕事も家事もそつなくこなすし、愛想が良くて職場の人間からの評価も高い。よく同僚から頼りにされては、食事に誘われているし。人間関係にも欠点はない。でもそんな生活、絶対に疲れるはずだから。虚勢を張り続け、ずっと元気なフリをしているのが彼女の悪いところだから。だから、死んだ妹になるのだ。虚勢を張らなくてする人格の生むために。頑張りやさんの芳丘郁でなくて、欠点だらけの甘えん坊な芳丘香になるために。
「そうだろ、郁」
焦茶色の髪に鼻を埋めながら、僕は郁に謝り続けた。僕が彼女にできることと言えば、こういうことだけ。彼女が弱さを見せられる瞬間をつくってあげる。それだけだから。
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