9
どうしてついて行ったんだろうって、僕は彼女のアパートに着いてから思った。
生活感がまったくない、まるで独房みたいに無機質な部屋。使われた形跡のないキッチンに、汚れ一つないゴミ箱。フローリングの床の上にはベッドだけがあって、テーブルはどこにもなかった。カーテンは閉め切られているし、テレビもパソコンもない。家電は冷蔵庫と洗濯機とエアコンの三つだけで、そのどれもが備え付きのもののようだった。
僕の隣には、いま八坂未彩が寝ている。赤い髪はそのまま、大型犬のように布団の上に倒れ伏せってる。シャワーも浴びなかった。ただ香水の香りがすべてを誤魔化してくれていた。
家に着くなり、八坂は上着を脱ぎながらこう言った。
『はじめに言っておくけれど、君と寝るつもりはないわ。でも、別に君のことが嫌いなわけじゃなくて。むしろ素敵だと思うけれど。ただ、今日はそういう気分ではないの。疲れているの』
そう言うので、僕は八坂の隣に横になるだけだった。
僕らはただベッドの上で二人横になった。僕が背中から八坂を包み、八坂は子犬のように丸くなった。僕はもう少しだけ彼女との会話を楽しみたかったけれど、八坂はすぐにイヤフォンをしてしまった。
「わたし、ずっと探しているの」
彼女は寝物語の代わりにイヤフォンを耳に指しながら言った。再生されるのは、言うまでもなく彼女が愛したオトコの歌だった。
「なにを?」
「いつかこのカセットテープを聴かなくて済むような、もっとわたしのことを理解してくれる、わたしのための音楽が現れるって。そう信じてるし、探してるの」
「そう」
「それまではこれを聴いて眠るわ」
「そう。おやすみ」
「うん、おやすみ」
彼女は不思議な寝顔をしていた。すうすうと寝息を立てる姿はとても穏やかなのに、その表情には怒りとも悲しみとも見えない色があった。
僕は八坂の耳から漏れる曲を聞きながら、優しく髪を撫でた。それだけでなんだか満たされる気がした。
そうだ。僕は一瞬、八坂に惚れてしまいそうになった。でも、すぐに我を取り戻した。たぶん彼女はかつてのオトコと別れたように、こうしていくつもの男と出会っては、別れ、また出会ってきたのだろうと。そう感じたから。そして僕はそんな彼女の中の無数の「昨日までの誰か」の一人に過ぎないのだと、そう感じ取ったから。
†
だけど後悔しなかったと言えば嘘になる。
午前二時過ぎ、酔っぱらった郁から怒濤のようにメッセージが送られてきたから。
でも、僕はそれをすべて無視して、八坂の髪を撫でていた。
彼女の耳から漏れるロックミュージックを聞きながら、その日の彼女との会話を思い出していた。それがいかに満たされていて、どれだけ幸福な時間だったかを思い出していた。
そして郁のことを思い、どうしようもない罪悪感に苛まれた。
あのとき、布団を畳まなかった瞬間と同じように。
いや、あれ以上に。
†
僕が目を覚ましたのは、朝の七時のことで。なぜかと言えば八坂が起きたからだった。僕らの体は汗臭く、そして吐息はタバコ臭かった。彼女が「今日は寝ない」と宣言したのは、正解だったなと僕は思った。
「出てって」
起き抜け早々、八坂はボサボサの赤髪をかきむしりながら言った。
「朝のコーヒーも、シャワーも貸す気はない。だから、出てって」
「かまわないけれど」
「じゃあ、いいわよね。出てって。わたし低血圧で、朝は機嫌が悪いからさ。あんまり人と会いたくないのよ。だから、もし今度会うなら――」
彼女はベッドを這い出て、質素な部屋から何かを探す。鞄を見つけると、その中から取り出したのは大学ノートとボールペンだった。ノートに何か書き殴ると、八坂はそのページだけ切り破って、僕に渡した。
「ここへ連絡して。朝はだめ。機嫌が悪いから」
「わかった。昼過ぎにする」
「うん、お願い。ありがとう」
そうしてノートの切れっ端と、四組のレコードだけもって、僕は八坂のアパートを出た。外はカラスが鳴いていて、夜のコウモリたちはどこかに消えてしまっていた。
僕は、郁に謝罪のメッセージを送ってからアパートに帰った。八坂のことはもちろん言わなかった。バンド仲間と朝方まで飲んでいたと、そういうことにしておいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます