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 僕は三杯目にホット・バタード・ラムを頼んだ。最近は寝酒代わりによくこれを頼んでいた。

 八坂はスコッチ・ウィスキーをストレートで頼んだ。「わたし、けっこう強いのよ」そう言いながらグラスを持つ手は、少しだけ震えていた。

「あと二つのレコードは? 聴くの?」

 八坂はチェ・ブラックの底を叩いて、中身を確認する。ゲバラの頭のなかはカラッポで、ニコチンは底をついていた。

「いる?」

 と、僕がハイライト・メンソールを渡すと、彼女は首を縦に振ってみせた。

「ありがと。銘柄もさ、すぐに乗り換えちゃうの。この前まではアメスピのターコイズだったし、その前はラッキーストライクだった」

 ハイライトに火をつける。ゆったりと紫煙を肺に取り込むと、それを絡めるみたいにウィスキーを舐めた。

「ハイライト、意外とおいしいね。また乗り換えるかも」

「八坂には、自分の好みとか、そういう決まったモノはないの?」

「どうだろ。タバコに関してはあまり感じない。そのときどきで味覚や嗜好が違うから」

「食事や、仕事や、ファッションとかも?」

「そうね。今日は小洒落たパスタの気分だけど、明日は家庭的な肉じゃがが食べたいって日があるじゃない。あれと同じ感覚なの、基本的に。まあでも、しいて一つだけあげるとすれば……」

 と、八坂は灰皿にハイライトを置き、代わりにその手を上着のポケットへ突っ込んだ。やがてシルバーアクセにまみれた指は、手帳サイズのメカニックを取り出した。

 シルバーメタリックのボディ。イヤホンジャックに差し込まれたのは、古めかしいカナル型のリモコン付きイヤフォン。ボディ側面のボタンにふれると、カシャッと小気味よい音を立てて手帳は開いた。しかし中からはページではなく、カセットテープが飛び出した。

「なにそれ」

 と、僕は思わずタバコを置き、身を乗り出した。

「カセットウォークマン。ずいぶん昔のモノよ」

「いまどき珍しいな。どこでそんなものを」

「もらったのよ。このカセットテープをくれた人に。このウォークマンで、この曲を聴いてほしいって渡された。わたしね、この曲が好きなの。この曲以上に好きな曲って、存在しないの。だから、これ以外の音楽って好きになれないのよ。それが、唯一のわたしのこだわりかな。……ねえ、聴いてみる?」

「いいの?」

「いいわよ。減るもんじゃないし」

 イヤホンの先を手に取ると、八坂は僕の耳に押し入れてくれた。彼女の冷え切った指が耳たぶに触れて、すこしこそばゆかった。

「再生するわ」

「どうぞ。ちなみに、なんてアーティスト?」

「覚えてない」

 再生。ピッ、とレトロな電子音が響く。メカノイズ。カセットが回転運動を始める。ホワイトノイズ、そして誰かがカウントする。男の声、それからドラムスティックを叩きつける音。

 そしてギターが炸裂した。

 すべてを吹き飛ばすような深いディストーションだった。ブツブツと太く切れるような歪みは、もはやコードの構成音をかき消してしまっている。ローファイなサウンドといえばそうだが、しかし雑音のような音楽と言えばそれまでだった。

 たぶんこれは、僕がそう思うだけなのだろうけれど。僕のほうがよっぽどうまくギターが弾けると、そう思ってしまった。


     ♪


 そのカセットテープには四つの曲が収録されていた。一曲はおよそ四分くらいのスタンダードな感じで、ノイズの利いたローファイなサウンドから、ディレイを多用したシンプルでクリーンのアルペジオまで。曲の幅は広かったけれど、どの曲も雑音混じりのノイジーなサウンドで、そしてボーカルは泣き叫ぶみたいだった。


     ♪


 すべて聴き終えたとき、八坂は四杯目のウィスキーに手をつけていた。アルコールに強いと自称していたが、ここまで来ると彼女の声音にも二日酔いの予兆が見えだしていた。

「これ、誰の曲なの?」

 僕はぬるくなったラムの最後の一滴を舐めてから、ハイライトに火をつけた。

「オトコよ」

「そりゃそうだろ。女の声じゃない」

「そうじゃなくて。わたしが愛していたオトコの歌なのよ」

「ボーイフレンドってこと?」

「そう。わたした唯一本気で愛した恋人のこと。わたしが浮気をせずに、一途になれたかもしれないオトコの歌なの。まあ、バンドマンってみんなクズだって。そのときやっと気づいたけどね……。ねえ、森島くんもそうなんでしょ?」

 タバコを右手に持ったまま、彼女は頬杖を突いて僕を見た。「キミもそうなんでしょ?」って。上目遣いの悪戯な笑みとともに。キミもわたしと同じ、渡り鳥のように浮気で、でも一途になりたくて、だけど結局本当に好きなものからは裏切られて。アンバランスのなかで均衡保っている。そういう人間なんでしょ? って。そう言われている気がした。彼女の目は、僕の心情のすべてを見透かしているような気がした。

「まあ、少なくとも大学出て定職に就かず、音楽続けてるやつは、世間一般が言うではないよ」

「だよね」

 彼女はそう言って微笑んだけれど。でも、その笑みを僕は喜んでいいのか、どうかわからなかった。


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