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 僕はシワの寄ったコットンシャツの上にジャケットだけ羽織ると、小脇にレコードと財布を抱えて外へ出た。

 よく冷える夜だった。スプリングコートぐらい羽織ってくるべきだったと後悔するぐらいには。


 僕には、郁に秘密の場所がいくつかある。彼女が僕の知らない友人たちと遊ぶように。僕にも彼女の知らない場所が必要だった。

 その一つがバーで、それはアパートから歩いて十五分ほどのところにあった。

 古ぼけた集合住宅。きっと昭和の時代には羨望の的であったろう、地上七階立てのマンション。その一階に、その店はあった。焼鳥屋とスナックに挟まれて、ちょこんと立つ狭めの扉。開けば、そこにはカウンターとテーブル席が二つ並んだ小さなオーセンティック・バーが広がっている。

「いらっしゃい」

 馴染みのマスターが軽く会釈した。もはや常連客な僕は、いつものように端っこの席に腰を下ろし、静かに灰皿を取り寄せた。

 店内には、ポール・ウェラーの『ブロークン・ストリート』が流れてた。ぜんぶマスターの趣味だ。彼は八〇年代にギターキッズとして青春を過ごした人間であり、この店はそんな彼のセンチメンタリズムの濃縮体であるようだった。店のそこここには、それを証拠づける品々が並んでいる。ポール・ウェラーを響かせるレコード・プレーヤーに、壁に掛けられたエリック・クラプトンモデルのギター。それから数々の名曲になぞらえられたオリジナルのカクテル。なかでも『レディ・スターダスト』というジンベースのオリジナル・カクテルは僕のお気に入りで、ここに来るといつも頼んでいる。最近では黙っていてもそれが出るようになった。

「また何か買ったの?」

 マスターがそう聞くので、僕はタバコに火をつけてから、抱えていたレコードをカウンターの上に広げた。このあいだ買ったスロウダイヴと、ブッチャーズ。それから先々週あたりに買ったブラーのライヴ盤。持ってきたのはその三つだった。

「あとでかけてもらえます? あ、でもそのまえに腹ごしらえ。パスタって、今日なんですか?」

「ボロネーゼだけど。食べる?」

「ええ。それから、スコッチ・アンド・ソーダを。レディ・スターダストはそのあとで」

「了解」


 パルミジャーノ・レジャーノを散らした小洒落たボロネーゼは、とても自宅で作れるタイプのモノじゃない。ちゃんとした目利きが選んだ赤ワインで半日かけて煮込んだトマトソースは、そこらのフレンチ・レストランに並んでも遜色ない。

「バーじゃなくて、レストランでもやればよかったのに」

 挽き肉の最後の一欠片を、僕は卑しくもフォークですくって食べた。そのころにはもう十一時を回り、さすが平日か客もまばらになり始めていた。

「だって面倒じゃない、レストランなんて」

 マスターはグラスを拭きながら言った。

「毎日毎日大量に仕込むのって大変なのよ。そのパスタだってね、いつも俺の気まぐれで作ってるだけだからね。ちゃんとしたレストランじゃそんな適当できないからさ。俺はね、楽しくやりたいの」

「谷さんのそういうとこ、僕は好きですよ」

 谷というのがマスターの本名。僕も一ヶ月ぐらい通ってやっと知った名前だった。

 そう言えばこの店の名前は、『T』というけれど。それはT-REXと、谷のイニシャルからとったという。シンプルな名前だから、僕は嫌いじゃなかった。

「そうかい? まあ、つらそうにやってる店に客が寄りつくわけないじゃない。楽しくやらないと、お客さんもこないものだからね」

「そうですね。じゃあ、二杯目ください。それから、レコードを」

「了解」

 小さく会釈すると、エプロンとグレイヘアが揺れる。客がまばらになって常連だけが残ると、谷さんの緊張もやんわりほぐれてきている。なんというか、気の置けない友人とフランクに話せる感じ。僕らは一回りも二回りも年は違うけど、でも友人のような気がしていた。

 ただ、そのフランクな雰囲気もひとたび客が来ればピリッとするわけで。ドアベルのカランコロンという音は、店主にとって良い知らせでもあり、しかし一人の人間としてはあまり良い知らせでもなかった。

 そして僕にとっては、何よりも良い知らせだった。

「いらっしゃい」

 谷さんがそういう先、なんだか気恥ずかしそうに入ってきた客がいた。

「あの、一人なんですけど」

 女性の声だった。それも、聞き覚えのある声。僕はその声音に背筋を逆撫でされる気分がして、思わず振り返った。そして、言葉がでた。

「あ、」

 僕と彼女、二人そろって音が漏れた。口の中から、空気が抜け出るみたいに。

 そこにいたのは、八坂未彩だったのだ。

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