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翌朝、目が覚めると郁はもう出掛けていた。僕が抱きしめていたのは彼女の残り香と、布団の残った静かな温もりだけだった。
十五分ぐらいウダウダしてから、布団を這い出た。ダイニングテーブルには置き手紙とラップに包んだオニギリがちょこんと置かれていた。
「『ごめんなさい、今日は会社の歓迎会なので遅くなります。ご飯は一人で食べてください』、ね。なるほど」
ラップを剥いて握り飯にかじり付く。中身はチーズとトマトという洋風おにぎりだった。というか、昨日の残り物だ。
僕はおにぎりをすべて食べ終えると、ラップと一緒に置き手紙を握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てた。
僕が自堕落になろうとすればいくらでも墜ちれつことを、郁はよく知っている。性格や趣味が正反対な僕らがこうしてやっていけてるのは、それが大きな理由なわけで。そう考えると、僕らは恋人というよりはパートナーという言葉のほうが似合うと。最近の僕はそればかりを考えている。
今日も僕はまんまと寝坊して、布団を片付けるのを忘れ、無精髭も剃ることなく。ただパーマのかかったボサボサ髪だけは丁寧に整えて、家を出た。職場に出てしまえば、僕は有象無象の図書員の一人であるし。利用者の誰も、僕が非正規のパートタイマーだなんて知らないだろうし。僕が何の本を並べているかなんて、誰も気にしないだろうから。
仕事は嫌いじゃない。食うためには必要なことだし、夢だけでは生きていけないことは、腐るほど学んできた。
大学で文学を中途半端に学びつつ、中途半端に弾いたギターでアーティストをかぶれていた僕は、就活前線で敗戦を喫した。それはミミズが鳶に挑むほど自明な争いだったけれど。でも僕は矢面に立つことを逃れられず。いまはこうして本を運んでは並べるだけの仕事をしている。もっとも、ガールフレンドのヒモと呼んでしまえば、それきりなのだけれど。
あるとき同僚のお局様が僕のことをこう話していた。
「森島さんって、年上の女の子のアパートに寄生してるそうよ。ほんと、ああいうのをダメ男って言うのよね。娘にはそんな男好きにならないようにって口酸っぱくして言わないと」
そんなこと僕もわかっている。だけど、こういう生き方しかできない不器用な人間なのだから、仕方ないだろう。むしろ僕は、そんな言葉をわざと本人に聞こえるように囁く彼女の図々しさに、気が滅入って仕方なかった。
僕だって、ほんとはやめたいんだ。
休憩時間、僕はよく喫煙所に行く。
僕がつとめている図書館は、町外れの公園の近くにある。隣には大きなコンサートホールがあって、しょっちゅうウィーンだかパリだかの交響楽団が出稼ぎに来る。すぐそばの公園は、営業マンたちの昼寝場所として名高い。そしてすべからく喫煙所も彼らの憩いの場になっている。
僕は図書館を出て、公園の喫煙所に入った。大樹の陰に隠れた喫煙スペースは、ドロに汚れた煉瓦敷きの床に、二つ灰皿が置かれている。一つはいつも空き箱がねじ込まれていて、もう一つはヘドロのにおいがして最悪だった。
お気に入りのハイライト・メンソールに火をつけて、僕はお局様の言葉と、郁のことを思った。最近、僕は彼女の優しさに気持ち悪さを覚える。そしてそれに甘んじている自分に嫌気がさす。そのくせ、僕はまた彼女が嫌いなタバコを吸っている。今夜は彼女が家に戻らないと、そう知っているから。
「布団、畳んどけばよかったな」
紫煙を吐きながら、ぼんやりと僕は思った。
*
本を並べ、老人の対応をし、本を並べ、老人の対応をし。それから僕は職場を後にした。タイムカードは嘘の時刻を予言していた。
それからイヤフォンを指し、僕は一人家路に着いた。レコード屋に郁はいなかったし、もちろん部屋にもいなかった。
「ただいま」
言うまでもなく、返事もなかった。
明かりをつければ、敷いたままの布団がそこにある。僕が這い出た抜け殻のように。掛け布団と敷き布団との狭間には人型をした這いずり痕がある。僕はそれを指でなぞりながら、シワを伸ばし、畳んだ。部屋の隅に布団を追いやると、喉につかえていた何かが落ちたような気がした。
「そういや女子会だったか。どうせ終電だろうな」
まだ時刻は九時過ぎ。飲兵衛たちには早い時間だ。彼女らの女子会がそうそう終わる時間なはずがなくて。やはり僕は外食するしかなかった。
僕はテーブルの上にあったティッシュ箱を手に取ると、その裏にボールペンで置き手紙を綴った。
〈飯食ってくるから、遅かったら先に寝てて〉と。
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