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 あのレコード屋のいいところは、深夜までやっていることだ。店主曰く、「上客のほとんどは会社勤めの中高年だからね。彼らのために日中よりも、夕方から夜遅くに店を開けることにしているんだ」とのこと。お生憎様、僕は勤め人の中高年じゃないけれど、でも店主の気遣いには感謝していた。音楽にあまり関心がない郁の目を盗んで、好きなだけ趣味に浸れるのだから。

 店内にはさっきよりも客がいた。

 七時過ぎには僕と郁しかいなかったのに、九時をまわった今ではスーツ姿の男性が二人と、バンドマンらしい青年が一人、レコードの群をかき分けている。

 僕もそのなかに紛れようとしたけれど。でも、僕が狩りたい獲物はすでに決まっていたから。

 ブラッドサースティ・ブッチャーズ。僕はそれだけ抱きしめると、一目散にレジに並んだ。ただ、僕はそこで初めて気づいたのだ。

 レジに立つのが、いつもの店主でも、気だるげなバンドマン風のアルバイトでも、モヤシのような大学生の男でもないことに。

 そこに立っていたのは、はっと目を見開かせるような姿をした女性だった。

 赤く煌めくウルフカットの髪と、それに隠された青白い膚。泣きはらしたような黒い瞳と、つんとした鼻先。タータンチェックのパンツが似合う彼女は、静かに僕からレコードを奪い、値札を確認した。

「一点で五五〇〇円ですね。ポイントカードはお持ちです?」

 ぶっきらぼうに聞く彼女に、僕はすこし心奪われた。財布から一万円札を引き抜くのをためらうぐらいに。

「どうも。一万円からお預かりで」

 さっさとレジスターからお釣りを引き抜き、それを僕に手渡す。

「どうもありがとうございました」

「ああ、どうも」

 僕はろくな言葉を発することなく、レコードを抱えて、足早に店を出た。


 ――あんなバイト、この店にいたか?

 パンクロックみたいなドギツいメイクに、人形みたいに赤い髪。そして消え入りそうな美しい瞳。七〇年代のハードロックを愛するこの店に、なんとも似つかわしくない女性だった。

 僕は彼女のことを思いながら、しばらく散歩した。イヤフォンを耳にさし、ウォークマンでストリーミング再生する。さっきレコードで買ったブッチャーズだ。なんだか無性に聴きたくなって、聴きながら夜の散歩をしたくなった。

 僕らのアパートの近くには、少し大きめの公園がある。噴水と美術館がある公園で、でも夜になるとコウモリの群が巣を作って不気味でもある。もっともそのおかげで夜のデートスポットには向かないから、僕みたいな一人で散歩に来る人間にはちょうどいいのだけれど。

 そこで一〇分ぐらい音楽を聴いて、何となく自由を感じたら、アパートに戻る。たまに夜の散歩に出るときは、いつもそうしている。コウモリがバサバサと音を立てて飛んでいくのを見ながら、闇の中に僕は一人なんだなと思うと、どこか胸のすくような思いになるのだ。それが気持ちよくて、時折そうしに来る。

 そうしてコウモリが帰ってくるのを見届けたら、僕はコンビニにでも寄って帰ろうと思った。寝酒に何か発泡酒でも買って、郁の横に何事もなかったみたいに戻ろうかと。


 コンビニは近くにいくつかあるけれど、僕は二番目に近いセブンイレブンによく行く。理由はいろいろあるけれど、最大の目的はタバコの品ぞろえが良いことだった。もっとも、郁とつき合いだしてからはすっかり本数は減っているけれど。

 コンビニの軒下にある灰皿は、決して喫煙所というわけではないと。むかしどこかで聞いた。ただ火のついたタバコを消すための場であり、吸うための空間ではないのだと。でも、それを守っている人間なんてどこにもいないし。僕だってそんなルールを守るつもりはなかった。

 そしてまた、先客の喫煙者もそうだった。

「あ。」

 先客の姿を見たとき、僕は思わず言葉を漏らしてしまった。

 真っ赤な髪をした女がそこにいた。シルバーアクセサリーでいっぱいの指で、タバコを摘んみあげている。

「さっきはどうも」

 彼女は言葉で会釈しながら言った。でも、顔には愛想も何もなくて、会釈もなかった。無表情でタバコをくわえたまま、言葉だけが愛想を振りまいていた。

「ああ、さっきのレコード屋の……アルバイトの人?」

「正解。といっても、一昨日から勤めだしたとこだけど。そういうあなたは? あの店の常連さん?」

「そんなところです。家から近いので、あの店」

「そう。常連さん。じゃあご贔屓にしてもらわないと」

 言って、彼女は紫煙を吐いた。ご贔屓に、なんて言う彼女は、でもそんなこと頭の片隅にも置いてないみたいで。誰に気に入られることなんかどうでもよくて、ただ好き勝手にしているだけみたいだった。

「まあ、冷やかしで帰ってくことのが多いので。そんな期待しないでください」

 僕もタバコを探す。上着のポケットに吸いかけのハイライト・メンソール。先週末に買ったまま、上着にねじ込んだままだった。でも、最悪なのは火を忘れたことだった。いつもポケットにマッチを一箱忍ばせているのだけど、このときは空箱が入っているきりだった。

「火、いります?」

 仕方なく空箱を灰皿にねじ込んでいると、彼女が言った。差し出されたのはロンソンのオイルライターだった。

「借ります」

「どうぞ」

 オイルライターで火をつけるのなんて久しぶりだ。灰いっぱいに吸い込んだハイライトは、いつもより少し味が違う気がした。少しだけ油と、それから香水のにおいがした。

「ありがとう。でも珍しいですね、いまどき女性で喫煙者なんて。なに吸ってるんです?」

「チェのブラック。このコンビニ、品ぞろえがいいのよね。それでよく来るわけ」

「なるほど。僕がここに来るのと同じ理由だ」

「へえ。でも、吸ってるのはハイライト・メンソールなんてけっこう渋め」彼女はクスリと笑った。「もしかして椎名林檎にでもあこがれたとか? あの人、昔吸ってたよね」

「むかしむかし、大昔にね。たしかに僕も少なからず影響は受けた」

「へぇ。あ、お兄さんもしかしてバンドマンとか?」

「ギタリストだよ」

「お、大正解。どういう曲やってるんです?」

「オルタナとか、ドリームポップとか、そういううやつ。そういう君も、なんかバンドやってそうな――」

「キミじゃなくて、ヤサカ。ヤサカミサ。八つの坂に、未だ彩りあらずと書いて八坂未彩。ちなみにバンドマンじゃないです。聞くのは好きだけれど」

「そう。なんていうか覚えやすい名前だ」

「でしょう? そういうお兄さんの名前は?」

「森島薫」

「へえ、カオルって。なんか女の子みたいな名前」

「よく言われる」

「でしょうね。だけど、かわいい名前。少なくともわたしは嫌いじゃないかな、カオルって名前」

 言って、八坂未彩は吸いさしのチェ・ブラックを灰皿にねじ伏せた。力にモノを言わせて、間接をへし折るみたく。タバコの目をねじ切って、火種をもみ消した。

「じゃ、また店に来てよ。売り上げに貢献してくれると助かります。店長、頑張ればボーナスくれるって言うんで」

「そう。じゃあ、僕がほしそうな掘り出し物を仕入れておくれよ」

「そうですね、店長に口酸っぱく言っておく」

 彼女はそう言うと、上着のポケットからイヤホンを伸ばし、耳の穴を塞いだ。外界からの情報をすべて封殺するみたいに。自らをこの夜のなかで浮かび上がらせるみたいにして、八坂未彩はコンビニをあとにした。

 僕は、夜風に揺れる彼女の赤い髪を目で追っていた。テールランプのように尾を引くそれを、ずっと。


 僕はしばらくタバコを吸ってから、家にこっそり帰った。郁はすでにまだ眠っていた。僕が布団の中に潜り込むと、郁は少しだけ寝返りを打ち、僕の頬を撫で、そして名前を呼んだ。けれどそれは寝ぼけた彼女がよくすることだった。

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