第2話:水神と生贄
むかしむかしあるところに水神がおりました。
人々から水神様と呼ばれ、祀られ敬われていましたが、水神自身は神だと名乗ったことはありません。時折自分の住処を訪れる人間が自分のことをそう呼んだから、そうなのかと了解しただけでした。
水神は人間に興味がありませんでした。人の世にも興味がありません。自分が快く過ごすために貯めた泉のおこぼれをありがたがる人間をただそこにいるな、と思っているだけでした。
ある日のことです。何やら禍々しい気配が、水神の住処である泉がある山の頂上へ向かって、えっちらおっちら、登ってくるではありませんか。どうやら何人かの人間が担いでいる輿の中にそれがいるようです。じっと観察しておりますと、その輿を泉の淵に置いた人間がむにゃむにゃと何かを唱えます。どうやら水を与えて欲しい、と言っているようでした。なおも水神が観察しておりますと、そのうちに輿を置いたまま人間たちは山を下りていきました。
水神は水底からそろりと這い出て、その輿を観察しました。輿に施された装飾が陽の光を受けてきらりきらりと光ります。さてこの悪趣味をどうしたものか、と水神が考えておりますと、輿から人間がひとり、出てきました。禍々しい気配はその人間が発しておりました。水神には年若い人間に見えました。どこもかしこも薄く細く、まるで枯れ枝だな、と水神様は舌を出しました。薄布を被り、水神に口上を述べる神官と似通った礼服を着た人間は、全身から呪いの気配と臭いをぷん、とさせてそこにおりました。出した舌が痺れるほどの気配に水神は美しい眉根を寄せました。
これはどういうことなのだろう。人間は自分を奉っているものばかりかと思っていたが、それは思い違いで、自分の泉を穢しにきたのだろうか。
人間はペタリ、と地面に跪いて静かな所作で
「水神様に伏して願い奉ります。
アネシュカと名乗った娘の言葉はなにひとつして水神の心には響きませんでした。
――この人間は嘘をついている。
出していた舌をしまって、水神はするりと姿を変えました。本性の大蛇の姿です。ぐぐ、と顔をアネシュカに近づけました。舌を顎にかけて、顔を上げさせます。怯えている者を見るのはなかなか楽しいものでしたので、アネシュカもどんなに怯えるのかと思ったのですが、アネシュカの顔色は変わりませんでした。それもそのはず、アネシュカの顔はひどい有様でした。呪いが染み付き、眼も呪いで濁っています。これでは水神の本性も見られないでしょう。
「お前が
「――はい」
これは本当でした。なんとも妙な人間だ、と水神は本性を溶かして、人間の姿になりました。はくり、とアネシュカが開けた口の中にも呪いが溢れかえっていました。これでは喋るのにも難儀したことでしょう。ここまでの呪いを受けてどうして喋ろうという気になったのか、水神は珍しく人間に興味が湧いて、アネシュカの両の瞼に口付けて呪いを食べてやりました。それから唇にも吸い付いて、溢れる呪いを腹に収めてやりました。
「流石にいっぺんにお前の呪いを食い切れはせんが――吾が腹を壊すからな。これで見るのも喋るのも少しは楽になったろう」
水神は呪いを消化しながらそれを吟味しました。知り合いの気配がしました。そうして、この呪いはアネシュカが受けたものではなく、アネシュカ以外の、赤の他人が神に呪われたものであり、その呪いをアネシュカが引き受けさせられたのだ、と理解しました。まだ消化しきれない呪いが腕を侵して水神の肌の色を変色させましたが、問題はちっともありませんでした。水神ならば数日もすれば消えるものです。目の前のアネシュカとは違って。
指先すら隠す長さの袖の下にある皮膚がどのようになっているのか、気になった水神は無遠慮にアネシュカの着物の袖を捲りました。
「これは、また」
アネシュカの腕もまたひどい有様でした。呪いで歪んで、爛れて、腐っていました。きっと全身がこの調子なのだろう、とすぐに察した水神は瞳孔が細くなりました。痛みで動くのすら難儀しているはずです。
「それで、他人の呪いを引き受けてやったお前がなぜ吾の贄になんぞなっている」
「それ、は……」
アネシュカが咳き込みました。腹の中、身体中に及んでいる呪いがアネシュカを苛んでいるのでした。
「いや、いい。喋るな。四日もあれば呪いの消化が終わる。そうすればまた呪いを食ってやるから、それから喋れ」
水神にしては珍しく温情のある提案でした。けれどアネシュカは怯えたように、恐るように首を振りました。何事か喋ろうとしてさらに激しく咳き込みます。
「喋るなと言うのに。なかなか強情だな」
面白い玩具を見つけた気分で、水神はアネシュカを抱き上げました。足ももちろん呪いでひどい有様でしたので、とても歩けそうになかったからです。どうやって輿から出てきたのか不思議なほどでありました。
「……村の、旱魃、を……どうか……」
それでも咳き込みながら訴えるアネシュカに水神は片眉を上げました。
「それはお前の働き如何だな」
アネシュカを抱き上げたまま泉の底に戻ろうとして、ふと気づきました。
「お前、水の中で呼吸はできるか?」
アネシュカは力なく首を振りました。
※※※
水神は自分を祀る人間が勝手に泉近くに建てた社にアネシュカを住まわせました。水神が呪いを腹に収めるたび、なぜだか暴れましたが、水神は構わず呪いを腹に収め続けました。
一度、水神を詣に来た人間が呪いに塗れたアネシュカを化け物呼ばわりをしてから、水神は人間が訪れる時はアネシュカを隠すようになりました。確かに呪いに塗れたアネシュカの外見はそれはもう酷いものです。ですが、アネシュカの魂は水神がこれまで見てきたどの人間よりもうつくしいものでしたので、それが分からぬ人間にアネシュカを化け物呼ばわりされたのがひどく腹立たしかったのでした。
アネシュカは滑らかに喋れるようになると、春の到来を喜ぶ小鳥のように頻りに「村に水を」「村に水を」と囀るものですから、水神はとうとう折れました。
「水神様、どうか村に水をお与えください」
「わかった、わかった」
呪いが薄まってきたとはいえ、歪んで爛れて腐った手足が直ちに戻るものではないので、水神はアネシュカを抱き上げて運びました。最初は恐縮している風だったアネシュカも、今では水神が行くぞ、と言えば素直に両手を広げるのでした。水神はまず山頂に登ります。周囲が全て見渡せる場所に立ち、お前の村はどちらだ、とアネシュカに語りかけました。
「あちらです。あの山とあの山の間に私の村があります」
「随分遠いところから来たな」
山の神に頼らなかったのか、と言えばアネシュカは唇を噛みました。
「遠くの水神様に頼らねばならないほど深刻な旱魃なのです」
「そうか」
そうだろうな、と口には出さず、水神は水脈に溶けました。水脈を辿って、アネシュカの村がある山の麓に出ます。水脈に溶けたことのないアネシュカは咳き込んでいました。
水脈は見事に麓で断ち切られていました。誰が断ち切ったのかは分かっていましたが、水神は何も言わず山の中へ足を踏み入れました。山の中腹あたりから、山と山の間にへばりつくように家々が点在していて、かろうじて村と呼べる程度のものが見えました。
「あれがお前のいた村か」
「はい、そうです」
「そうか」
アネシュカの硬くなった声に気づかなったふりをして、水神はじっとその村を見つめました。しばらくそうしていたかと思えば、あっさりと踵を返します。慌てたのはアネシュカでした。
「水神様、お帰りになるのですか、村に雨を降らせてくれないのですか」
「今じゃない」
水神はそう言って、自分の泉にアネシュカと帰りました。
その夜のことでした。アネシュカは元の動きを取り戻しつつある手足を使って、機織りをしていました。水神の社には立派な機織り機があったのです。それを使ってできた布を見せると、水神が殊の外喜ぶので、今夜もせっせと織っているのです。灯りが揺らめいて、油が少ないことを教えてきました。夜に機織りをするのは油が一度尽きるまで、と水神に約束させられましたので、アネシュカは渋々寝床に入りました。そうして、泉が騒がしく水音を立てるのを聞きました。もしかして、村に水を与えてくれるのだろうか、と微睡みながらアネシュカは願いました。
家族が死んでから良い思い出などひとつもない村だったけれど、住んだ年数は短かったけれど、それでも世話になった村でしたので、よくあってほしい、とアネシュカは思っていました。
例え、山神の怒りを買って呪われた村人たちの呪いを全て引き受けさせられたとしても。山神に頼れないから水神に頼るための生贄にされようとも。
アネシュカは呼吸のしやすくなった喉を撫でました。痛みのなくなった足を撫でました。全て水神が呪いを食べてくれたおかげでした。その呪いの食べ方というのが――アネシュカにとっては恥ずかしいものでしたけれど、水神には深く感謝していました。
――布が出来上がったらまた喜んでくれるだろうか。
そう思いながらアネシュカは眠りにつきました。
※※※
「それで、お前は何をされて村の周囲の水脈を全て断ち切って、村にいる人間が全滅しかねんほどの呪いをかけたんだ」
山神の住処の洞窟を訪ねた水神は眉間に皺を寄せています。慣れない呪いを、しかも大規模に行使したものですから、山神もひどい有様になっていました。アネシュカとどちらがマシか、と問われれば、当然山神の方がマシでしたが。
山神が後生大事に抱き込んでいる亡骸を見れば大体の予想がつきますが、それでも水神は問いました。
呼吸するのもも辛い、といったふうに山神は聞き取りづらい声で未だ冷めやらぬ自分の怒りを水神にぶちまけました。
曰く。
始まりは村人が生贄を寄越してきたところから始まります。山の実りを与えて欲しい、と人間が山神のところにやってきました。
その時の山神はちょうど腹が満ちておりましたので、気まぐれに召使いとしてその人間を側におきました。ちまちま、くるくるとよく働くその人間が可愛くなってきたので、山神はその人間を嫁にしました。嫁になった人間の名はイエヴァといいました。イエヴァも自分の嫁になったことを大層喜んでくれたのだ、と山神は涙ながらに語ります。
そのうちにイエヴァが身籠もり、あっという間に産月になりました。イエヴァは初産でしたので、家に帰って妹のそばで産みたい、と言いました。妻の不安をよく分かっていましたので、山神は二つ返事でそれを了承しました。それが間違いだったのだ、と山神は鳴きました。帰さなければよかったのだ、と唸りました。
妹に子どもの名前を名づけてもらったらすぐに帰るから、と言うイエヴァに山神は手製の笛を持たせました。これを吹けばすぐに迎えに行くからな、と言い添えて。
「我も我が子に名付けたかったが」
「次の子にはぜひお願いしますわ、旦那様」
村のすぐ側まで送ってやり、早く帰ってきてくれ、と言えば、イエヴァは笑ってすぐに帰ります、と山神に抱きつきました。ああ、その可愛さと言ったら! 山神は幸せな気分で住処へと帰りました。
それから一日経って、二日経って、まだ産まれないか、まだ名付けないか、とまんじりともしない気持ちを抱えながら山神は待ちました。待って、待って、待って、それから五日目の夜に笛の音が聞こえました。山神が渡した、あの笛の音です。
山神は大喜びで山を駆け下りました。村へと辿り着き、嬉しさのままに遠吠えをしました。村人たちが何事か騒いでいましたが、山神には気になりません。我が嫁は、我が子はどこだ、と村を探し回ります。
村の入り口にはいませんでした。広場にもいません。イエヴァの家にもいませんでした。そのうちにイエヴァの妹を見つけて、イエヴァの場所を教えられました。
果たしてイエヴァはそこにいました。村のはずれに。打ち捨てられていました。山神の子と一緒にです。産まれたばかりの子どもは頭が潰れていました。誰かが石で潰したのでしょう。血がべっとりとついた石が近くに転がっていました。イエヴァは首から、背中から、血を流していました。子どもを抱くように、庇うように血面に倒れ伏し、血溜まりの中でこと切れていました。
「我が妻よ、子よ、なぜ、なぜだ、どうしてだ」
人間がやってきました。手に持っている農具には血がついていました。山神は答えの分かっている問いかけをしました。
「お前が我が最愛を、我が子を殺したのか」
人間は農具を取り落として、平伏しました。恐怖に震えながら、違うと言いました。知らなかった、と言いました。後から後から人間がやってきます。皆口々に知らなかった、と言いました。
生贄に捧げて生きてはいまいと思った娘が赤子を宿して戻ってきた。山神の子だというが本当か? そもそも本当に娘の相手は山神なのか? 妖に化かされたのでは? 娘が偽物なのでは?
山神は物言わぬ骸になってしまった妻と子を腕に抱きながらじっと村人たちの言葉を聞いていました。
産まれた赤子はやはり人間ではなかった。美しい山神とは似ても似つかない異形だった。やはり化け物に犯されたのだ。山神に捧げた娘なのになんということだ。このままでは山神様の怒りを買ってしまう。ならば――殺すしかない。殺せ、生贄になれなかった娘など。化け物の子など殺してしまえ。
山神はぐちゃぐちゃと、身勝手な言い訳ばかりを並べ立てる人間に、心の底から沸き上がる怒りをそのままぶつけました。
「そうして、村に呪いを撒いた。万が一にでも人間共がこの地に残らぬよう水脈も絶った」
山神はしゃべり切って、それから息を吐きました。
「そうか。それは辛かったな。吾らの赤子は皆、本性のまま生まれてくる。それが人間には化け物のように見えたのだろう」
咳き込む山神を水神はいたわりました。山神の目からは涙が溢れて止まりませんでした。
「我の嫁だと、里帰りだと、人間共には言ったのだ。イエヴァの妹も喜んでいたのに、なぜ我が妻は殺されたのだ? 我のものがなぜ奪われた? それなのになぜまだあの地に、我の地に人間共がいるのだ?」
「あいつらは水がなくなったから吾のところに来た。それで吾がここにいるわけだ。お前は縄張りを穢すのを嫌がって、人間共が動ける余地を残したわけだが――さっさと殺しちまえばよかったな」
その通りだ、その通りだ、と山神は再び咳き込みました。背をさすってやりながら、ところで、と水神は声をかけます。
「お前の嫁の妹の名前はアネシュカか?」
「そうだ。なぜアネシュカの名を知っている? あの子はまだ生きているだろうか。殺されそうになったイエヴァを逃そうとしたのが露見し、ひどい折檻を受けていたのだ。傷を治してやったが……ああ、村の外まで、他の村まで送っていけばよかった。人間共にひどい目に遭わされていないだろうか」
義妹の存在を思い出した山神がよろよろと起きあがろうとするのを水神は押しとどめます。汚れを洗い流してさえやりました。
「アネシュカは生きてるよ。今は吾のところにいる。さあ、嫁さんを埋葬してやろう。嫁さんだっていつまでも旦那の毛皮を汚していたくはないだろうさ」
「ああ、そうだな……」
山神は――巨大な狼は、白銀の毛皮を震わせ、大粒の涙を流しました。
※※※
渇水に喘ぐその村に、見たこともないような美しい御仁が現れました。まるで山神様のようだ、と村人たちは跪いてその男を拝みました。男は生贄を捧げた対価を施しにきたのだと言いました。
「水が欲しいんだろう」
「ええ、そうです! そうです!」
「沢の水が干上がってしまったのです!」
「井戸の水がとうとう枯れてしまいました!」
「そうかそうか」
水神は笑いました。しかし、眼はちっとも笑っていませんでした。それに気づいた子どもが一人、後退りました。
「山神の妻子を殺したお前たちは山神の怒りを買い加護を失った。さっさとこの山から出ていけばよかったものを。神嫁の妹に呪いを肩代わりさせ、水欲しさに生贄にして、まだこの地でのうのうと生きていこうなんざ、虫が良すぎると思わないのか」
水神が言うなり、雨が降りました。土砂降りです。村人たちは喜びました。皆、待ちわびた雨に狂ったように踊り出しました。もう水神のことを気にする者は誰一人いませんでした。
水神はそんな人間たちを冷めた眼で見ました。今のうちに喜んでおけばいい、と吐き捨てて。
「三日もすればすっかり綺麗になるさ」
山神の住処を見上げながら、そう言いました。そうして、水神の姿は消えましたが、やはりそれに気づく村人はいませんでした。
それから三日後、雨に飽いた村人たちが文句を言うようになった頃、土石流が村を飲み込みました。村をそっくり飲み込んだ土砂も降り続ける雨に押し流されていき、長雨が上がった後に残されたのは川底のような光景だけでした。
久しぶりの日差しを浴びながら、その光景を見下ろした山神は水神に深く感謝しました。それから妻の好きだった花を咥えて、墓参りに行きました。
※※※
「おう、帰ったぞ。ちゃんと村に雨を降らせてきた」
「ありがとうございます!」
機織りをしていたアネシュカは、主人を待っていた飼い犬のように笑顔で水神に抱きつきました。本当に嬉しそうなアネシュカに複雑な気持ちを抱きつつ、もうあの山へはやれねえな、と心の中で舌を出しました。習慣になった口吸いをして、水神はアネシュカの呪いを腹に収めます。アネシュカの呪いは泉に来たばかりのころよりずっと薄らいでいます。けれども、すべての呪いを取り祓うまでは時間がかかりそうでした。
水神は溜息のようなものを吐きました。アネシュカが不思議そうに首を傾げます。
「水神様?」
「お前の望みが叶ったところで、これからのことなんだが」
「はい。水神様さえよろしければこのままここに置いていただきたいと思います」
「うーん、それなんだがなあ」
抱きしめていたアネシュカの体を離して、水神は座るように言いました。アネシュカはおとなしくそれに従います。
「前々から決めていたことなんだが」
「はい」
「すべての呪いが消えたらお前は山を降りろ」
アネシュカは瞠目して、それから水神に食ってかかりました。
「なぜですか! 私はなにか粗相をしてしまったのですか?! でしたら何重にも謝罪いたします、気に入らないところがあるのでしたら言ってください、直します!」
どうどう、と水神はアネシュカを宥めます。ここまで騒ぐとは予想外でしたが、その慌て様が嬉しく感じてしまい、上がりそうになる口角を手で隠しました。
「お前はよく働いてくれてる。機織りも見事だ。ただなあ、お前はまだ若いだろう」
「今年で十五になります!」
子どもではありません、と鼻息荒く訴えるアネシュカを再び宥めます。
「吾から見れば十分子ども、赤子も同然だ」
頭を撫でてやって、水神は息を吐きました。
「人間に興味なんざなかったが、お前は吾の物だからな。若いのだから見識を広めるべきだ、と思っていたのだ」
涙に潤んだ瞳で自分を見上げるアネシュカに、ぐう、と水神は喉奥からおかしな声が出ました。
「だから、あちこち見て回って、いろいろな物を見ろ。経験しろ。気に入ったところがあればそこに住んだっていい。吾のところに無理して戻ってこなくていい」
アネシュカが必死に頭を振るのを見て、水神は困ったように笑みをこぼしました。
「べつだん、お前が疎ましいから捨てるのではない。嫌いだから遠ざけるのではない。その逆だ」
流れる涙を拭ってやって、水神はほとほと困り切った顔をさらしました。アネシュカは初めて見る水神の顔に呼吸も忘れて魅入りました。
「神と呼ばれる存在は、たいてい執着が過ぎるものだ。執着に寄って身を滅ぼす者もいるくらいだ。吾もお前に執着しかけている。それは、良くない」
「どうしてよくないのですか」
「お前が生贄としてここに寄越されたからだ。自らの意思で来たわけでもないのに、この地に縛り付ける気は吾にはない」
「……それは、ご立派ですね」
アネシュカの平坦な声は皮肉でしたが、水神は片眉を上げるだけでした。自分の衣を痛いくらい握りしめているアネシュカの指をひとつずつ開いていきます。
生贄として捧げられた人間はいつもそうしていました。アネシュカほど執着を覚えた人間はいませんでしたから、いつも逃げるように去っていく背中に思うのは、二度と戻ってくるなよ、でした。
「広い世界を見て回って、それでもここに、吾のもとに戻ってきたいと思うのなら帰って来い。帰ってきたら、その時は」
水神はぐいとアネシュカを引き寄せ、その耳元で囁きました。
「――吾のものにする。誰の眼にも触れさせないよう、水底に隠す」
身を起こして、咳払いをした水神の頬はわずかに朱色が滲んでいるようでした。それよりもなお赤い頬をしたアネシュカが両手でその頬を包みました。
「アネシュカは、いま隠されてもかまいませんが……」
「……執着心がやべえ
アネシュカが初めて聞いた水神の敬語でした。それからアネシュカが旅立つ日まで、二人は仲睦まじく暮らしたということです。
水神の娘 結城暁 @Satoru_Yuki
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