3 この世界では
ふぅ……。ベッドに倒れこむと同時に猛烈な睡魔が俺を襲った。
メアたちのパーティーの御厚意で、余っていたベッドと部屋を貸してくれることになったのだ。普段から手入れをされている訳ではないのだろう、木製のベッドはギシギシと音を立てるし、若干のカビ臭さを感じはするが、今はそんなことよりもずっと眠気が強かった。
うつらうつらとする頭と、既に力が抜けきってしまったうつ伏せの体で、先ほどのメアの言葉が反芻されていた。
――――一つだけ、可能性があります。地獄よりも厳しい道になりますが。
方法は至極簡単だった。ネバラの上を目指す。
ネバラは上に行けば行くほど濃い瘴気で包まれている。そしてその瘴気の濃度に比例して、次元の歪みもより大きくなっているのだと言う。
実際、ネバラの地上付近で異世界人が見つかる今回のケースは非常にレアであり、彼ら熟練の冒険者が上の階層に登れば登るほど、異世界人が無力にも力尽きている残骸が多く見つかるのだという。
さらに空間や次元に干渉するオーパーツもいくつか発掘されているらしく、さらに未開拓の上層に行けば、並行世界を行き来するオーパーツが見つかる可能性もゼロではないとのこと。まあこちらは完全に希望的観測であるので、あまり期待しないようにとは釘を刺されたが。
とにかく大事なのは次元の歪みだ。
「確証などはありません。ただ定期的に歪んでいるであろう次元の狭間にこちら側から飛び込むことができれば、もしかしたら元の世界に帰れるかもしれません」
実際に次元の歪みが極端に強いスポットというのは何個か発見されており、試しにそこに物を投げこんでみたところ、潰されるでも破裂するでもなく、跡形もなくその場から消えてしまったらしい。まるでどこかにワープするかのように、一瞬の事だったという。
「とは言っても、ほぼ絶望的だよなぁ……」
次元を超えることはできるかもしれない。でもその歪みの先に自分が元居た世界がある保証などどこにもない。
ため息をつきながら枕に顔を埋めるしかできなかった。状況は絶望的。このまま何もせずに静かに暮らしていても僅か五年足らずで無力にも死んでいく。じゃあかといってだ、あのネバラに挑んで上へ行けるのか、という疑問もある。思い出すのはロイドとマリィの言葉だ。
『ネバラは上に行けば行くほど瘴気も濃くなるし、それに比例して瘴気をたくさんため込んだ凶暴な化け物が多数出現するんだ。シュンも遭遇したんじゃないか? この辺の第一階層ならクロアライドかマガツボミあたりによ』
『私たち冒険者はネバラで手に入れたオーパーツを駆使して上を目指しているけれど、オーパーツも誰でも使えるものでもないのよね。人によってはCランクすらまともに使えない人も多いから』
――――本気で次元の裂け目を目指すなら、最低でも一人で第一階層を突破する実力がなければ無理だな。じゃなきゃ無駄死にが待ってるだけだぜ。
……あの化け物の群れを一人で……。想像する、化け物に追われる自分を。逃げきれずに襲われる自分を。そして無残にクロアライドに食いちぎられる自分を。これは今日、あったかもしれない未来だ。
さらに上へ行けばより強大な化け物たちが巣くう餌場が待っている。先の見えない過酷な山を登り続け、あるかも分からない次元の歪みを見つけ出すことなど俺に出来るのだろうか。
俺の目が余程絶望していたのだろうか、おろおろしながらもメアは一つの提案をしてくれた。もし本気で上を目指すのであれば、私たちのパーティに入らないかと。慢性人手不足に悩んでいたのだろう、ロイドとマリィもやる気があるなら問題ないと言ってくれた。
当然、ネバラで上を目指すなら文字通り命を賭けることになる。それも含めて、覚悟が決まったなら声をかけて欲しいと言ってくれた。命を助けてくれるだけでなく、ここまでしてくれるなんざ、メアには感謝してもしきれない。
そんなこんなの一日を振り返っていた俺は、気付かぬうちに眠りに落ちてしまっていた。
俺はその日夢を見た気がする。つい昨日会ったばかりのはずなのに酷くその顔が懐かしく感じられてしまった。
そして俺がここで立ち止まってしまえば、二度と見ることのない顔だった。
『小雪』は、俺の妹は、生まれた時からほとんど全ての時間を過ごしてきた病院のベッドの上で俺に言った。
優しく人を思い遣れる小雪が俺に初めて言った我儘だ。
『―――――――』
『おう、兄ちゃんに任せとけ。俺は約束だけは絶対に破らねえんだ』
『本当!? 約束だからね! 破ったりしたら絶対に許さないからね!』
ベッドの横に取り付けられた窓は開いており、そこから春風に乗った桜の花びらが迷い込んでくる。春の暖かい太陽の匂いが鼻を擽る。懐かしい記憶だ。これは俺が中学生のころの……。
『じゃあ代わりに小雪も一つだけ約束だ、いいか? ――――――』
朝目覚めたときは、相変わらず誇り臭い木製ベッドの上だった。
グググ、と伸びをしてみるがあまり寝心地はよくなかったのだろうか、身体中の骨がバキバキと嫌な音を立てる。
窓の外を覗いてみれば昨日見たヨーロッパ風のレンガ造りの街並みが視界いっぱいに広がる。一瞬だけで昨日の出来事が全て夢だったらよかったのにと思ったのだが、人生そんなに甘くないようである。まあ見知らぬ天井で目覚めた時点で分かってはいたことだけども。
目ぼけた頭を叩き起こしながら、今日何をすべきかを考えていた。
不思議と迷いはなかった。
ベッドから飛び出し、ドアを開け、階下の食堂へ足を運ぶ。そこには今日、ネバラへ遠征をするのだろうか? 昨日よりも装備品を潤沢に蓄える三人の姿があった。
「シュンさん! おはようございます」
「あらぁ? 思ったより早かったじゃない。ここに来るってことはもしかして、そいういうつもりかしら?」
マリィさんの茶化し口調の言葉だったが、その内容にメアとロイドは真剣な眼差しを俺に向けた。
ああ、そのつもりさ。正直、めちゃくちゃ怖いけど、俺はやはり帰らなくちゃいけない。俺はやらなくちゃいけないことがあるんだ。
「お前、まさか本当に?」
よく考えたほうがいいじゃないか? とロイドは目で訴える。安心してくれ、勢いで話してる訳じゃないんだ。もう、必要な覚悟は決まった。
「メア、マリィ、ロイド」
「俺を、ネバラに連れてってくれ!」
これが俺、兼川瞬の、ネバラの上を目指す、人生最大の冒険の始まりだった。
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