ズタボロな日常
「今日はここまでだな。片付けてから帰れよ」
「……あ、ありがとうございました」
仰向けにひっくり返されたまま、絞り出すように礼を述べる。
我ながら弱々しい声になってしまったが、どうにか相手には届いたらしい。
俺を見下ろす男は「うむ」とどことなく満足げに頷くと、出口の方に歩き去って行った。
頭上の方向から聞こえるガラガラという木製の扉が閉まる音が、俺に安息の時間の到来を知らせてくれる。
「……うむ、じゃねーよクソジジイ」
「あ、悪口」
「うおおぉぉぉう!?」
独り言のつもりで発した悪態に返事が戻ってきて、思わず声を上げてしまう。
仰向けのまま首だけを傾けると、逆さまの風景の中、見知った顔が歩み寄ってくるのが目に入った。
「なんだ、琴乃か」
「なんだとは失礼ね。違うわよ、琴乃ちゃんよ」
「何一つ違わないじゃねーか。なんだその意味のない嘘は」
「うるさいわね……もっとこう、パッとした反応しなさいって言ってるの」
つまんない、と分かりやすく拗ねるこの少女は桐崎琴乃(コトノ)。
俺が絶賛仰向け中であるこの道場の一人娘で、ついさっきまで俺をコテンパンにしていた鬼、もとい師匠の溺愛する愛娘にあたる。
「芸人ばりのリアクションだっただろうが。あれ以上どうしろっていうんだよ?」
「う~ん……とりあえず大爆発とか?」
「死ぬわ!」
とりあえずで幼馴染みから死を願われてしまった。
爆発大好きハリウッドさんだって、火薬はここぞという場面でしか使わない。
のっけの挨拶から消し飛ぶとか、一体どんなスプラッタだよ。
「てか、何しに来たのお前?」
「ああ、そうだったわ」
本来の目的を思い出したのか、琴乃は足元に転がる俺をまっすぐに見下ろした。
「賢将(ケンショウ)、今日はご飯食べてくの?」
「食う」
「いつもながら即答ね」
「迷う余地がない」
なんだ、飯の話か。そんな大事なことなら先に言ってほしかった。
家に帰れば飯はあるだろうが、消耗した身体には即時のエネルギー補給が必要だ。
他所でも食べて、家でも食べるのが男子高校生の基本スタイル。
「ママがまだ仕事だから今日は私が作るけど、何かリクエストはある?」
「米が進めばなんでもいい」
「……了解。ホントあんたっていつもそれよね」
呆れたように溜め息をつく琴乃。
「それが一番大事なんだから仕方ないだろ。極論、茶色ければだいたい好きだ」
カレーにハンバーグ、納豆にきんぴらごぼう。
茶色のものは米が進むと相場が決まっている。
琴乃は顎に手を当て少しの間思案顔をすると、
「じゃあ、虹輝はうんこでいいのね」
「いいわけねえだろ!」
サラッと何言ってんだコイツは。一応女子じゃないのか?
どんな顔でうんことかほざいたのかと目を向けると、視界の端でひらっと布地が揺れた。
「うんこが嫌なら、なんでもいいなんて無責任なことは言わないことね」
「連呼するなよ」
「無茶言わないでよ。いくら可愛い私でも生理現象には勝てないわ」
「うんこじゃねえよ、連呼だよ……。あとお前、パンツ見えてるぞ」
「っ!?」
俺が親切心から忠告してやると、琴乃は両手で素早くスカートを押さえ、流れるような動きで俺の頭を踏みつけた。
「不意打ちは卑怯よ!」
「……その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
床に後頭部を打ち、全身の筋肉の痛みに耳鳴りと鈍痛まで加わってしまった。マジでいてえ……。
俺が涙目でのた打ち回っていると、琴乃は仕切り直すように咳払いをした。
「と、とにかく! 稽古場の片付けと食事の準備は私がやっておくから、賢将はさっさと汗流してきて」
「……へいへい、分かったよ」
全身は重く頭は痛いが、これ以上うだうだして更なるダメージを負ったら命に関わる。
赤ゲージの身体に鞭を打ち、俺はなるべく負担が掛からないように足を引きずりながら稽古場の出口へと向かった。
「あ、パパを待たせてまた絞られても知らないからね」
「え……クソジジ──じゃない、あの鬼ジジイも一緒に食うの?」
「今日はそうするみたいよ。それと、一応言っとくけど全く訂正できてないからね?」
「おっと、こりゃ失敬」
間違えた、師匠だった。
ついつい本音が出てしまったが……まあしゃーない、ありゃ鬼だ。平成に生きていていい生き物じゃない。
「最近のは私もやり過ぎだと思うからいいんだけどね。それより、早くしないと多分パパもうリビングで待ってるわよ」
「琴乃、マジでそういうのは先に言ってくれ」
父に追い込まれ娘に追いやられ、俺は一礼を済ませ稽古場を飛び出した。
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