第17話 気持ちに名前なんていらない

山本さんの死刑が執行された日から、私はなぜか拒食症になった。お母さんはおろか、担任の福ちゃんや保険医の先生、校長先生などの大人たちを巻き添えにして、私は意に反して静かに社会に対してのボイコットを続ける形になった。何かを食べる意義を見出せなかった。味を感じない。お腹が空かない。口を動かして栄養をとることにもう意味などない。生きることにもう意味などない。病院にずっと入院させられながらも何とか持ち直したのは、毎日顔を出してくれる乃木先輩のおかげだった。それなのに私は、毎日先輩が来てくれているのを知っていて寝たフリをしていた。何を話していいかまだわからなかったからだ。

でも私はすっかりこの二週間で落ち着いていた。眠れなくてももう何も怖くないし、生きる意味を探して絶望的な気持ちになることも少なくなった。

私は、入院してから暫くして、お母さんに黙っていた文通のことを正直に話した。家から今までの手紙を持ってきてもらう為に、全て最初から話して謝まった。ずっと黙っててごめんなさいと。すごく怒られて、すごく責められた。

お母さんは死刑囚なんだからいつか死刑執行されるのは当たり前だと。泣きながら、私の身体をバシバシ叩きながら、私を責めた。ごめんなさい、としか言えなかった。それでも、ひとしきり私を責めたところで気持ちがすっきりしたのか、原因がわかって良かった、話してくれて嬉しかった、と言ったのだ。私が一言も言わないので、なぜいきなり学校で倒れ、食事ができなくなってしまったのか全くわからなかったかららしい。

仕事は休めないが、できれば娘を助けたい。娘の親友を呼び出して聞いてみたが、約束していたからと何も言ってはくれない。その代わり、娘の『彼氏』の存在を教えられた。

娘が今まで一言も口にしなかった彼氏の存在に、お母さんは驚いたらしい。慌てて、れいかから乃木先輩の連絡先を教えてもらい、そして山本さんの話を聞かされる。山本さんに傾倒していた(文通のことは言わなかったらしい)から、死刑になったと知った日に倒れたのだと知らされた。それから乃木先輩に私を託し、様子を伺っていたと言う。


私は、お母さんが持ってきてくれた今までの1年半の手紙のやり取りを時系列で読み始めた。お母さんは、プライベートな手紙だから読んでいないと言った。私にはどちらでも良かった。

一番最初に私が送った手紙は、自分の手元には残っていない。まさかこの後文通が続くなんて思ってもみなかったし、こうやって読み返す時がくるなんて言うのも想像だにしていなかったからだ。その後は、私は手紙を送る前にコピーをして取っておいた。百円ショップの可愛いバインダーに束ねて。

山本さんは、各教科の取り組み方やノートの取り方、模試を受けるタイミング、そして時に駄文への返事、大人の男の陰気なケンカ方法、会社内の派閥と世の中の仕組み、片親の心得、拘置所の処遇や他の死刑囚との交流など、多岐にわたるテーマを綴ってくれた。私も勉強の質問、学校やの理不尽さ、些細な喧嘩の仲直り方法、たまに巷で流行っていることの説明など、穢れを忌む子供らしい内容だった。私はあまりの自分の幼さに笑ってしまった。確かに私の文章は下手だな。山本さんからの最期の手紙は、私の誕生日を祝う言葉と今しかできない体験を楽しめと言うメッセージだった。


私は暫く、出された病院食をお箸で突いて、小さなハンバーグのかけらを口に入れた。味は相変わらず感じなかったが、それでも大体の量はゆっくりながらも食べることができた。

看護婦さんが食器を下げに来てひとしきり褒めてくれるのを恥ずかしく聞き、そしてまた満室の4人部屋は静かになった。

私は音を立てないように部屋を出、廊下の突き当たりの窓辺に立った。

山本さんのお父さんは高野さんだったけれど、私のお父さんは山本さんだったのかもしれない。

薄汚れた窓からは、小さな四角い明かりの郡像が上に伸びる夜景が見える。東京拘置所が見える方角。もちろんビル群だけでは何も識別できない。山本さんの部屋からは何も見えなかったのだろうか。

窓ガラスに構わず触れる。指で拭き取った先の夜の闇は、美しく透明だった。気がつかなければ、存在していないはずだったもの。しかし、その時気がついたものは、自己の未熟さ故に勘違いしていた感情だったとしたら?真実は誰にもわからない、しかしそもそも真実など必要なのか?私がずっと恋だと思っていた淡い思いは、絶対に手に入れることのできない父性への執着だったのか?

気持ちがすっと、落ち着いたように感じた。遠くに続く赤い明かりの川がキラキラと不規則に点滅するのを見ているうちに、心は既に穏やかになった。いや、答えは必要ない。この気持ちに名前も特別必要ないのだ。もう何も怖くないし、生きる意味を探して絶望的な気持ちになることもない。私は小さく手を合わせた。

ありがとう、山本さん。大好きでした。



「おす。久しぶりだな。大福でお前を昇天させにきたよ。大分顔色いいな。よかった」

「あ…ありがとうございます」


ずっとメッセージでやり取りをしていたが、実際に顔を見るのは本当に久しぶりだった。何度かお見舞いに来てくれた時も、私は寝ていたために会えなかった。会えなかった、と言うのものは正確には本当のことではない。それは私が寝たふりをしていたからだった。乃木先輩は、寝ている私に話しかけたり、黙って手を握ったりしてきた。目を閉じたまま、身体に触られるのがあんなにドキドキすることなのだと今まで知らなかった。頬を優しく撫でられ、思わず寝返りを打った私は、乃木先輩が慌てて病室を出て行く足音を聞いたこともある。9月もあともう何日かで終わる。私は…どうしたいのか。私は考えて考えて、そしてとうとう乃木先輩に会うことを決めたのだ。


「しかし、お嬢は何でも言うこと聞く券の使い方を根本的に間違ってるぞ。あれだろ、魔法のランプに三つのお願いごとをうまく伝えられないタイプだな?お前文章上手いのに」

乃木先輩は四人部屋の病室に入ってきて、他の患者さんに愛想よく挨拶して回り、ストンと丸椅子に座った。カーテンを引いて、他から私たちが見えないようにしてくれた。

辛気臭い雰囲気を何とかして明るくさせようと話し続ける先輩は優しい。右手に持った可愛らしいブーケを無言で私の胸元に押し付けたのは、他の人に見えたからだろうか。

「りおでいいですよ。私は文章下手だって、山本さんにバカにされますけど…」

こうやって今更ながら呼び名を変えてきた乃木先輩に、携帯のメッセージで何でも言うこと聞く券を写真に撮って送ったのが昨夜。

「最期の晩餐に食べたいと言う憧れの大福を今日食べたいから買ってきてほしいって書いたのであって、大福で今日死にたいっていう意味じゃないですから」

乃木先輩は視線も定まらず、なんだかそわそわしていた。私もうまく先輩の顔を見られない。そのまま、私は社交辞令のようになんでも言うことを聞く券をぶっきらぼうに渡した。

「俺がなんでこれをお前に上げたのか、全くわかってないな。空気読めないやつめ」

ため息をつきながら、先輩はくしゃっと券を丸めて制服のポケットに突っ込んだ。

「それから、胸、開きすぎだぞ。なにアピールだ、胸ないくせに」

さっきの検診で閉め忘れたパジャマの胸元を右手でとっさに抑えて、ペンダントを触りながら震える手を何とか止めた。

「来てくれて、本当にありがとうございます。私、先輩にどうしても伝えたいことがあって」

「なに…花瓶持ってくるまで待てない?」

「待てない」

私は左手を伸ばして、乃木先輩の制服の端を掴んだ。先輩はバランスを失って、ベッドの上にストンと座った。そして私は、そのまま震える手で、先輩のブーケを持つ手の上に重ねた。

「私…」

なかなか言葉が出てこない。それでも先輩は手を重ねたまま、ずっと待っていてくれた。

「私、乃木先輩が好きです」

小さな声ながらも、言えた。やっと言えた。

「先輩の告白を断わったのに、何を今更って自分でも思います。でも、今までの私は自分に自信がなかったし、私が幸せになることで他の人に不幸になって欲しくなかった。自分が我慢すればいいやって思って今まで生きてきました。でも…相手がいることは、相手にも我慢を強いることになるって考えてなかった。入院して、考える時間を持てて、やっと気がついたんです。自分がどうしたいのか。もう誰にも遠慮したくない。今まで、私は本当にあまのじゃくで素直じゃなかったけど、もう自分の気持ちを誤魔化したり、隠したりできないです。乃木先輩がもう私を好きじゃなくても、私は乃木先輩が好きだから…私の今の気持ちを伝えたかったんです」

辺りが静まり返っている。遠くで微かに心電図の電子音が聞こえる。消毒液の匂い。白いカーテン越しに注ぐ、柔らかな日差し。

「わざわざ呼び出したりして、すみません。これは私の気持ちの一方的な押し付けだとわかってるし、先輩も受験で一番大事な時期だから、私なんかで煩わせたくないってわかってるけど、わかってるけど…先輩がお膳立てしてくれただろうこの券を、無駄にしたくなくて」

れいかに遠慮したり、自分に自信がなくて先輩の思いを受け入れられなかった自分を、私はそのまま認めることができた。

「うん。やっと言ってくれた。俺は、りおがそのペンダントをしてくれてるだけで嬉しいよ。それで…りお、俺と付き合ってくれる?」

「はい。お願いします」

「ありがとう…はあ…よくやった俺、マジで嬉しい…」

乃木先輩は、一瞬手で顔を覆って独り言にように呟いた。

「俺はりおを好きになったけど、それで自分の未来をダメにするタイプじゃないよ。それじゃりおにも悪いし。…まあ、少しは勉強が手につかなかったり玲に当たったりしたけどな。あいつには悪いことをした。でも今は…あいつもれいかちゃんと幸せみたいだし。俺は、ご褒美さえあれば本気出して頑張れるタイプです」

乃木先輩は、小さなガッツポーズをして見せた。

「先輩、今までごめんなさい。先輩や玲先輩に迷惑ばかりかけて…」

「そんなことない。そんなことない。なんなら一生迷惑かけ続けていいから。玲もりおに感謝してるって言ってたよ」

ベッドに座ったまま私の唇に指でゆっくり触れて、そのままキスをしてくれた。優しいキス。触れ合っただけで、全身の緊張と震えがお互いに伝わってしまいそうな。

「実は俺にも、りおにどうしても伝えなくちゃいけないことがあるんだ。これは…りお次第で、もしかして俺たちはやっぱり付き合えないかもしれない」

先輩は軽く私の頬を撫でた。くすぐったかった。

「乃木先輩…もしかしてもう彼女がいるんじゃ…」

ははは、と先輩は優しく笑う。

「俺の彼女は今目の前にいるこのエロパジャマだけど。俺は来年卒業したらバルセロナに行くよ」

「バルセロナ?スペイン?」

あまりに突然すぎて、変な声を出してしまった。

「そう。りおも知ってるだろ、サグラダ・ファミリアの建築がもうすぐ終わるって。あの一生完成しないって言われてたあの教会が、だよ。今、最終プロジェクトに学生見習い建築士として参加するプログラムの面接をテレビ電話で受けてる。3Dプリンターの部門だけど、あの教会の中では今とても重要な位置を占めてるんだ。そこに見習いとして参加できるかもしれない」

「大学は?建築科を受けるんじゃないんですか?」

「調べてくれたの?最初は高校卒業した後建築事務所に入って、11年実務経験を積もうと思ってた。でも、今しかないんだ。サグラダ・ファミリアを完成させるっていう貴重な体験は。本当に今しかないんだ。完成してしまってからじゃ、もう遅いんだよ。俺は、今の時代に生まれてきた自分を褒めてあげたいとも思ったくらいだ。まあ、りおに出会えたこともだけど」

「バルセロナって、具体的にはいつからどのくらいの期間?その間、私たちは会えないんですか?」

「うん、無期限遠距離かなあ」

「そんな…」

私は、重ねていた手を思わず離した。

「でも、俺の夢なんだよ。今しかできないことなんだ。そしてチャンスを本当につかめるかもしれない。一人の人間の贖罪から始まった世界的、歴史的な建造物を完成を手伝うっていう、大きなチャンスをさ。親にはまた殴られたけど、潰しがきく大学卒って肩書きを約束して認めさせた。潰しがきくって…そんなの親世代の神話なのにな。まあ、とにかく。実際には来年受験して大学入って、その後すぐ休学してバルセロナになる。告白しておいてすぐにいなくなる男なんて信用してもらえないかもって思ったけど、俺がりおにふさわしい人になるためなら、このチャンスを諦めちゃいけないって思ったんだ」

「私が…」

「うん」

「私が…」

「うん」

「私が…乃木先輩を好きになったのは、四六時中一緒に居たいからじゃない。単にイチャイチャできる自慢のイケメン彼氏が欲しかったからじゃない。私、先輩を応援する。遠距離なんて今時珍しくないし、いつだってテレビ電話くらいできるし、私もやりたいこと見つけなきゃだし、乃木先輩を応援できる、乃木先輩にふさわしい人になりたい」

「うん、ありがとうな」

「乃木先輩を本当に本当に本当に大好きだから、私は…乃木先輩と向き合うんじゃなくて、同じ方向を向いていたいです。私も見つけたいよ。自分の夢」

「そうだな。りおは何でもできるよ。それだけあまのじゃくなら」

後半のセリフは、そっと引き寄せてくれた乃木先輩の胸の中で伝えた。絶対今は泣きたくないから、粒をこらえたままで肘鉄を食らわせた。鼻の奥がツンとする。頑張って堪えろ。乃木先輩が笑いながらもぞもぞと一生懸命、片手でパジャマのボタンをつけてくれようとしているのが、私を笑顔にさせた。

「さて、他の病室の皆さんにこれ以上気を使わせないように、そろそろ俺も帰らないと」

「あ」

私は緊張していて全然気が回らなかったけど、四人部屋の患者さんたちは、お見舞いの家族の人たちも含めて、全員がカーテン越に私の告白と乃木先輩の返事を固唾を呑んで聞いていた。なるべく音を立てないように。そして入口脇の胆石おばさんなんか、病室に入ってくる看護婦さんも止めていたらしい。そのあと、私はとてもじゃないけど恥ずかしくてその日は1日カーテンを開けられなかった。

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