第16話 死刑執行

翌日、昼休み前の4限目は退屈な英語だった。ユタ州から来たという英語のネイティブ教師は、授業に感心の薄い生徒たちに少しでも楽しんで勉強してほしいらしく、受験英語よりもコミュニケーション英語を養うために様々に工夫を凝らしていた。例えば今日の動画。若者に人気のある外国人女性アーティストのプロモーションビデオを流し、曲の意味を訳して行くという、ありがちなやつだった。それにしても、こんな際どい衣装のプロモに男子がやたらと雄たけびを上げて反応しているのが、正直ウザかった。ユタ州的にこのエロさは大丈夫なのか。電灯を消しているのをいいことに、私はすぐ左の窓の外を眺め、まだまだ厳しい残暑を楽しんでいたその時だった。目の端に、誰か両手を振っている人が見える。

反対の専門校舎の窓際で懸命に手を振っている男子生徒。

肌が少し焼けて髪が少し短くなって雰囲気が変わっているけど、私はすぐに誰だかわかった。私はさっと目を逸らしてから、ゆっくりと顔の位置を変えないまま目だけでその人を追った。今はあっちも授業中のはずなのに。

乃木先輩は大きく身体を振りながら、何かを一生懸命訴えているようだった。ハッとして、ポケットのサイレントモードの携帯を盗み見た。

乃木先輩からメッセージが来ていた。慌てて全文を開こうとして手が滑る。すぐに周りの空気がキュッと縮んだ。視界に入ったものの衝撃で、まるで頭蓋骨の後ろから神経を結ぶ紐を引っ張られているかのような感覚が押し寄せた。

私はメッセージを全て読む前に、とうとう椅子に座っていられずに横滑りしながら携帯と一緒に床に倒れた。また地面がぐるりと回転したようだった。教室が騒がしくなり、れいからしき悲鳴が響いた。私の意識は教室の硬い床に深く沈んだように重く消えた。


目を開ける直前に、何やら硬い布の感触を感じた。暑い。でも顔まわりはなぜか涼しい。

冷房の効いた保健室のようだった。ブーンと何か冷蔵庫のような機械の音が機嫌悪そうに働いていることをアピールしていた。少し消毒液の臭いがする。

拘束具のようにがっちり白いシーツで動きを封じられた私は、ウンウン唸りながら、身体をなぞって携帯を探した。あった。布団の中からスカートのポケットに奇跡的に入れていた携帯を探り当てた。浮かび上がったメッセージの下を見る。13時14分。ああ、もう5時限目が始まってる。私はペンダントを左手で探して、安心を探り当てた。

倒れる前に見た乃木先輩からのメッセージ。全文が表示されていたわけじゃなかったけれど、私がお腹のすいた4時限目に意識を失うには十分なショッキングさだったのだ。

保健室のベッドは、カーテンで仕切られていて、誰の気配も感じられなかった。少し身体を起こして、意を決したように携帯のメッセージを開けた。

『山本さんの死刑が今朝執行されたってニュースで言ってる』

昨日、高野さんからの話を聞いたばかりなのに。あっという間に涙があふれ出た。どうしよう。とうとう山本さんが、死んでしまった。なんで?なんで死刑にするの?死刑だって人殺しだよね?なんで山本さんは提訴したの?証言を変えたの?無期懲役だったら、いつかは刑務所から出られて自由になれるはずだったのに。里織さんが浮気したのに、なんで山本さんが責められないといけないの?悪いのは里織さんと部下なのに。山本さんは悪くないのに。何も悪くないのに。何も。何も。何も。

濃淡でできた墨汁のようなねっとりとした悲しみが身体の中から波のように押し寄せてきて、吐き出しそうな嗚咽に変わる。息ができないくらいに喉の奥で詰まっているようだった。このまま全身が墨汁で覆い尽くされてしまいそうだ。顔を覆っても、止めることはできない。イライラしていた中3の新学期にふと目についた、殺人事件の記事。ネットで調べたえげつない犯行と犯人像。自分の中に湧き上がるペラペラな正義感。大量の善意、または郷愁、哀愁。自分の中に生まれた、切ない気持ち。錯覚、迷い、そして、絶望。

自分が泣いていることに酔ってしまいそうだった。ベッドの硬いシーツに、御構い無しに顔を思い切りこすりつけた。誰かに支えてもらいたかった。山本さん。


乃木先輩のメッセージはもう2つあった。

『昼休みに保健室に迎えに行く』

『まだ起きてなかったから、放課後また寄る。ひとくちもらった。今はゆっくり休んで』

気がつけばベッド脇に新商品の〝薄すぎて申し訳ないので3枚入れちゃいましたハムカツパン〟が封を空けたまま無造作に置いてあった。入れちゃいましたと言うおちゃらけた言葉に当てのない怒りを感じた。人が一人死んだんだ、ふざけるな。でもこれは絶対れいかからの差し入れだとわかる。私が眠っているときに、来てくれたんだ。そして明らかに半分以上減っている。これは…乃木先輩。私はお腹が空いていたわけじゃなかったけど、無意識に一口パンをかじってみた。全く味を感じなかった。

それからベッド周りのカーテンをこっそり開け、保健の先生を探した。部屋には誰もいなかった。またブーンと言う音が耳に入ってくる。

私は携帯を取り出して、素早くネットのニュースを検索した。


「法務省は3日午前、東京都西多摩郡の調整池ダムで2003年に妻他2人を殺したとして、計画殺人などの罪で死刑が確定した男1人について、東京拘置所で死刑を執行した。新法相が4月に就任してから、執行は初めて。今年1月以来8カ月ぶりとなる。死刑が執行されたのは、山本公則死刑囚(34)。法相は同日の会見で、23日に執行命令書に署名したことを明らかにした上で、「法治国家では確定判決の執行は厳正に行われなければならない。特に死刑判決は、裁判所が慎重な審理を経た上で言い渡したもので、法の定めに従い慎重かつ厳正に対処すべきだ」と述べた。同省によると、今回の執行により、確定死刑囚は93人となった。このうち77人が現在も再審を請求している」


言いたいことは法務相なのか。いつもマスコミは言いたい目線で物を書く。読者が知りたい内容に、全然公共性がない。これは山本さんの大事な記事なのに。気がつけばなぜか携帯を握っていた左手の中指の腹をきつく噛んでいた。白く歯形がついてしまった。

でも恐れていた、見たくなかった、受け入れたくなかった現実が、とうとうきてしまったのだ。もうこれ以上何もできない。全て終わったのだ。山本さんは死を持って、今日自らの罪を償った。

私は山本さんの名前の部分を指でなぞった。画面の山本さんは素早いスクロールであっという間に上に消え、『勤務中に水飲むなと苦情。熱中症でバス運転手死亡』と言うタイトルの記事が現れた。皆、理不尽に死んでいく。皆みんな、死ぬために生まれてきたのか。

私は正直甘かった。目の前に、生きている人が書いた手紙がある。怒ったり、笑ったり、ドキドキしている、感情が読める。そんな安心感だけで、迎えるべき今日という現実を見ないようにしていた。その分押し寄せてくる、突然吹き出してくるマグマのような熱い怒り。悲しみ。

私は狂ったように泣いた。シーツを叩いて、痛みを感じようとした。何もかも滅茶苦茶だった。心が壊れてしまった。

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