第12話 消えた蝉の声

「僕が奥さんに逆上したのは、あの瞬間僕をないがしろにしたと感じたからです。好きな人が自分以外の人を好きになったことに傷ついたのではなく、結婚というお互いに確認し合い法の元に交わした約束を破って、浮気相手と一緒に僕を笑い者にしていたという思いに取り憑かれたのです。あの時、瞬間的に今まで感じたことのない怒りを感じました。僕ではなくて他の男を選んだと言うことに得も言われぬ屈辱を感じたのです。男はみんなプライドが高いですからね。だから、二人を縛って車でダムに押し入れた時も、これは奥さんが僕との結婚という約束を破った罰なのだと、自分がまるで死刑執行人のように感じていました。乃木先輩が、りおさんのためにわざわざ言い訳を用意してまで付き合いたいと思っているなんて驚きです。彼は男のプライドよりもりおさんをとったのですね。そんなに必死に一人の人の愛を求められる人間にはなれないし、そういう人にもなかなか巡り会えないものです。僕は心から、りおさんには乃木先輩を大事にしてあげてほしいと思います。それからお誕生日おめでとう。16歳の時にしかできない体験を楽しんで」


私は山本さんに、すぐに手紙を書いた。そして前回の非礼をとうとうと詫びたのだ。山本さんは、最初の手紙同様、怒ったり無視したりせずにきちんと返事をくれた。私には今、俯瞰で自分を見てくれる目が必要だった。


乃木先輩は、私の誕生日8月20日を知っていた。

10日後、と何気なさを装って指定してきた誕生日は、最初から狙っていたのだと先輩は照れながら言った。バイト先の前のファーストフード店で、とうとう私は久しぶりに乃木先輩と会った。あの告白から、もう2ヶ月が経とうとしていた。乃木先輩の初めて見る私服は、どこか他人のような見慣れなさだった。私は、前日に大規模なファッションショーをタンスの前で切り広げ、これ以上お母さんの視線に耐えきれなくなって、結局いつものジーンズになった。少しだけ、少しだけ淡いピンクのカットソーと合わせて。私たちは、お互いの私服のダサさを社交辞令のようにけなしあって、少し打ち解けた雰囲気になった。

でも私は、まだ告白について何も話していなかった。ただ世間話をして、れいかと玲先輩の話をした。二人は玲先輩が私に会いに来た2日後に付き合い始めた。私は電話口で弾んだ声でれいかが話してくれることが嬉しかった。例えそれが憎っくき玲先輩の話でも。私と乃木先輩は、まだ肝心な確信に触れていなかった。


「いいから開けてみて」

柄にもなく言い淀んだ先輩から受け取った小さな小さな白い小箱。赤いリボンをとって蓋をあけると、ペンダントが入っていた。可愛らしい、ピンク色の小さな月。

「いや、もらえません。こんな、素敵なの。私にもらう権利ありません」

「権利とか関係ないでしょ。俺があげたかったからあげたの。こう言うの、好き?」

「好き…ですけど…」

私は本当にずるい人間なんだと思う。乃木先輩が、そんな切なさそうな…顔するってわかってて、目を見て言った。今ならわかる。乃木先輩が私になぜれいかの好きなものを聞いていたのか。好きって言葉を私の口から聞きたかったからなんだ。私は半分気づいていて、半分気づいていないふりをしていた。

私はペンダントを両手で広げた先輩から手で受け取って、また小箱に綺麗に入れなおしてテーブルの真ん中に置いた。持って帰って欲しい、という意思表示。首につけてくれるつもりだったのは痛いほどよくわかるけど、応えられない。

「…れいかちゃんから聞いたんだけど、刑務所にいる人と文通してるんだって?山本公則って人」

見なくても、先輩がペンダントの箱からさっと目を逸らしたのが気配でわかった。

「はい…してます。そんなに頻繁じゃないですけど。山本さんは、死刑囚なんで、外との交流も他の人に比べて制限されてるらしいです。私以外の…ジャーナリストとか精神科医とか、担当検事とかお寺の住職とか、連絡しなくちゃいけない人も沢山いるみたいだから」

「その山本さんて人が、りおの好きな人なの?」

「…そうです」

「そいつは17歳も年上で、結婚してて、その上その奥さんを殺して、死刑をただ待ってる男だろ…会った事もないだろうが。なんでよりによってそんな奴を好きになれるんだ」

「先輩に関係ありません」

乃木先輩が、激しくテーブルを叩いた。乗っていた小箱と空の紙コップがトレーごと宙に浮いて、大きな音を立てて落ちた。

私は両手を顔で覆った。山本さんごめんなさい。乃木先輩ごめんなさい。私は自分に素直になる方法を知らないんです。もう、生まれてからずっと、一度も素直になれたことがないんです。どうやってなれるのか知りません。できません。感情に負けて泣くことしか、できません。一度泣くと、絶対止められません。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

私は素早く席を立って、そのまま階段を駆け下りた。上がってくる人を無理やり押しのけて。帰ろう、家に。バイト先の前じゃ、誰かに見られてしまう。気が回らなかった。

後ろを振り返らないまま、一生懸命走った。誕生日に、日差しの強い午後のアスファルトを夢中で走って好きな人から逃げるなんて、私にとっては初めてのことだった。交差点で赤になって、やっと自制できた。電信柱に手をついて、息を詰まらせながらやっと止まった。汗と、涙でもう何もかもぐちゃぐちゃだった。ショルダーバッグ……良かった、かろうじて持ってた。取りになんて戻れないし、もうこんな姿誰にも見せられない。なんとか息を整えて、信号を見た。もうすぐ青になる。対向車線から右折する車待ちで、もう歩行者の信号は、青に変わっていたのに気がつかなかった。

車道の信号もいよいよ青になって、車が動き出した瞬間、電信柱に支えられていた腕を掴まれた。


「待って。ごめん、また泣かせるつもりはなかった」

追いかけて来てくれた。乃木先輩が。掴まれた腕が瞬間ビクっと震えた。力強い手。振り払えない。乃木先輩はそのまま私の手を掴んだまま、ずんずんと私の家とは別の方向に歩き出した。

「まだ、話は終わってないんだ」

「わたしにはああ、ありませんん」

子供みたいに口を開けて泣いてる自分を、なぜか止められなかった。歩きながらグジグジと左手で涙と鼻水を拭う。そして今、引っ張られている、自分を引いてくれる力強く熱い手に、なぜだか嬉しさと切なさがこみ上げて来る。

歩く速度が速い。男の人って、こんなに歩くのが速いんだ。私は公園前の歩道のブロックにつまずきそうになって思わず声をあげた。

乃木先輩は、こっちを振り向いたかと思うと、パッと私を抱きかかえた。

「ごめん、大丈夫?」

不意に腰に回された手と目の前にある胸の大きさに、ドキドキよりも懐かしさを感じた。乃木先輩は、つくづく男の人だ。

「ちょっと座ろう」

目の前の公園には誰もいなかった。大きな公園で、遠くの方に競技場やプールがあるけど、この入り口を使う人はあまりいないようだった。夏休みの後半でも、さすがにこんなに日差しの強い日中に公園で遊ぶ子供もいないようだった。私たち以外には。

入ってすぐ傍にあったベンチに座らされた。ショルダーバッグに手をかけたまま、目の前の濃い抹茶アイスのような樹々に目を細めた。

すぐに居なくなった乃木先輩は走って戻って来た。手に二つのペットボトルを持って。私は既に逃げる気力を失っていた。

「水、飲まないと熱中症になっちゃう」

「あり…が…」

蝉の声がうるさい。うるさい。冷たい水を飲むと、少しだけまた、音が大きくなった気がした。

隣に座った乃木先輩も私も、しばらく黙っていた。

「これ、忘れてる」

目の前に、ペンダントの小箱が差し出された。無言で首を振る。

「いいから」

怒ったような声で押し付けられて、無言で抵抗する。でも叩いた拍子に落としてしまいたくはない。その代わり、キャップをしなかったペットボトルがベンチから大きな音を立てて落ち、公園の土にどくどくと沁み広がった。

「あのさ。俺、りおと付き合うために、りおと一緒にいるために、どうすればいいのか一生懸命考えたんだ。もう頭から湯気が出るくらい」

乃木先輩は私をなんとか笑わせようとして、必死だった。何も返せない私に痺れを切らしたのか、ペットボトルには目もくれずに小箱を持ったまま、私の腕を掴んだ。強くて、熱くて、優しい手で。

「りおは素直じゃない。面倒臭い。それは俺が一番わかってる。多分お前以上にわかってる。だから…俺はそれを利用する。もう待たない」

乃木先輩は私の首に手を回し、小箱を掴んだままの左手で私の顎を上げた。

「これから、お前にキスするよ。嫌だったら、このまま俺を殴って、逃げて」

「!」

「嫌なら、抵抗すればいいよ。お前の嫌いな安い小説っぽいだろ。ほら、そんなんじゃ逃げられない。早くしないと唇がついちゃうよ」

私は、力づくで抵抗してるつもりなのに、全く体制が変わらない。汗と涙でベトベトなのに!なんで?なんで逃げられないの?先輩の息が顔にかかる。コーヒーの、あったかくて甘い息。

「口、開けて」

私は嫌だと言おうとして口を開いた。その瞬間、蝉の声が全て地球上から消えた。



もう一度、思い出したように蝉の声が頭の中に響き始めた時、私は自分が今何をしたのかまだ理解していなかった。乃木先輩は両手で私の頬を包みながら、悲しそうにまた、ごめんと言った。

私の涙はまだまだ全く枯れていなかった。御構い無しに、どんどん腫れた目から流れてくる。過呼吸みたいに息ができない。苦しい。辛い。心臓が痛い。熱い。先輩が触れた唇がものすごく熱い。

私は、残ったできる限りの力を振り絞って、乃木先輩の手を振り払った。今度も先輩は抵抗しなかった。私はよろよろと立ち上がり、蝉の声に消えてしまいそうな酷くブサイクな声で背中越しに言った。

「さ…なら」


そのあとしばらく、自分がどう歩いたのか全く記憶がない。家の玄関前で立ち尽くしていたらしい。仕事から帰って来たお母さんに声をかけられて、初めて自分を自覚した。暑くて、熱くて、目眩がした。今度はぐるりと地球が回った気がした。こんな…こんなつもりじゃなかったのに。

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