第50話 兆し

「勉、おはよ」

僕の隣で、咲が甘やかな声を出す。

僕は眠れるわけじゃないから、毎晩のように咲の抱き枕になるのは、嬉しいようなツライような複雑な気分だ。

もっとも、咲は眠ってしまうとなかなか起きないので、僕に抱き付く腕をほどいて自由に動き回ったりはする。

ただ、起きた時に僕が隣にいないと、超絶に不機嫌になるという悪癖があるから、タイミングを見計らって咲の隣に戻らなければならないけれど。


大学進学を期に、咲は街の中心部で一人暮らしを始めた。

いや、二人暮らし? それともやっぱり、同棲と言うべきか。

とにかく、咲のお父さんは、それを許可してくれた。

そう言えば高校の卒業式の日に、咲のご両親も来ていた。

僕の存在を認めてくれる人達、僕と一緒に卒業を祝ってくれる人達がいた。

あの時、僕達を見たご両親は、何かしら思うところがあって咲の独り立ちを許したのかも知れない。


咲の住むマンションから大学までは徒歩で行ける。

県庁都市とは言っても、人口三十万人ほどの地方都市だから家賃はそれほど高くは無い。

そこそこ賑やかで、それでいて直ぐ近くに高い山が見える。

「一人暮らし、羨ましいなぁ」

同じ大学、同じ学部に進学した部長が、もはや挨拶代わりになったセリフを言う。

ここはタマちゃん先生の母校でもあるし、先生と同じ教育学部に進んだのは、先生の存在が二人に与えた影響が大きかったのだろうと思う。

「二人暮らし、羨ましいなぁ」

そうやって部長がわざわざ言い直すのも、何度聞いたか判らないくらいだ。

大学に進学して垢抜けた部長は、その巨乳のせいもあってモテモテなのだが、相変わらず真面目に日々を過ごしている。

しおりも一人暮らしをすればいいじゃない」

二宮栞。

読書好きの部長に相応しい名前だ。

あの、歩きながらでも本を読んだ二宮金次郎と、本に挟む栞が合体した名前は、ご両親の意図したものなのか、それとも偶然か。

とにかく咲は、いつしか部長のことを「栞」と呼ぶようになり、部長は「咲」と呼ぶようになった。

そういった変化はあったものの、部長が時々、「勉くぅん」とロリボイスで呼ぶのは変わらず、その度に咲が部長の頭を叩くのも変わらない。

僕は二人と一緒に大学の講義を受け、咲と共に学び、咲と共に日々を過ごした。

僕は授業料を払っていないのに、真面目に講義を受けていることには罪悪感を抱くけれど。


『無駄な罪悪感よ』

そんな言葉が頭に甦った。

それは直接、頭の中で再生されるような声だ。

あの声、あの姿。

ミサのことは忘れたことは無いけれど、耳に届く声ではなく、頭の中で響くような声を思い出すのは久し振りだ。


咲は、勉学への熱意は勿論のこと、家事やバイトにも手を抜かなかった。

何より、僕への愛情が半端じゃ無かった。

僕という存在には、家事は一切必要ない。

服を洗濯する必要もないし、ご飯もいらない。

僕が咲のために何も出来ないと悩んでいるのと同じように、咲も僕のために何も出来ないと悩んでいたみたいで、どうすれば「尽くす」ことが出来るのかを、常に考えていたようだ。

だから家にいる時は、一緒に漫画や小説を読んで考察したり、一緒に動画を見て笑ったり感想を言い合ったりする。

つまり咲は、本のページをめくれない僕の、パソコンやテレビを操作できない僕の、楽しみや知識欲を満たすための手になろうとしてくれた。

咲は僕の隣にいて、常に僕のことを考えてくれていた。

『知識欲だけじゃなくて、性欲を満たすための手にもなってくれるわよ?』

……時には自分の願望をミサの声で言わせてしまうこともあって、自己嫌悪におちいったりもした。


当然のことながら、咲はモテた。

だが男性からの誘いは全て断った。

勿論、隣に僕がいるからでもあるが、もし僕が家にいたとしても咲は断っていただろうと思う。

僕は、咲はもっと自由でいいんだ、と何度も言った。

大学は学ぶための場所ではあるが、人脈や見聞を広げるための場所でもある。

僕の存在が、咲の可能性をせばめることがあってはならない。

だが、「私は自由よ? 勉と一緒にいるという選択をしただけ」などと答えられて、それでも突き放せる男などいようか?

……突き放したわけでは無いが、僕は咲との距離を取った。

大学では咲とは違う講義を受けるようにしたのだ。

咲は最初、ねたり落ち込んだりしたが、やがて僕の意図を悟った。

咲と同じ講義を受けて知識を共有するよりも、僕が他の色んな知識を付けて、咲の見聞を広げる手助けが出来ればいい。

会話の幅を広げ、違った側面からの意見を言ったりして、僕は咲の知識の一部になれるのだ。

そうやって、僕らはお互いを高め合っていった。


『努力は無駄にはならないわ』

そんなセリフ、アイツが言ったことあったっけ?

でも、頭の中でミサの声がそう言った。

神経をぎ澄ましてみても、アイツの気配は僕の中のどこにも無い。

存在は消えても、僕の中では思い出として生きていて、時おりアイツらしい言葉を言わせてしまうのだろう。


咲の大学卒業を前に、僕と咲はやっと結ばれた。

四年間、一緒に暮らし、一緒に寝ていたのに何をしていたのか、と聞かれれば、我慢していた、としか答えようが無い。

正直、僕は怖かったのだ。

ますます聡明に、ますます綺麗になっていく咲の初めてを、僕が貰ってしまっていいのだろうかと。

それとは別に、心だけで結びついている自分達に、純粋で揺ぎ無いものも感じていた。

咲も同じようなことを思いつつ、随分と心細くも思っていたようだ。

「私、そんなに魅力無い?」

そんなセリフを言わせてしまった僕は、ミサの罵詈雑言ばりぞうごんを頭に再生させていた。

『ちゃんと、咲ちゃんを愛するのよ?』

『女にこんなこと言わせるなんて、つとむくんはクズね』

『ほら、童貞なりに頑張りなさい』

ミサの言葉に鼓舞こぶされながら、僕は咲を愛して、咲も僕を愛した。

僕に体液は無く、それが生命の営みとしては無意味な行為であったとしても、結び付くことに意味はあるのだと思えた。

だって僕は、確かに咲と繋がって、そこに満たされる何かを感じ取り、確かに何かを咲に与えたのだ。


『不思議なものね』

咲の就職先が確定したとき、何故かそんなことを思った。

それはミサの声ではあったが、つまり僕が思ったことなのだろう。

部長は高校教師になり、咲は児童養護施設の職員になる。

でも、そのことを知ったとき、どうして僕は不思議だと思ったのだろう?

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