第43話 女は怖い

空が白み始める頃、母さんとのぞみは机にすように眠りに落ちた。

僕は家から出られないけれど、二人の寝顔を見ていると何故か退屈しなかった。

安らぎみたいなものが部屋に満ちて、時間が穏やかに流れる。

母の柔らかな寝顔、希のしかめっつら

つい、口許がほころぶ。

どういうわけかミサも黙っていたけれど、僕の中で微笑むような気配がした。


日が高くなるにつれせみの声が勢いを増し、母さんが目を覚ました。

何となく僕の存在を感じるのか、ちゃんとこちらを見て「いるのね」と言った。

台所へ行き、二人分のコーヒーをれて戻ってくる。

飲めなくても香りを楽しむことは出来る。

『香りは、きっと記憶なのね』

ミサが呟くように言った。

希が目を覚ます。

「お兄ちゃ……?」

寝ぼけまなこでキョロキョロ周囲を見渡す。

僕は毎朝コーヒーを飲んでから学校に行っていたので、居間に漂うコーヒーの香りは、希の記憶を呼び覚ましたのかも知れない。

「おはよう、希」

寝起きの希はいつもより幼く見えた。

生意気盛りで、兄に甘えたい年頃はもうとっくに過ぎている。

『生意気に振る舞うというのは、甘えているのと同じよ?』

うん、きっとミサの言う通りなのだろう。

幼い頃、僕を見失った時のように心細げな目をしていた希が、ハッと我に返り、頬を赤らめてからコーヒーカップをにらんだ。

そして何故か、僕の目の前にあるそれに砂糖を大量投下する。

僕は甘いコーヒーが苦手なのだが……。

希が、「どうだ」と言わんばかりに悪戯いたずらっ子の笑顔になった。

『子供ね』

ミサの言う通りだ。

でも、今でもまだ兄に甘えてくれるなら、僕としては嬉しい限りだ。

「お兄ちゃん」

「うん?」

またうつらうつらし出した母を横目にうかがい、希は机越しに身を乗り出すと、手を口元に添え、声をひそめて言った。

「仕返ししてね」

「!?」

兄妹なら、悪戯されたらやり返す。

それは当り前のことだ。

けれど、今まで仕返しを要求されたことなど無い。

しかも甘くささやくように、しかも懇願こんがんと挑発が混ざったみたいな笑みで。

そもそも何にも触れられない僕に出来る仕返しといえば、せいぜい……覗き?

『つとむくん』

な、なんだ?

『前言撤回するわ』

僕も、先ほど同意したことを訂正しなければならない。

『子供じゃなくて女だわ、これ』

妹を「これ」と言われたことに引っ掛かるものはあるが、やはり兄の知らないところで、希は日々、成長していっているのだろう。

まあ子供だろうが女だろうが、兄と妹であることに変わりは無いのだが。

『妹を女として認識したくない気持ちは理解できるわ』

やめろ。

何も僕は無理に自分に言い聞かせているわけでは──あ。

希が僕のコーヒーカップを奪い取った。

それを両手で包むように持って上目遣いでこちらに目を向けると、まるで、そっと口づけするみたいに一口飲んだ。

……僕は悟った。

妹とは女であり、女とは怖いものである。


昼過ぎには咲が迎えに来たので家を出る。

本当に同棲するのか判らないが、取り敢えずはお隣さんの家へ。

希は最後まで渋ったが、子供の頃みたいにお互いの家を行き来するだけだと言って何とか納得させた。

実際、しょっちゅうお互いの家に泊りにいったりしていたものだ。

「勉」

咲の部屋に入ると、咲は改まった様子で口を開いた。

「あの、両親にはまだ言ってないの」

「あ、つまり例の証明方法を実演しながら話すのか?」

「そうじゃなくて……」

何だか煮え切らない。

信じてもらえない可能性はあるだろうが、クラスメートや僕の家族に信じさせた勢いはどうしたのだ。

「お母さんはいいんだけど……」

お父さんが信じてくれそうにないのか?

おじさんは厳しい人だが、父親のいない僕にとっては優しいお父さんのような人でもある。

随分と可愛がってもらったし、信じてくれたなら、ある程度は歓迎してくれると思うのだが。

『逆よ。信じたなら、娘が幽霊と同棲することを歓迎すると思う?』

あ!

僕としたことが、言われるまで気付かないなんて。

そりゃそうだ。

僕の幽霊の存在までは歓迎したとしても、それが自分の娘と同棲するとなると話は別だ。

そこに将来は見出せない。

交友活動、経済活動、そういったものが一切できない男に、娘をやれるわけが無い。

「えっと、だからね、取り敢えず勉はここに暮らして、徐々に、少しずつ存在を感じさせて、やがてはいるのが当たり前みたいに思わせようかと」

咲は最後に「ごめんね」と付け足す。

謝るようなことでは無い。

寧ろ咲は、僕よりずっと先のことを見据えている。

今だけの感情に流されているんじゃなくて、ゆっくり、しっかりと地盤を固めていくつもりなんだ。

「それでね」

咲はベッドに腰掛けた。

ポンポンとその隣を叩く。

横に座れということなのだろう。

「いきなりは困るの」

「それは判るけど、何にしても僕は存在感など無いのだし、徐々に明かすとしても僕に出来ることなんて無いんじゃ?」

「そうじゃなくて、一緒に暮らしても、その、我慢というか……そんな気が無いならそれはそれで困るんだけど……」

何を言っておるのだ。

恥じらう乙女みたいにベッドの上に指をわせて「の」の字を書く。

『つとむくん、バカなの?』

僕の中の人が僕をバカにする。

そうは言われても、女の考えることは男には理解しがたいのだ。

「私も出来るだけ我慢するけど……」

咲の顔が真っ赤になった。

何を言って……おるのだ?

「だから……私が声を我慢出来る範囲までで、勉も我慢してね?」

……いま理解した。

僕は咲に触れられる。

そして僕は咲に触れたい。

僕は男であり、咲は女であり、お互い好き合っているはずだ。

必然的に求め合う可能性があり、そうなれば声を漏らす行為に発展する可能性が生じる。

「だ、大丈夫だ。咲のお父さんに認めてもらうまでは、が、がま──」

『そこはスマートに言い切りなさいよ』

「が、我慢出来る」

「両親がいないときは? それだったらバレないよ? 私、すぐおっきい声出ちゃうけど……」

我慢しろと言っておきながら誘うような目をするな! 

しかも衝撃的で扇情的な事実を何で公表する!?

でも、そんな事柄とは裏腹に、咲は爽やかに僕を信じ切った目で言うのだ。

「もし、もし私が我慢出来なくて誘ってしまっても、勉ならこらえてくれるよね?」

……僕は改めて悟った。

幼馴染は女であり、女とは怖いものである。

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