第39話 よろしくね

僕は水の中で藻掻もがくように、不格好に手を泳がせた。

何にも触れることは無く、そこに何の気配も無かった。

ほんの少しだけ、ミサの匂いが残っているような気がした。

彼女はすでに満たされていたのだろうか。

満たされて、この世に未練を残すこともなく成仏じょうぶつしたのだろうか。

抱き締めることが彼女の成仏への引き金となったなら、僕はいったい、どうすれば良かったのだろう?

思えば、彼女の口振りは何かをさとっているようでもあった。

僕もそこから何かを感じ取っていた。

だから「抱き締めて」と言われて、躊躇ためいなくそれにこたえた。

ただ僕は、その行為は寧ろ引き止めるためのものだと、そんな風に意識のどこかで考えていた。

繋ぎ止めるために、僕はこの腕に力を込めたのだ。

「ミサ」

今更ながら、僕は声に出して名前を呼んだ。

月の光が降り注いでいた。

僕らは影を描かない。

まるで最初から、そこに何も無かったかのように、月の光はさっきまでと変わらず地面を照らしている。

僕は月を見上げた。

いや、にらんでいた。

ミサは確かにここにいたのだ。

その光をまとって、ついさっきまで。

なのに、何も変わらぬように月が地面を照らしていた。


僕は学校の敷地を歩き回った。

さっきまで暗かった中庭は、月の光が差し込んでいた。

ふと何かの気配を感じて振り返ると、渡り廊下を猫が歩いていた。

まだだ。

まだ僕は、中庭にいるミサも、渡り廊下を歩くミサも見ていない。

グラウンドを駆け回るミサも、プールサイドではしゃぐミサも見ていない。

ふっ、と笑みがこぼれた。

あいつ、スクール水着が似合いそうだな。

そう思って、僕はミサの、あの華奢きゃしゃな身体を、ひどく愛おしく思った。

まだだ。

僕は歯を食いしばった。

まだ、何もかも足りないのだ。


僕は歩いた。

耳を澄ませ、暗がりに目をらし、その名を何度も呼んだ。

初めて触れたときの、その手のひらの柔らかさを、何度も思い返した。

いつしか、僕はあの河原に来ていた。

耳の奥で、毒舌がよみがえる。

毒舌すら愛おしかった。

でも、そんな毒舌よりも何よりも、「つとむくん」と呼ぶあの声を、狂おしいほどに僕は欲した。

「ミサ」

名前を呼んだ。

月が川面かわもを照らしていた。

ゆらゆらキラキラと光って、僕の心を揺さぶった。

「ミサ!」

名前を叫んだ。

僕の声は、咲とミサにしか届かない。

だったら、何も遠慮する必要は無いのだ。

思いの限り、声を張り上げればいいのだ。

「出てこいクソガキ!」

思いの限り、罵倒ばとうしたっていいのだ。

「口ばかり達者なちんちくりん!」

思いの限り──

「ミサぁ……」

泣いていいのだ。


「阿川ミサさん」

終業式前のショートホームルーム。

僕が手を挙げないので、部長が少し困ったような顔をして先生を見た。

部長のロリボイスを心待ちにしている男子達は、その視線を部長から僕の後ろの空席に移した。

「ミサちゃん休み?」

雄介が僕に尋ねる。

「ああ、休みだよ」

たとえ聞こえない返答であっても、僕は「消えた」とは答えたくなかった。

あいつはきっと、どこかにいるはず

学校に通い出した。

その存在を認めてくれる人が出来た。

新たな居場所が生まれた。

それだけのことだ。

たったそれだけのことで、満たされて、思い残すことなく消えるなんて有り得ない。

だってそれは、本当にささやかな、人が当たり前に享受きょうじゅできることだ。

そんなことで満足したのなら、お前が不憫ふびんすぎるじゃないか。

お前は、不遜ふそんな態度で、僕を見下して、そして時々、年相応な無邪気な笑顔を浮かべて、そうやってまだまだ幸せを得なければならない。

お前はまだ、消えるなんて許されない。


終業式を終え、咲と二人で帰る。

黙り込んでいる僕を見て、咲は何か言いかけては口を閉じるということを繰り返す。

ミサがいなくなったことは、まだ伝えていない。

けれど、何かがあったことは感じ取っているのだろう。

「きょ、今日は漫画の発売日だけど……どうする?」

うかがうようにいてくる。

そう言えばそうか。

楽しみにしていたコミックの新刊が出る日だ。

以前は楽しみが少なくて、まだかまだかと待ちびていたけれど、気が付けば毎日が賑やかになって、発売日も忘れてしまうくらい小さな事柄になってしまっていた。

「本屋に……寄るか」

あまり気乗りはしないが、かといってふさぎ込む姿を見せてばかりはいられない。


いつものように僕の部屋で本を読む。

以前より二人の距離は近く、自然と寄り添うように読む。

『あ、このマンガ知ってる』

心の中で、ミサの声が甦る。

いや、でもアイツ、マンガとか読むのだろうか。

『ここがつとむくんの部屋かぁ』

これはまあ、部屋に連れてきたなら言うだろう。

『女の子を呼ぶには殺風景な、どーてー! って感じの部屋だわ』

うるさいよ。

でも、これもまた、アイツなら言いそうなセリフである。

『ちょっと、まだ読めてないのにページが進んじゃったわよ?』

それにしても、随分とうるさい幻聴だ。

『あら、幻聴だと思ってるの? 私はとらわれの姫なのに』

囚われの姫、か。

いかにもミサが言いそうなことだ。

僕が抱き締めて、ミサは僕の中に閉じ込められてしまった、なんてことなら笑ってしまう。

『私も目が覚めて笑いたい気分よ』

自分の中に作り出した幻影と会話をしてしまうようでは、重症と言えよう。

『きっと、つとむくんが私をこの世に留めたのね』

だったら、どれほど嬉しいことか。

『まだ信じてないの? じゃあ私しか知り得ない情報を教えてあげるわ』

お前しか知らない情報なら、適当に嘘を言っても確かめようが無いじゃないか。

『私は嘘なんてかないわよ、いい? 極秘情報よ。心して聞きなさい』

ミサの声は頭の中で響いた。

いや、聴覚に直接伝わるような、不思議な聞こえ方だった。

『スリーサイズよ。バスト八十──』

嘘を吐くな!

『あら、失礼ね。今度こそ実体が無いんだから、嘘ってことにはならないわ』

そうか、ならせいぜい理想の身体を描いてくれ。

『まあそんな理想を描くまでもなく、私のラブリーな姿が失われたのは世界にとって損失よ』

それでいい。

お前は……それくらい傲岸ごうがんであっていいんだ。

「ちょ、勉!?」

我に返る。

咲が僕の顔を覗き込んでいた。

「えっと、確かに幸せで感動するシーンだけど……」

マンガの中で、主人公は泣いていた。

『つとむくんは泣き虫ね』

お前が、そこにいるから。

『ええ、私はここにいるわ』

咲の手が、僕の頭を撫でた。

ミサの声が、僕の心をくすぐった。

ミサは──

僕の中にいたんだ。

『つとむくん』

狂おしいほどに欲した呼びかけ。

『これからも、よろしくね』

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