第32話 新しい朝

まだ誰もいない朝の教室。

いや、扉が開いているのだから、既に部長か誰かが登校しているはずだが、トイレにでも行っているのだろうか。

それにしては、いつもより時間が早すぎるけれど。

昨日の放課後、全ての生徒が僕を受け入れてくれたわけでは無いにしても、拍手が湧き起こった後も大半の生徒が残り、咲から「僕というもの」の説明を受けた。

退屈な夜を過ごしている僕が、しょっちゅう朝一番に登校していることや、物に触れられないから扉も開けられないことなどを咲は話した。

そんな話を聞いた誰かが、気を利かせてくれたのかも知れない。

窓際のいちばん後ろの席。

窓が開いており、朝の風にカーテンが揺れている。

あつらえ向きに椅子が引かれていて、座れる状態になっている。

「あれ? 咲はそこまで話したっけ?」

まあ話していなくても、物に触れられないと言ったことから想像できることではあるが。

……いや、そもそも僕の席がいちばん後ろではなくなっているのだが?

何故か僕の席の後ろに、もう一つ、机が用意されていた。

こっちもご丁寧に椅子が引いてある。

多分、幽霊少女の席だ。

僕は部長の席を見るが、やはりまだ鞄は無い。

……もしかして、先生?

生徒の誰かという可能性も勿論あるが、この時間から扉が開いていて、机まで用意するとなると先生である可能性が高いように思う。

あの小柄な先生が、どこかから机と椅子を運んできたのだろうか。

うーん、普段の冷たい表情とのギャップが凄いな、と思っていたら、その先生がスパナを持って教室に入ってきた。

何をする気だ?

先生は僕の横を通り過ぎ、少女の席の前でしゃがむ。

……あ、そういうことか。

椅子の脚に付いているナットをゆるめ、座面を低くするつもりなのだ。

少女が中学一年くらいだから、標準の高校生に合わせた高さでは使いづらいと考えたのだろう。

ナットは固着してしまっているのか、きつく締まり過ぎているのか、先生は歯を食いしばって「んー!」と声を漏らす。

……凄く手伝いたい。

せめて声援くらいは送りたいが、それすら出来ないのが幽霊のツライところだ。

でも、こういった優しさに触れられることは、幽霊になって知った喜びでもある。

盗み見しているようで気が引けるけれど……。

カーテンが揺れ、それに合わせてせみの声も揺れる。

涼しい風というわけでは無いようで、先生の頬に汗が伝う。

タマちゃん先生の、玉の汗、玉にきず

色々と頑固で偏屈なところがありそうで、それでいて頑張り屋さんだから、知り合いからはどちらの言葉もよく言われたのでは無いだろうか。

「ふぅ……」

座面は低く固定され、机の高さもそれに合わせられた。

また旦那さんに褒めてもらえるのかな、なんて考えると微笑ましい。

……まいったなぁ。

僕は自分の声で自分の言葉を伝えられないのだ。

こんなことなら、生きているうちにもっと話しておくべきだった。

だから旦那さんには、思いっきり先生を褒めてあげてほしいなぁ。


先生の去り際に、ちりんと鈴の音が鳴った。

ちょうどカーテンが大きくひるがえったので、一瞬、どこかで風鈴でも鳴ったのかと勘違いしたが、先生が首に着けているチョーカーの鈴の音だと気付く。

もしかしたら、ちょっと猫みたいなところも含めてタマちゃん先生なのかも知れない。

先生と入れ替わるように幽霊少女が登校してくる。

「ちゃんと来てくれたんだな」

中学の制服だから違和感があるが、まだ誰もいない教室は、少女に似つかわしい空間にも見える。

「ま、アンタの退屈しのぎの相手に任命されてるし」

少女はだるそうにそう言ってから、僕の後ろに用意された座席に気付く。

「ず、随分と背の低い生徒がいたものね」

「ああ。転校生だ。しかも飛び級で頭がいいらしい」

「へ、へえ、ガキ扱いでチビだと決め付けてるんだ?」

確かに僕は、少女は中学一年くらいと伝えたが、身長に関しては誰にも言っていない。

だから、小さいと決め付けられたことに腹を立てているのかと思ったが、少女の口許は嬉しさを隠すように歪んでいる。

まあ、実際コイツは小さいのだし。

「で、この席は私が座っていいわけ?」

何だか座りたくてウズウズしているように見える。

「ああ、君のために用意された席だからな」

「そ、そう、じゃあ座らせてもらうわ」

そう言いながら、どこか遠慮がちに躊躇ためらっているようにも見えた。

「何をしている? 早く座れ」

「わ、判ってるわよ」

「……君の居場所が、増えたんだ」

「私の、居場所……」

幽霊にとって、居場所なんて無いに等しい。

せいぜいお墓か仏壇か。

それもどちらかと言えば、生きている人間側の都合で用意された場所だ。

だからこの場所は、少女にとっても特別な場所になる。

少女は、噛み締めるようにゆっくりと席に着いた。

座り心地なんて判らないだろうけど、久し振りの感覚なのだろう、机を撫でるように手を這わせる。

少女が黒板に目を向けた。

目がキラキラしているのは、新入生の気分なのか、それとも──

「出席番号一番、阿川ミサ!」

「?」

「はい!」

少女は自分で名前を読み上げ、それに返事した。

少女は初めて見せるような満面の笑みを浮かべ、そして泣きじゃくった。

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