第6話 耳

教師が来て、朝イチから小テストが始まった。

みんなが下を向いて、しんと静まり返った教室の中を、僕は教師の後ろに付いてうろうろする。

咲はそれが気になるのか、あまりテストに集中できず、チラチラとこちらをうかがう。

「こら、たちばなさん、余所よそ見をしない!」

僕がビシッと言ってやる。

勿論、その大声にビクッと反応したのは咲一人だ。

斜め後ろにいる僕を振り返るわけにもいかず、咲は苛立いらだたしげにシャーペンをカチカチ鳴らす。

イライラは消ゴムの使い方にも表れていて、乱暴にゴシゴシと答案用紙をこすり、その弾みで机から消ゴムを落とす始末。

相変わらず短気だ。

身をかがめて床に手を伸ばした咲は、消しゴムを拾いながらチラッと僕に視線を向ける。

怒っているのかと思いきや、髪を搔き上げて耳を出し、悪戯っぽく笑みを浮かべて見せた。

僕は気付く。

消しゴムを落としたのは、イライラしたからなんかじゃない。

僕に耳を見せるために、わざと落としたんだ。


咲の耳は大きい。

それが咲のコンプレックスだった。

子供の頃から小顔で整った顔立ち、手足は長く、全てが均整の取れたスタイル。

そんな恵まれた容姿の中で、耳だけが大きかった。

ちょっと違和感を覚えるような、ちぐはぐな印象。

周りの男子達は、「耳デカ」と言ってよくからかっていた。

「宇宙人」、「エルフ」とか言うヤツもいたっけ。

「エルフ」はともかく、「気持ちわるー」なんて言葉は、咲をけっこう傷付けたのではないかと思う。

でもそれはきっと、綺麗な女の子の気を引きたいがためにする、男子によくあるアピールみたいなものだ。

けれど、そんな子供っぽい男子の心理など、咲には判らない。

咲はいつも、髪で耳を隠すようになった。

「僕は咲の耳は可愛いと思うけどなぁ」

慰めじゃなく本心で、まだ幼い僕は言った。

あまりに全てが整い過ぎた存在よりも、ほんの少しのほころびのような、そんなアンバランスさが可愛らしいと思っていたのだ。

「ホントに?」

隣の家の綺麗な女の子。

気が強くて、口喧嘩になるといつも僕は負かされる。

そんな咲が、「隠す」という選択をするのが僕には嫌だった。

「ホントだよ」

「気持ち悪くない?」

そんな不安げな顔も、咲には似合わないと思った。

「じゃあ、勉は私の耳にさわれる?」

咲が躊躇ためらいがちに髪を搔き上げた。

あらわになった耳。

何故か、ひどく淫靡いんびなものに見えた。

恐る恐る伸ばした指で、最初は耳の外縁に触れた。

やや硬く、さらさらとすべすべが合わさったような手触り。

咲は真っ直ぐに僕を見ていて、僕はその強い視線から逃れるように、咲の耳ばかり見ていた。

やがて指は、咲の耳朶みみたぶへと誘われるように動いた。

耳朶はぷにぷにして、触っていると気持ち良かったが、咲もそれは同じなのか、少し口元を綻ばせて、柔らかく睫毛まつげを伏せていた。

とくん、と胸の奥で何かが跳ねるような気がした。

慰めのような、たわむれのような行為は、やがて耳の内側へと進んでいく。

改めて見れば、耳というのは不可思議な造形をしている。

そしてそこにある、無防備で可愛らしい穴。

そっと指を差し込むと、咲はくすぐったいのか首をすくめるようにして、「ん」と声を漏らした。

その瞬間、僕の中に電気が走ったように思えた。

それが確か、小学校三年生のとき。

そしてその戯れは、小学校五年生の頃まで続いた。

二人で一緒にいるとき、咲が僕の目を見て小首をかしげるようにして笑い、髪を搔き上げたら「触って」という合図だ。

授業中にも、たまに目が合ったりすると咲は悪戯っぽく笑い、わざと髪を搔き上げ、その耳を露にしたりした。

その仕草は、僕にはひどく性的なものに感じられたけれど、咲にとっては単なるからかい、あるいは、耳を褒めてくれてありがとう、といった程度の意味しか無かったのかも知れない。

でも僕にとっては、淡く秘めやかな、まるでうずみ火みたいな性のうずきをもたらす出来事だった。

咲が、「触って」という仕草をあまりしなくなったのは、やはりお互い恥ずかしさを覚える年頃になったからだろう。

小学校六年生以降、無意識に髪を搔き上げる仕草は見せても、あの、子供であっても蠱惑こわく的と言えるような笑顔は、全く見せなくなってしまった。


「咲」

僕は咲の机の横に立った。

咲は顔を上げず、答案用紙に「どうしたの?」と書いた。

「いや、懐かしかったから」

懐かしいだけじゃなく、本当は幼い性衝動が甦ったかのようで、居ても立っても居られない気分になったのだけど。

咲がまたペンを走らせ、「今思うとエロかったよね」と書く。

と言うことは、いまさっきの行為はエロいと自覚してのことなのか!?

いや、違うか。

咲が言っているのは、耳を触らせる行為であって、それを誘う自分の笑みがエロいとは気付いていないのだろう。

「耳が丸見えだぞ」

髪はまだ、耳に掛かったままになっていた。

子供の頃ほど大きくは見えないし、特に個性的な耳というわけでは無いけれど、かつて僕が触りまくったのだと思うと、何かいけないものを見ているように思えた。

咲は自分の耳に手を伸ばし、その綺麗な指でなぞるように触れる。

くそ、僕にとってそれは、脚を広げて「来てぇ」と言うに等しい行為だぞ。

答案用紙に、「耳フェチ?」という文字が書き加えられた。

そうかも知れない。

そしてそれは、子供の頃の体験に基づいたものだ。

「と言っても、咲以外の耳にはこれといって惹かれないな」

つい本心を言ってしまう。

視線を答案用紙に向けたまま少しだけ目を見開いた咲は、何を思ったのか、耳が僕に見やすい角度になるよう首をかたむけた。

咲は綺麗な字で、「では、とくとご覧あれ」と書く。

いやだから、それは僕にとってみれば、脚を広げて「見てぇ」と言うのに等しいのだ。

でも、「お蔭でもうコンプレックスじゃないからね」という文字を見たとき、咲は僕のセリフを、かつての慰めと同じように受け止めたのだと気付いた。

「はい、じゃあ後ろからプリント回収して」

教師の声が響く。

もうそんな時間か。

「え? ちょ、待って!」

咲は慌てて、エロかったとか耳フェチとか書かれた答案用紙に消しゴムをかける。

いや、そもそも解答欄、まだ空いてるんだが。

「もう、アンタのせいなんだから!」

咲の独り言に、周りの生徒が怪訝な顔をする。

案外、子供の頃から咲は変わっていないのかも知れない。

耳じゃなくても、またいつか咲に触れられる日が来るのだろうか。

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