第5話 朝の教室

「ふっ、また徹夜してしまった」

明け方には雨が上がり、東の空には太陽が顔を出していた。

自宅の前に立ち、ポストの新聞を取りに出てきた母親の顔色を見てから、また歩き出す。

野良猫に朝の挨拶。

「ふん、お高くとまっていられるのも今のうちだと思え」

僕を見向きもしない猫にそう言い放つと、中指で眼鏡を持ち上げる仕草をした。

触れないのだからカッコだけだ。

道端で地面をついばむ雀にも挨拶をする。

当然ながら無視されるが、鳥の場合は逃げないだけでも嬉しい。

ただ、犬や猫、鳥などの動物の中には、時おり僕に気付いたかのように警戒心を見せるヤツもいる。

咲と接していないと、僕は「無」ではないかと不安に駆られるが、希薄な、あるいは微弱な、「僕」というものの何かが確かに存在しているのだと、動物は教えてくれることがある。

通い慣れた高校前。

教師が高校の門を開けると同時に校内に入るが、教室の扉が開けられないのでクラスの誰かが来るまで廊下でたたずむ。

不思議なものだ。

廊下に座ったり、そもそも立って歩いたり出来るのに、物に触れられないというのは矛盾している。

感触こそ無いものの、地面や床に接しているのだから、それは触れているのと同じことのはずだ。

あるいは何かコツのようなものがあるのかも知れない。

……考えても無駄か。

存在自体が説明不可能なのだし、常識や概念は通用しないのだろう。

「お、やはり一人目は部長か」

最初に現れたのは、いかにも文学少女といった感じの女子生徒。

僕は部活には入っていないけれど、この子の所属する文芸部の部室で暇潰しをよくさせてもらった。

もっとも、一年の時のことだから、当時、彼女はまだ部長では無かったが。

その部長の後に付いて教室に入る。

まだ誰もいない教室は、どこか物足りないようで、でも何故か落ち着く静けさに満たされている。

うちの学校は基本的にクラス替えが無い。

席替えは何度かしたが、そうでなくても毎日こうして学校には来ているから、全員の座席は把握している。

僕の席は窓際の真ん中辺りだったけれど、今は最後尾に移動させられている。

部長は教室のほぼ中央。

僕は椅子が引けないから、行儀はよろしくないが机の上に座り、斜め後ろから部長を眺める。

綺麗に束ねられた髪と、ページをめくる白い指。

彼女が薦めてくれる本は大抵面白く、その考察も聞き応えのあるものだった。

だから部長がいま読んでいる本も、暇潰しに盗み見して読みたいのだが、距離的に密着することになるし遠慮した方がいいだろう。

不意に部長が立ち上がり、本を抱えてこちらに向かってきた。

まさか? と思って身構えるが、眼鏡の奥の視点は僕に合っていない。

「二宮、脅かさないでくれ」

もちろん部長は聞き取れないし、視線を向けもしない。

ただ、僕の席の前で立ち止まり、暫し机をじっと見つめた。

いや、そこ、ちょうど僕の股間があるんですけどね。

「沢村君」

……部長?

「これ、読めたから入れておくね」

……二宮。

僕の机の中に、そっと本を差し入れる。

「面白かったんだけど、主人公の心変わりを沢村君はどう受け止めるのかな」

部長の読書傾向から、たぶん主人公は女性だろう。

女性の心変わりについては、僕はよく否定的な解釈をして部長と揉めることも多かった。

「でも、半ば言い争いみたいな議論が、より読書を楽しくしてくれたなぁ」

「最近は読書が、少し物足りないよ」

「はは、僕はその読書すら出来なくて悲しいよ」

「文芸部の後輩達は素直で私の言うことをよく聞いてくれるけど、沢村君みたいに忌憚きたんのない意見は言わないから」

「一度、後輩達の顔も見に行かなきゃと思ってたんだ。まあ僕は部員では無いけどね」

「部室の沢村君が座ってた席も、空席のままだし」

「あの窓辺の席で本を読むのは心地よかったなぁ」

ちぐはぐなようで、成立しているみたいな会話をする。

いや、お互いが独り言を重ねる。

僕の届かない声は別にいい。

ただ、二宮の声は僕に届いていると、それだけでも伝えられたらいいのに。


教室に生徒が増えてくる。

僕の隣の席に集まる男子が三人。

君達は、また朝からスマホでエロいものを見ているのかね。

男子だから僕も遠慮なく近寄って覗き込む。

「まったく、雄介はやっぱり緊縛きんばく物か」

何度も口にしたことのあるセリフが自然と出てしまう。

「お前、そっち系ばっかだな。実際にしばれんのかよ」

「ふ、やったことは無いが、妹の縫いぐるみを使って練習はしている」

雄介の妹が見たらトラウマになるんじゃないか?

「こう、下から引っ張ってきてだな」

「やめたまえ。そこは僕の股間だ」

「こういう風にぐるっと」

まるでイチモツを縛られる気分なので、自分の席に戻る。

「それにしても」

コスプレものが好きな光成が、緊縛談義をさえぎるように声を出す。

雄介の手は、エアロープを結び続けている。

なるほど、慣れた手つきだ。

「勉がいないと、どうもエロ談義も盛り上がらないな」

三人が僕を、いや、僕の席に顔を向けた。

「アイツは女子がいてもお構いなしだったし、そこに女子が口を挟んできて言い争いになるのが面白かったよな」

おい、僕が女子の前でエロネタを話すセクハラ野郎みたいに言わないでくれ。

「まあアイツは、エロではなく美を語っていた気もするけどな」

当たり前だ。

僕が女子と言い争っていたのは、女体の美とその観点だ。

「あー、だからあんな堂々と熱弁できたのか」

「実際、女子も対抗するばっかりで、引いてる様子は無かったしな」

「見せパンなど愚の骨頂だ、とか言ってた時もあったよなぁ」

「スカートの下にハーパン履くのもそう言ってたぜ」

「それで女子が怒って」

「スケベ観点で言ってるのでは無い! 見られたら恥ずかしいと思うからこそ女性らしい所作しょさが自ずと生まれるのだ! それを自ら放棄してどうする! とか言って、確かにそれはあるかも、なんて一部の女子も納得したりな」

「あー、あったあった。で、その後──」

……言い争い、か。

口は災いの元、なんて言ったりもするけれど、言い争えるなんて幸せなことだ。

僕の主張も、僕の意見も、認められないとしても届くのだ。

いや、そんな大層なことじゃなく、エロ談義がしたいなぁ……。

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