暗がりに墜ちる星

甘露濤波

路地裏から響く音色

 金曜の夜、喧騒が絶えず眠ることを知らない繁華街。あるところでは、労働を終えた大人たちが飲み屋を出てくだらない話でバカみたいに大笑いする声が響く。あるところでは、冴えない男がアジア系の怪しい女の客引きに流されて騙される運命に遭おうとしている。あるところでは、ブランド物のために金を求める少女を、法を犯して援交に及ぶ信楽焼の狸みたいな中年が雑踏に紛れている。あるところでは、泥酔した酔っ払い同士がつまらない因縁をつけて乱闘が勃発しようとしている。

 そんな混沌の坩堝の外側、人気のない裏路地に六人でたむろする不良を相手に恐喝を行っている男がいた。男は未成年だったが一八〇を優に超える大男で、日陰のアスファルトのように冷たい目で不良を見下ろしている。

「なあ、この一帯はオレの縄張りなんだよ。んなとこでイキって酒盛りしてんなら、ショバ代で有り金全部置いてけ。言う通りにするなら悪いようにはしねえさ」

 男が口八丁にでたらめをまくし立てると、案の定その言いがかりに腹を立てた一人が敵意に満ちた表情で男を見上げて言い返した。

「はあ? どこにもそんなこと書いてねーだろ、つーかオマエ何なの? いくらデカブツでも俺ら全員相手に勝てるわけないっしょ。脳みそツルッツルなんじゃない?」

 これでもかと罵詈雑言を吐き捨てる不良に対し、男は身体の内側で嗜虐心を昂ぶらせていた。男はこの夜の街において百戦錬磨の怪物であった。昼間に燻らせている負の感情を心置きなく爆発させ、通り魔的に喝上げをしていた。一部の界隈ではその凶悪な存在を認知されていて、深夜に人のいない道を無闇に歩いてはいけないと喚起されるほどだ。しかし、世間知らずの不良たちは無謀にも彼の喧嘩を買ってしまった。それが唯一絶対の誤りだろう。どちらにせよ、彼に財布を搾り取られ、路地に打ち捨てられるという結末は変わらないが。

 殴り合いが始まって間もなく四人が圧倒的な暴力で地面にのされると、残りの二人は恐怖で戦意を失い、財布からありったけの札と小銭を投げ捨てて、死に物狂いでその場から逃走した。男は追いかけてやろうかとも考えたが、金は置いてったようなので見逃すことにした。路上に落ちた金と気絶している奴らのポケットから財布を取って金を抜き取ると、興味をなくしたように財布を投げ捨てて、その場をあとにした。

 実のところ、男がここで恐喝を行ったのは数週間ぶりだった。最近は別の街で活動をしていたので、戻ってきた矢先に不良たちが目をつけられたのは、不幸以外の何物でもなかった。そんな他人の事情を男は知る由もなく、だらだらと狭い路地を進む。

「それにしても意外と持ってんじゃん、あのイキリ野郎共。いや、六人いたし妥当な額かな。このあと、なに食おっかな――」

 不良に向けていた殺気が嘘のように、呑気に独り言を呟いていると、ふと男の耳に聞きなれない音が入ってきた。喋るのをやめて耳を澄ましてみると、それは弦を鳴らすような音だった。楽器はあまり詳しくないが、おそらくアコギの音色だろう。ただ、そのメロディはどこか不器用で不安定に思えた。男はその音色が何となく気にになり、音の鳴る方に足を向けた。

 男はすぐに音の在処に辿りついた。そう遠くない場所で夜の街に似合わない華奢な青年が胡座をかいてギターを鳴らしていた。肩に触れるやや長い黒髪は中性的だが、顔つきは地味なありふれた青年だった。しかし、誰の目にもつかない薄暗くジメジメした場所でギターを弾いていることがまず異質だった。男は世捨て人のような青年の雰囲気が気に入らず、邪魔をするように大きな声で短く呼び掛けた。

「おい、オマエ」

 青年はギターを弾く手を止めて、上空を見上げた。そこには怖い顔の見知らぬ男の姿があったが、青年は意外にも取り乱すことなく応じた。

「どうかしたのかい?」

「オマエ、誰の許しを得て、こんなとこで夜中にギター弾いてんだよ」

「特に許可はもらってないけど、ここは誰もいないし、ちょうどいいかなと思って。キミはどうしたの?」

「キミって誰に向かって口聞いてんだよ、オマエもオレのこと知らねえのか? さっきの糞共といい、少し空けたぐらいで知名度って下がるもんかね」

「キミもボクのことをオマエって言ってるし、お互い様じゃないか。それにキミのことは知らない。ボクがここに初めて来たのはつい二週間前くらいだったかな」

 青年は全く恐れる様子もなく淡々と受け答えをする。青年には男に対する恐怖も敵意もなかった。その態度が自分を小馬鹿にしているように思えて無性に苛立ちを覚えた。男は青年をビビらせてやろうと暴力をちらつかせる。

「オマエ、あんまり生意気言ってるとぶっ潰すぞ。持ち金全部出したら許してやるよ」

「暴力はやめてくれよ、苦手なんだ。それに今はこのギターしか持ち歩いてない」

 青年は殴られる痛みを想像したのか、相応に臆病な顔をして男の言葉を拒んだ。男は青年の掴みどころのない振る舞いに、苛立ちがぐるぐる回ってどこかに吹っ飛んでいくほど調子を狂わされていた。ムカつくことには変わりないが、手を上げる気は沸いてこない。

男が棒立ちしていると、青年は穏やかに呼び掛けた。

「せっかくだったら聴いていってよ、ボクの演奏」

「……一仕事終えて暇だったし、付き合ってやるよ」

 男は拍子抜けで毒気を抜かれて、仕方なく答えた。その返事を聞くと、青年は有名なバラードの名前を口にして、ギターを弾き始めた。しかし青年の演奏は、あまりにたどたどしく、コードもしょっちゅう間違えては詰まり、とてもじゃないが人に聴かせられる水準に達していなかった。男は青年にコケにされたと思い、勢いに任せて怒号を浴びせかける。

「テメエ、あれだけカッコつけておいて、つまんねー演奏してんじゃねえよ! ぶん殴られてえのか!」

「本番になったら上手く引けたりしないかなって思ったけど、そんなことはなかったね。こう見えてギターを始めたのも二週間前なんだ」

「テメエ、マジでぶん殴るぞ!」

「ああ、怒らないでってば! ボクだって端から失敗するつもりで弾いてるわけじゃないんだ、勘弁してくれよ」

 男は振り上げた拳を止めたあと、徐ろに下ろした。青年の前だと感情が沸いてきても、すぐに興醒めしてしまう。殴る気にもならないほど軟弱な奴だった。男は冷めた頭で青年にこう尋ねた。

「オマエ、名前はなんて言うんだ」

「ボクは朔也。キミはなんて言うの?」

「晴仁だ。絶対に他の奴に言うんじゃねえぞ」

「それは心配いらないよ。言う相手もいないし、そもそもキミがどういう人かも全然知らないし」

「……ならいい」

 晴仁はこのときに初めて朔也という人間の片鱗を見たような気がした。晴仁の警告に対する朔也の答えはどこか寂しげで孤独を感じさせたが、自分には関係のないことだと言葉を飲み込んだ。

 互いに名乗りあったところで、晴仁は一番の疑問を口にする。それは至極単純なものだった。

「オマエさ、なんでこんなとこでギター弾こうと思ったの? 家で弾くなり公園で弾くなり色々あんだろ、なんで埃っぽくてカビくせえ場所でやってんだよ」

 元を辿れば晴仁が朔也のところに来たのも、裏路地なんていう場所でギターの音を聞いたからだ。まあ、裏路地が好きだからなんて言ったらそれまでだが、質問にする意味はあると晴仁は思った。

 朔也はしばし逡巡したあと、悩みながら答えを紡いだ。

「ボクは人がいるところが怖いんだ。恐怖がボクの心を締め付ける。でも、人のいない夜は心が自由になれるんだ。ここは滅多に人が来ないみたいだし、表の喧騒から離れて静かだから」

 朔也の声には空虚な寂しさがあった。深い青で澄み渡る空間にポツリと独りでいるような、そんな感覚だ。頭の良くない晴仁にその心象を表す語彙はなかったが、間違いなくそう思えた。

「オマエさ、普段何してんの」

「日中はずっと家にいるよ、外に出るのが怖くてね。病院で薬ももらってるけど、それもあんまり」

「へえ。――不思議な奴だな」

 思ったような言葉が見つからず、適当に浮かんだものをそのまま口にした。実際、その通りだと晴仁は思う。他人が怖くて外に出られない病んだ人間が深夜の裏路地で活き活きしてるなんて奇妙な話だ。その二面性は二重人格に似たものを感じるが、口振りから察するにそういうわけでもないらしい。

 と、そこまで考えて、晴仁は新たな疑問が頭に浮かんだ。それは晴仁の名誉に関わるものだった。

「……オマエさ、人が怖いって言うならなんでオレと話せるんだ?」

「あ、そういえばそうだね」

「もしかしてオレのこと馬鹿にしてんのか、ああ!」

 突然、声を荒げてキレだした晴仁の言いがかりに、朔也は必死な表情で腕を振って否定した。

「そそそ、そんなわけないじゃないか! えーっと、なんだろうな。晴仁くんになら話してもいいかなって、自然な感じで……」

「そりゃどーいう意味だ、オレのこと舐めてんのか」

「――ボクはさ、きっと暗闇に墜ちてきた星の欠片みたいなものなんだよ。社会から抜け落ちたときに光を失って、もう石ころ同然な星の欠片。他人は輝いているのに、ボクは光を失って輝けない。別にそれで良かったんだ。こうやって暗闇に紛れて、のんびりするのも心地いいから。だけど、キミはボクの存在に気づいてくれて、ここに来た。それが嬉しかったのかもしれない。あとは晴仁くんがちょっと変わってるから、逆に気が楽だったのかもしれない」

「……オマエ、分かりにくい話してんじゃねーよ。オマエあれか、電波系って奴か。ホントに不思議だな」

 己の世界観に浸って詩人のように自分語りをする朔也に、晴仁は軽く悪態をついた。だが、胸中は不思議と静かで落ち着いていた。独りよがりで自分に酔った台詞だったが、その思いだけは言外に伝わってきた。決して口にはしないが、少し胸が温かくなった。これまで悪を為してきた自分がそんなことを言われるなんて思いもしなかったから。

「つーかよ、ギターをべんべん鳴らしてりゃ誰か気づくだろ。やっぱ納得できねえな。オマエはオレのこと知らねえから色々言えんだよ」

「確かにそうだけど、ボクみたいな奴とも喋ってくれるし、晴仁くんは優しいよ」

「あー! ムシャクシャすんなあ、オマエ!」

 晴仁は縁のない響きがむず痒く、耐え切れずに朔也の髪を右手でくしゃくしゃにした。それが衝動と暴力の折衷案からの行動だった。朔也は予想だにしない晴仁の反応に驚いたが、悪い気はしなかった。

「オマエ、明日もここでギター弾いてんのか」

「どうかな。来ない日もあるかもしれないけど、弾きに来ると思うかな。落ち着くしね、ここ」

「じゃあさ、なんか曲作って聞かせろよ。暇潰しにさ」

「ええっ! ボク、初心者なんだよ? そこまでは流石にちょっと……」

「んなもんカンケーねーよ。別に上手い演奏を聴かせろってわけじゃねえ、オマエのちゃんとした演奏を聴いてみたいだけだ。じゃねえと宝の持ち腐れだぞ、それ」

「――そうかもね。今は難しいけど、まともに弾けるようになったら考えてみるよ」

「それでいいんだよ。んじゃ、オレ腹減ったから行くわ。ちょくちょく覗きにくっからな、ちゃんと練習しとけよ」

「うん、分かった。それじゃあ、また今度」

 晴仁が背を向けて歩き出すと、朔也は覚束無い調子でまたギターを弾き始めた。暗闇に墜ちた星の欠片は、ささやかな祈りを込めて、今日も音を鳴らす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗がりに墜ちる星 甘露濤波 @mochiwave157

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ