第9話
その日の朝、僕が教室に入るとみんなが一斉に口をつぐんだ空気があった。黒板には大きな文字で一限の数学の授業が自習になる旨が書かれていた。出来るだけ平然とした素振りで窓際の自席に進み椅子に座った。空は雲のほとんどない秋晴れで、ざわめく内心との齟齬にいっそう気持ちが滅入った。
ほどなくして始まったホームルームで石渕先生が、季子先生が一身上の都合により長期の休職に入ることを告げた。教室の所々で小さく声が上がり、生徒同士で声をひそめて話すささやきが幾つか聴こえた。僕は石渕先生に歩み寄って詳しい理由を問い質したい衝動を必死に堪え、重たい澱みが腹の底に溜まっていく感覚を憶えながら、じっと下を向いて話を聞いていた。
一限の数学の自習時間が始まっても、僕の気持ちは重たく澱んだままで、力の入らない身体を椅子と机にもたれかけ、ただただいたずらに悲しい思考を巡らせ続けた。次々湧いてくる悲愴な想念を遮断しようと、幾度か机に突っ伏しての睡眠も試みたが、思惑とは反対に視界を暗くすることが思考の連鎖を加速させ、浮かんでくる負のイメージの連なりに心を乱されて一睡もすることができなかった。もどかしさが体内に充満して抑え切れなくなる度、机に顔を伏せたまま身を捩らせた。
授業が終わりに近づいた頃、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンに冬子からメッセージが届いた。おそらく僕の状態を案じる連絡だろうと何気なくメッセージを開くと、そこにはラブホテルの入り口の前で男性に肩を抱かれホテルに入って行こうとしている季子先生の姿があった。それはホテルと同じ道沿いの少し離れた場所から撮影されたもので、正面から歩いて来た男女が道の脇に建っているホテルの入り口に入ろうと曲がる瞬間を写した画像だった。より人物を拡大して見せる為に加工したのか、その画像は縦位置の画面の中に男女二人の頭から太腿の辺りまでを収めた構図になっている。手前にいる季子先生の横顔がはっきりと確認できるのに比べ、ニット帽を被る男の顔は先生の頭に隠れてよく見えない。ただ、彼の左手の薬指には銀色の指輪がはめられていた。
その瞬間僕は事の顛末を理解した。頭の中が鮮明になり、心臓が早鐘を打った。僕はその場所で撮られた写真を何度も目にしたことがあった。
授業終了のチャイムが鳴るとすぐさま教室を出て、猛然と廊下を進んだ。何度か人とぶつかったような衝撃が肩の辺りにあったが、気に留めず歩き続けた。六組の前に着いたところでちょうど扉から出てトイレの方に向かおうとしていた徹の肩を後ろから強く掴んだ。徹が若干大きく目を開いてこちらを振り返った。
「おお、どうしたハル。怖い顔して」
「これ、徹が撮ったのか」
自分のスマートフォンの画面を徹の前に突きつけて言った。
「ああこのまえ美術雑誌に載ったやつか。撮ったよ」
「自分が何したかわかってんのかよ」
「何って。俺は本当のことを写して発表しただけだよ。より真実を写していると感じるものを発表するのが作家の誠実さだろ」
「ふざけんなよ」
スマートフォンを床に叩きつけた。
周りに居た多くの生徒が一斉にこちらに視線を向けるのがわかった。
「そんなに本当のことが大事なのかよ。この生活の白々しさも、汚い部分も、そんなのみんなとっくにわかってんだよ。それをわざわざ公に晒して一体誰が幸せになんだよ。もうそっとしといてくれよ」
「おい、どうしたんだよハル」
その無自覚な反応を見た瞬間僕の左腕は自然と伸びて徹の胸ぐらを掴んでいた。徹が目をつむり、数人の女生徒が短い悲鳴をあげた。思い切り振った右手の拳はいささか狙いとは違う場所に接触し、拳頭が頬骨に当たった衝撃で肩が軋んで痛んだ。
徹は顔をおさえて倒れ込み、茫然とした顔をしてこちらを見上げた。その刹那自分の周囲の音が消えて世界が静止したような静寂が聴こえた。
ふいに喉から嗚咽が漏れて、自分が涙を流していることに気付いた。意図せず流れ続ける涙にやりきれなさが溢れ、叫び声をあげた。さっき自分が床に叩きつけたスマートフォンを何度も強く踏みつけた。液晶ガラスに細かなヒビが入って粉々になっていく感触が足の裏から伝わって来た。ぼやけた視界の中で石渕先生がこちらに向かって駆けて来る姿が人垣の隙間から見えた。
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