第8話

 翌日の放課後、職員室の面談スペースに季子先生の姿はなかった。

 慌てて季子先生の席の方に目をやると、先生は入り口側に背をむけてじっと自席の椅子に座っていた。

「先生、今日忙しいですか?」

 座っている季子先生の脇に歩み寄って声をかけた。周りに居た何人かの先生がこちらを向くのがわかった。

「そうね。今日はちょっと時間作るの難しいから、ノートあずかって、明日マルつけて返すよ」

 先生はやけに毅然とした明るい様子でそう言って、僕の手からノートを受け取った。

「わかりました。お願いします」

 なんとなく釈然としない想いを抱きながらも、張りつめた周囲の空気に気圧されて口をつぐみ、軽く頭を下げて職員室を出た。

 職員室を出たあとも、昨日から連なる不穏な違和感が消えることはなく、それらは思考の中で互いに結びついて膨れ上がり、歪な想像を様々に掻き立てた。

 僕はそのまま帰宅する気になれず、鞄を持って図書室に向かった。下足入れが並ぶ昇降口を横切り、一階の突き当たりにある扉を開けると、密度の濃い紙の匂いが鼻腔を満たした。テストが近づいているからか図書室にはたくさんの生徒が居て、意識が嫌でも外に向かうため、少しだけ気が紛れた。

 自習机がいっぱいだったので座ることは諦め、久しぶりに本を眺めながら図書室内をぐるりと歩いた。静けさとささやかなざわめきが同居する空間を歩いていると、気持ちが徐々にやわらかさを取り戻して自分の心配が思い過ごしのように感じられる気がした。

 一通り部屋を回り終えて入り口付近に戻ってきたところで、雑誌コーナーの脇にある『先生おすすめの一冊』というこの高校の先生推奨の本をコメント付きで紹介している棚が目について足を止めた。その中に見覚えのある本があった。そこにはうちのクラス担任の石渕先生おすすめの一冊として季子先生が近頃よく見ていた写真集が置かれていた。

 最近出た本なのかなと思い、手にとって最後のページを開いてみた。出版日の欄には十年以上前の日付が記されていた。そのままページをめくって幾つかの写真を見てみると、収録されているのはどれも現代美術作品を写したものばかりで、どうやらアート作品としての写真を集めたものではなく、アート作品を写した写真を集めた作品集のようだった。

 ふと僕は、初めてこの本の話題に触れた時の頬を紅潮させた季子先生の表情を思い返して心がざわついた。

 突然肩に触れる感触がして小さく体を震わせた。

 無言のまま振り返ると、後ろに石渕先生が立っていた。

「すまん。なにか考え中だったか?」

「いえ大丈夫です。ちょっと本を見てただけです。先生こういう美術作品の写真集も見るんですね」

「ああそれか。この前美術の大田先生に写真が好きだって話をしたらすすめてくれてな。結構気に入ったんで選んだんだ」

「先生は図書室にはよく来るんですか」

「いや今日は学校の図書新聞の企画で、この奥の図書準備室でインタビューを受けるんだ」

「さすが人気教師は違いますね」

「ただの持ち回りだよ」

 石渕先生が眼を逸らしてまんざらでもなさそうな笑みを浮かべた。

「石渕先生そろそろ始めたいんでいいですか」

 図書委員らしき女生徒に声を掛けられ、石渕先生はその子のあとについて奥の部屋へ歩いて行った。僕は石渕先生の後ろ姿を見送りながら、再び覚束ない気持ちが込み上げてくるのを感じる。

 石渕先生たちの向こうにある図書室の大きな窓の外で中庭の木々が風に吹かれて揺れるのが見えた。雑誌コーナーから芸能人のゴシップを話題に盛り上がる女生徒の抑えた話し声が聴こえる。

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