第6話

 面談スペースの椅子に座った季子先生は顔を上げて中空を見つめていた。両手は先週末も見ていた写真集を開いて持ったまま静止している。僕が斜め前方数メートルの距離に近づいてもまったく気づく様子はなく、ここにはない何かを一心に見ているその眼には、周囲の景色は一切映っていないようだった。僕は二ヵ月前の夏休みに入ったばかりの頃に市民公園で見かけた季子先生の姿を思い出した。

 その日僕は母さんの病院に付き添って夏期講習に遅れてしまい、急ぎ足で学校へと向かっていた。たぶん時間は正午近くだったと思う。強い陽射しが真上から照りつけて、大量に吹き出る汗で背中や胸にワイシャツが張り付いた。

 公園の前に差し掛かり入り口の辺りから何気なく児童遊技場の方を覗くと、風景のなかに見知った女性の姿をみつけた。遊技場では晴れ渡った空の下、幼稚園から小学校低学年程度の年齢と思われる多くの子どもたちが声をあげて遊んでいた。

 その時間ウチのクラスでは数学の講習が行われているはずで、担当教員は荻原季子先生のはずだった。でも砂場の前のベンチに座っているのは紛れもなくその季子先生だった。先生は食べかけのサンドウィッチを片手に持って、今と同じように身じろぎせずに、目の前の空間を凝視していた。

「最近本当にその写真集好きなんですね」

 僕が向かい側の椅子に腰かけながら話しかけると、季子先生はようやく我に返って手に持っていた写真集を閉じた。先生の様子に微かな違和感を感じたが、とりあえずノートを開いて先生の前に差し出した。

「なに考えてたんですか」

「明るい未来よ」

 先生は手許に視線を落としたまま澄ました調子で言った。解答集をめくる動作がいつもより幾分せわしなく思えた。

「はぐらかしますね」

「だって本当のことだもん」

 先生は声色に陽気さを含ませつつもノートから眼を上げない。水性ペンが円を描く音だけが断続的に鳴り続けた。

「今日も全問正解。あと残り三ページだね」

 マルをつけ終えて少し落ち着いた様子で先生が言った。

「それにしても週末挟んでも教科書全部終わらなかったんだね。さては放課後私に会えなくなるのが寂しくてわざと三ページ残したんでしょ」

「調子に乗んないでくださいよ。週末ちょっと体調が思わしくなかっただけですよ」

 内情を言い当てられた気恥ずかしさと、先生の茶化すような口調に自分との温度差を垣間みた寂しさから、投げやりに言った。

「冗談よ、冗談」

 隣の面談ブースからは男性教師と女生徒が話す声が聴こえた。詳細までは聞き取れないが、どうやら進路についての相談をしているようだった。

「それにしても柊くんは凄いよね。毎日予習してきて教科書の三分の一をほとんど一ヵ月半くらいで終わらせちゃうんだから」

「先生に答えとられちゃいましたからね。やらざるを得なかったんですよ」

「柊くんはさ、このまま勉強して、働いて、家庭を作って、ちゃんと幸せになるんだよ」

 先生がいつになく実感の込もった調子で言った。

「先生だってちゃんとしてるじゃないですか」

 僕はためらいがちに返した。

「そんなことないんだなー。わたしは未だになんにもちゃんと出来てないもの。仕事も、恋愛も、結婚も」

「そんなの関係ないですよ。周りの眼ばかり気にして肩書きだとか結婚だとか、名前のある関係性で自分を埋め合わせようと汲々としている人たちより、先生の方がずっと強いし、清々しいですよ」

 先生は微笑ましく眺めるような眼で僕を見たあと、切なそうに表情を歪めて机の上に視線を落とした。

 初めて見る先生の力のない表情に言葉が出て来なかった。いつもは気にならない職員室内のざわめきがやたら騒々しく周囲を取り巻いて、僕と先生の間に流れる沈黙を濃くしていった。

 教頭先生が季子先生を呼ぶ声がして、先生は慌てて立ち上がり

「ごめん。会議に行かなくちゃ」

 と言って写真集と解答集を手に足早に奥の校長室の方へ去って行った。

 テーブルの上には、ノートと教科書、それに先生が忘れていった赤い水性ペンが取り残された。

 僕は水性ペンを手にとり、制服の上着のポケットにしまうと、そのまましばらく椅子に座って当て所ない思考を巡らせた。後方では職員室の電話の着信音がけたたましく鳴り響いていた。

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