第5話

 夕食時のファミレスに少し遅れて現れたスーツ姿の父さんは、わずか二週間ぶりの再会にも関わらずまた少し老けたように思えた。向かい側の椅子に腰を下ろすと、居心地悪そうに体を揺らし、眉尻の下がった笑顔を作って僕を見る。僕はその自信なさげな表情に胸が詰まって眼を逸らした。

「急に誘って悪かったな。元気にやってるか」

 ウエイトレスに注文を終えたところで父さんが口を開いた。

「うん。だんだん生活も落ち着いてきたし、なんとかやってるよ」

「母さんは元気か?」

「最近は外にも出かけるようになったし、調子良いみたい」

「飯は?」

「大丈夫。母さんが作ってくれてるから」

 嘘だった。もう二ヵ月あまり母さんは料理どころか家事をほとんどしていなかったし、外出と行っても集会に出かけるだけだったが、本当のことを父さんに言ったら事態がますますややこしくなるのは目に見えていたので、当たり障りのない答えをそつなく述べることに注力した。

「それならよかった」

 父さんは想定してきたのであろう質問を終えると口をつむり、口許にうっすら笑みを浮かべて俯いた。

 離れて暮らすようになってからのここ三ヵ月、父さんからは毎日夕方か夜にメッセージが届くようになり、時折食事に誘われるようになった。母さんへの後ろめたさから、そんなに頻繁に誘いに応じることはなかったけれど、それでもだいたい二週間に一度はこうやって学校近くのファミレスで顔を合わせている。

 今夜は週末の夕飯時ということもあってか店内には家族連れが多く、小さな子どもが歓声や奇声をあげ、両親と思われる大人の男女がそれをたしなめる光景がそこかしこで見られた。僕は目のやり場に困って窓の外に視線を移し、歩道の路肩に立てられた呼び込み用の旗が強い風にはためくのを眺めていた。

「勉強の方はどうだ。そろそろ進路決める頃だろ」

 運ばれて来たハンバーグステーキを切り分けていた僕に、父さんが再び声をかけた。父さんの手に握られたフォークにはミートソースパスタが大量に巻き付けられていた。

「変わりないよ。志望校も変わってない」

「そうか。まあお前は母さんに似て優秀だからな。俺のアドバイスなんて必要ないよな」

 父さんはフォークに巻き付けられたパスタを半ば口に押し込むようにして頬張ると、苦しそうに咀嚼した。

 僕はそんな父さんの姿を見つめながら、一緒に住んでいた頃こんな風に二人で向き合ったことが果たして何度あっただろうかと思い返す。父さんはけして家庭をないがしろにしてはいなかったし、むしろその献身的な父親ぶりは模範的すぎるほどであったと思う。週末仕事がない時は必ず家族と過ごすことを優先し、運動会などの学校行事にも欠かさず参加。また季節ごとの大型連休には、身の丈にあったものではあったけれど、必ず家族旅行にも連れて行ってくれた。ギャンブルにはいっさい手を出さず、いつもにこやかで、家族を始め他者の言うことを頭ごなしに否定することもない。その人柄は町内会や多くの親戚から人格者として敬われていたほどだ。

 でもそれは家族という小集団の存在を前提として成立していた『父親』の姿で、そこには必ず僕と、そして母さんがいた。こうやって離れてみて思うことだが、家族の方向性を定め、それぞれの人物の条件付けを行っていたのは、ことウチの家族に関しては母さんだった。休日に行うべき振る舞いも、旅行の計画も、いつだって母さんが暗に方針を示し、彼は『父親』としてその実務を遂行していたにすぎない。たぶん父さんは、母さんの描いた『家族』という青写真を再現するために資質以上に完璧な『父親』を演じ続け、きっとどこかで擦り切れてしまったのだと思う。その結果として僕は、母さんの居ない場所で父さんとこうやって二人で向き合うと、時折目の前に『父親』という属性が剥がれかけた全く知らない中年の男が突然現れたように感じて茫然としてしまうのだった。

「そういや父さん最近ようやくホテルからマンションに引っ越したんだ。広い部屋が三部屋もあって、一人でいると持て余しちゃってな」

 父さんが紙ナプキンで口の周りについたミートソースを拭き取りながらぎこちなく切り出した。父さんの前に置かれた丸いパスタ皿はいつの間にか空になっている。僕はその棒読みの台詞みたいな語り口を耳にするだけで、胸のあたりにいわれのない罪悪感が込み上げてくるのを感じた。

「だからほら、もし母さんの様子が酷くなるようだったら母さんのことは別の親戚の人に任せて俺と」

「いま母さんを放り出すことはできないよ」

 それ以上父さんの言葉を聞いていることが出来ず、鉄板の上のハンバーグの最後の一切れにフォークを刺して、目を合わせずに言った。

「そうだよな。今さら虫が良すぎるよな」

 父さんがポケットをまさぐる気配がして、僕の前に白いメモ用紙を四つに折り畳んだものが置かれた。

「それ俺のマンションの住所と電話番号だから、何かあったらいつでも来てくれていいから」

 父さんが押し詰まった声で言った。

 僕はうなずいてフォークにささったハンバーグを口の中に運んだ。

 またどこかの席で叱られて泣きじゃくる男の子の声が聴こえた。


 久々に家の玄関とリビングに明かりが点いていたので「ただいま」と声をかけて家に上がった。リビングの方からは人の話声のようなざわめく音も聴こえてくる。誰の返答もないのを不振に思いつつリビングの扉を開けると、母さんがテレビをつけっぱなしにしたままソファーに寝そべって眠りこけていた。ガラステーブルの上にはビールの空き缶が並び、おつまみとお菓子の袋が散乱している。僕はテレビを消してそれらを軽く整理し、母さんの寝室から毛布を一枚運んできて母さんにかけた。その瞬間、化粧をしていない母さんの寝顔がまったく知らない中年女性の顔に見えて、咄嗟に目を背けた。

 二階にあがり自室に入ってベッドに寝転がった。壁掛け時計の針は二十一時少し前を指している。枕元に投げ出した鞄から自分の写真作品を収めたA4のクリアブックを取り出してページをめくった。そこには玄関やキッチン、脱衣所に自室、それに夕食時の食卓など、昨年自宅を気ままに撮影した写真が収められている。今あらためて眺めると、どれも画面全体が馴れ合っている印象で外側で見ている人の中へ伸びてくる意志を持ったものはない。

 ただ、それらがけして作品と呼べる段階のものでなかったとしても、あの時シャッターを切っていた少年の中には、誰かに表現することをためらわないほどの幸福がカメラのレンズを通してしっかりと像を結んでいたことは確かだった。

 ファイルを閉じベッドのサイドボードに伏せたままになっている写真立てをしばらく見つめたあと、起き上がってノートと教科書を机の上に広げた。しんとした室内で自分の挙動に伴う騒音と時計の秒針の音だけがやたらに大きく耳に響く。椅子に座ってノートに今日の日付を書き入れ、残すところ十ページほどになった教科書を一瞥したところで気詰まりに耐え切れず再びシャープペンを放った。目を瞑って耳を澄ませても階下からは目立った物音は聴こえてこない。意識の内側では、昨年撮った写真を見ることによって引き起こされたあの日以前の生活の音が止むことなく鳴り続けていて、いま家に満ちる静けさを否応なく際立たせた。

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