第3話

 ペンと紙が擦れあい華奢な音をたてながらノートに赤いマルが描かれていくのを見つめているうちに、僕は不安定な想いが徐々に鎮まってくるのを感じた。最初こそマルをつけてもらうという行為自体に懐疑的だったものの、その心安い習慣はすんなり体に馴染んで、今や生活の中で最も安堵の息をつくことができる時間となっていた。

「最近問題を解くペース落ちてない?」

 季子先生がマルをつけ終わったノートを見返して言った。

「ちょっと他の科目の勉強が忙しくて」

 自分の浅はかな思惑を見透かされているようで内心まごつきつつも咄嗟にそれらしい理由を述べた。

「以前のペースなら今週で全問解き終わっててもおかしくなかったよね。まあでも明日からの土日を挟めば、来週にはこの教科書終わるか」

 先生があまりに曇りなく明るい声で言うので、顔を俯かせて生返事をした。足下の床が少しだけ揺れているような気がした。

「昨日、藤島さんと帰って行くとこ見たよ」

 先生が上目遣いのしたり顔をして好奇を滲ませた声で言った。

「会議じゃなかったんですか」

 僕は起伏のない声で返した。

「その会議が退屈でさ。幸い端っこの席だったから窓から正門の方をずっと見てたんだ」

「先生ぼんやりするの得意ですもんね」

「なんのこと?」

「授業中僕らに問題解かせてる間ずっと窓の外見てたり、全校集会の時一人だけ体育館の天井見上げてニヤついてたり」

「バレてたか」

「そんなことだから生徒から『季子ちゃん』とか呼ばれるんですよ」

「いいじゃん『季子ちゃん』。ねえ彼女いるなら紹介しなさいよ」

「そんな母親みたいなこと言わないでくださいよ」

 僕がうっとうしそうにぼやくと、先生は小さく声をあげて笑った。

「先生こそ恋人はいるんですか」

「教師と生徒のあいだでそういう話はすべきじゃないと思う」

 先生はあからさまに冷めた表情になってノートと解答集を整理し始めた。

「都合悪くなるとそうやって立場持ち出すのズルくないですか」

「教師は威厳を失ったら終わりだからね」

「さっき季子ちゃんて呼ばれるの喜んでたじゃないですか」

 僕は椅子に仰け反って顔を上に向けた。思いがけず蛍光灯の明かりを直視してしまい目を細めた。

「柊くん写真撮ってる?」

 意外な問いかけに、反射的に姿勢を戻して黙ったまま先生を凝視した。

「あれ、写真部じゃなかったっけ?去年写真部の展示観に行った時、柊くんが自宅を撮影した作品を観た気がしたんだけど」

 肩と胸のあたりの筋肉が緊張して固くなるのがわかった。

「最近は撮ってないんです。それに写真自体も父親が趣味でやってたからなんとなく部活に入っただけで特別好きってわけじゃなかったから」

 机の端に置いてある今日先生が読んでいた本に目をやった。表紙には一際大きく『ART』という文字がレイアウトされていて、装丁のデザインから推察するにどうやらアートとして発表された写真作品を集めた写真集のようだった。

「先生は写真集も見るんですね」

「うん、今度始めてみようかと思って」

 頬を少し紅潮させて嬉しそうに語る季子先生の背後に、自分の知らない先生の世界が広がっているのを感じて、僕は突然置き去りにされたような気持ちになった。僕と季子先生には『教師と生徒』以外の関係性はなく、その外側の世界ではなにも確かな結びつきを持たない他人であるだけなのだという自明の事実が、生々しい実感となって体を支配した。

「先生はよくこうやって毎日生徒の自習に付き合ったりするんですか」

「なに急に」

「いやこんな風にしてくれる先生なんて他にいないから、先生は生徒みんなにこういう風に接してるのかなあと思って」

 先生は顎に手をあててしばらく視線を斜め上に泳がせたあとで、真っすぐ僕を見据えて口を開いた。

「もちろん先生と生徒っていう関係じゃなければこういう状況にはなってないと思うけど、でもそれはただお互いの役割でさ、教える相手が君じゃなければそれはまた違った形になってたんじゃないかな」

 胸が高鳴って全身が高揚してくるのがわかった。

「この毎日放課後に向き合ってマルをつけるっていう形は、柊くんと私だから生まれた関係性だと思うよ」

 その瞬間、目の前の光景がくっきりと鮮やかになり、重なり合って耳に届く様々な音の一つ一つが鮮明に聴こえた。僕は自然とニヤついてきてしまう顔を見られるのが恥ずかしくて、少し顔を伏せた。

「確かに、よくよく思い返せば教科書の解答一覧を切り取ったの先生ですもんね。自業自得ですよね」

 照れ臭さからわざと大柄な口調で言った。

「それはちょっと感謝が足りないんじゃない。さすがに毎日来るとは思ってなかったよ」

 先生も大げさに不服そうな顔をして答える。

「だっていざ答えがなくなってみると想像以上に落ち着かないんですもん」

 浮き立つ気持ちからじっとして居られず伸びをして職員室を見回した。放課後の喧噪が一段落した室内は、どこかのどかな空気が流れ、いたるところで先生と生徒が談笑する姿がみられた。窓からは夕時にしては珍しいくらい温かな陽射しが射し込んで橙色の光が室内を満たしている。

 僕はとても満ち足りた感覚を全身にみなぎらせて、先生に向き直った。

「今日もありがとうございました」

 軽快な声で言って、先生と自分の間に置かれていたノートを手にとって立ち上がる。

「またね」

 先生が顔の横で小さく手を振った。

 僕は先生の言葉に頷くと、淀みない足取りで職員室の扉の方へと歩みを進めた。

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