第2話
職員室を出て二年一組の教室に戻ると、冬子(とうこ)がひと気の少なくなった廊下で教室前の壁に背中でよりかかってスマートフォンを操作していた。画面を見つめる瞳は焦点があいまいで力がなく、朦朧としているように見える。
「なにしてんの」
わざとぞんざいに声をかけた。
冬子は驚いた顔をしてこちらを見上げ、あからさまに怒った表情を作った。
「そういう言い方はないでしょ。久しぶりに部活も生徒会も休みだからハルと一緒に帰ろうと思ったのに」
そう不満気な口調で異議を唱えた冬子の視線がノートと教科書を持った僕の右手を一瞥し、顔に微かな嫌悪の色が浮かぶのがわかった。
「ごめんごめん。冬子が放課後空いてるなんてめずらしいからさ。鞄とってくるから少し待ってて」
僕は教室に入り、奥の窓際の列にある自分の席に辿り着いたところで廊下側に背を向けたまま、肩が上下しないように鼻だけでゆっくり息をついた。
同学年の藤島冬子とは付き合いはじめて半年ほどになる。きっかけは多分、一年の時の学年末考査でそれまでずっとクラストップを維持してきた冬子の点数を僕が六点差で上回ったことだ。
一年時は同じクラスではあったものの、写真部の幽霊部員で実際はほとんど帰宅部同然だった僕と、運動部と生徒会活動を掛け持ちして校内の中心人物として高校生活を謳歌しているようにみえた彼女との間には入学してからの約十ヵ月の間ほとんど接点がなく、言葉を交わしたことさえ数えるほどしかなかった。ところがその学年末考査を契機に、放課後自習のために立ち寄った図書室や学校からの帰り道などで彼女と頻繁に遭遇するようになり、時には一緒に駅まで歩いたりするようになった。
そして春休みが近づいたある日、駅までの道を共に歩いていると
「なんか今日みたく一緒に帰ってるところ友達に見られてたみたいでね、私たち全然そういう関係じゃないって言ったのに、柊くんと付き合ってるんでしょ、って冷やかされちゃった」
と普段よりも少し高い声で彼女が言った。
僕は自分を見上げる彼女の眼差しのなかに淡く甘い筋書きが揺らめいているのを読み取ってわずかにたじろいだが、相手の世界ですでに進行している物語に抗うことへの煩わしさと、彼女の思惑にそった振る舞いをするだけで絶大な好意を享受できるという甘美な誘惑への衝動から
「付き合ってみる?」
という言葉を口にした。
その瞬間、彼女の瞳の光沢が増し瞳孔が開いたのがわかった。
彼女は口元を緩め下を向いてうなずきながら
「うん」
と答えると、並んで歩いていた二人の間の距離を少し縮めた。
「ハル、最近季子ちゃんと仲良いよね」
学校を出て五分ほど歩いたところにある市民公園の前に差し掛かった時、冬子が何気ない風に季子先生の話題を持ち出した。空が厚い雲に覆われているせいか市民公園にはほとんど人の姿は見えなかった。
「うん、数学でちょっとわからないことがあってね」
僕もできるかぎり平然とした調子で答える。
「だよね。私は全然気にしてないんだけどさ。テニス部の友達がね、ハルと季子ちゃんの話してる雰囲気がなんか怪しい、とか言ってたから」
彼女が早口で弁解するように言った。
「なんかあるわけないよね。季子ちゃん私たちの親と同じくらいの歳だし、離婚歴があるとかいう噂もあるし」
「数学の質問してるだけだよ」
「うんわかってる。だけどほら、ハルってわかんないことがあっても今までは自分で調べて解決してたし、むしろ学校で先生に勉強教わることに対して反発してるようなとこあったじゃん。だからどうして季子ちゃんにはそんなに毎日聞きに行くのかなあって思って」
「教え方が上手いんだよ」
間を空けずに淀みない声で返答した。
「でも毎日だと先生も大変かもしれないし、私も数学けっこう得意だからわからないとこあったら聞いてくれてもいいよ。同じ大学目指してるから、色々アドバイスもできると思うし」
冬子が片腕を曲げて力こぶをつくるポーズをしながら言った。少し離れた国道の方から耳障りなクラクションの音が聴こえた。
「わかった。ありがと」
僕は立ち止まって冬子の方を向いて言った。彼女は弱々しく機嫌を窺うような笑顔を浮かべながらこちらに体を寄せて手を繋いできた。彼女の手のひらはやけに湿っていて、皮膚にぴったりと貼りつくような感触がした。冬子の上目遣いの視線を回避して顔を上げると、ひと気の少ない児童遊技場が見え、砂場で母親らしき女性と小さな子どもが幼児用の丸みを帯びたスコップを手に、山を作って遊んでいる姿が目についた。
潤んだ瞳で「カラオケに行こう」と言う冬子の誘いを振り切って、僕は電車に乗って帰途に着いた。
自宅の最寄り駅に降り立ち、駅前の横断歩道を渡ると、長い間更地だった場所に真新しいコンビニエンスストアが出来ていた。今朝登校する時は建物の周囲を囲むように足場が組まれ、所々シートがかけられていたはずだから、きっと今日の日中に工事を終えたのだろう。艶やかに輝く直方体の建物は見慣れた周囲の景色から少しだけ浮き上がって見えた。
以前この場所には個人経営の小さなスーパーがあって、幼い頃は母さんとよく夕飯の買い物に来たものだった。その頃の僕にとって店内は広大で、あまたの未知なる品々が並ぶ光景に興奮しては店中を駆け回って母さんに叱られていたことを憶えている。
それから年を追うごとに町からは婦人洋品店や文房具店、酒屋など、個人経営の店が少なくなっていき、ついに昨年僕が高校に入学したのとほぼ同時期にこの場所にあったスーパーも店仕舞いをしてしまった。確かに、個人の店が少なくなり大手のチェーンストアなどが増えることで、以前よりも町の表面は滑らかになって、暮らしのなかで澱みを感じることは少なくなったけれど、そうやって町の凹凸が修繕され形が整えられていくごとに、たくさんの意味に溢れた風景を僕は思い出せなくなっている。
隙間なく両脇に家々が建ち並ぶ道を五分程歩いて住宅地の一角にある自宅に着いた。十年前にまだ三十代になったばかりだった両親が二十年以上のローンを組んで建てた二階建ての一軒家は、今日も一つの明かりも灯さずに佇んでいた。
ドアを開けると酸えたアルコールの臭いが鼻をついた。ここのところ毎日のことにもかかわらず、なぜかこの臭いだけは慣れない。廊下を進んでリビングに入り、テレビの前のソファとガラステーブルの上に散らかったビールの空き缶やお菓子の空袋を、床に落ちていた大きめのコンビニのビニール袋にまとめてキッチンのゴミ箱に捨てた。また集会にでも出かけたのか母さんは今日も不在のようだ。
シンクで水に浸されたままになっていたグラスとどんぶりを洗って水切りかごに入れ、鞄から数学の教科書とノートを取り出してダイニングテーブルの上に置いた。コップ半分ほど水を飲み、椅子に座って今日の日付が書き入れられたページを開いたところで、鞄のなかのスマートフォンが震える音がした。振動のリズムからメッセージの受信だということがわかったけれど、隣の椅子に置かれた鞄を眺めたあと、僕は再び等間隔に横線の引かれた白い紙と向き合い、わずかに背表紙のたわんだ教科書をゆっくりとめくった。
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