こたえあわせの幸福
佐藤 交(Sato Kou)
第1話
帰りのホームルームが終わると、数学のノートと教科書を持って職員室へと向かうのが最近の僕の日課だ。
今日は担任の石渕先生の趣味のカメラの話が長引いて、すでに約束の時間を二十分ほど過ぎてしまっている。みんながあちこちで話しに興じる廊下を足早に通り抜け、校舎二階の突き当たりにある職員室の扉をくぐると、部屋の左奥に設置された面談スペースで、椅子に座って机に置いた本に目を落とす季子(きこ)先生の姿が見えた。パーテイションと机に隠れて胸から下はよく見えないが、今日も実験用の白衣を纏い、長い髪を後ろで束ねている。
「季子先生」
小走りに近づき声をかけた。
「遅い」
先生は視線を下に向けたまま抑揚のない声で間髪入れずに言った。
「すいません。ホームルームが長引いてしまって」
僕のしかつめらしい謝罪の言葉に、先生はゆっくり顔を上げ、こちらを見てにんまりと表情を緩めた。皺が少なく化粧気の薄いその顔は、丸顔で目の大きい顔立ちのせいもあって母親と同じ四十代の女性には見えない。
「嘘よ。でも今日はこのあと会議があるからあんまり時間ないよ」
僕が向かい側の椅子に腰掛けて所定のページを開いたノートを差し出すと、先生は読んでいた本を閉じて机の端に移動させ、脇に置いてあった左上を黒いクリップで止めてあるA5サイズの解答集の紙の束をめくって、ノートに書かれた答えと交互に見合わせながら赤い水性ペンでマルをつけ始めた。
季子先生と初めてこの面談スペースで向き合ったのは、約一ヵ月前、新学期の始業式の日のことだった。
「なんで教科書の最後に答えがのっているのに、僕が問題を解かなくちゃならないんですか」
夏休みの間勉強に取り組むなかで浮かんだその疑問が頭の中いっぱいに膨れ上がっていた僕は、始業式を終えた足で職員室へ赴き、数学担当の季子先生をつかまえてパーテイションで区切って作られた三つの面談スペースの一つに入ると、勢い込んで質問をぶつけた。
先生は虚をつかれた表情で数秒間僕の顔を凝視し、次の瞬間堰を切ったように突然声をあげて笑いはじめた。その声は職員室全体に響き、幾人かの先生や生徒がこちらに視線を投げるのが気配でわかった。
「いいね、いいよ君」
僕も最初は意表を突かれて放心していたが、俯き加減で笑い続ける先生の反応に自分の真面目な問いを軽んじられている気がして、徐々に憤りが沸き上がってきた。
「ちょっと真剣に聞いてくださいよ」
「ごめんごめん。じゃあ教科書貸して」
先生がそう言ってこちらに手を差し出すので、訝しく思いつつも右手に持っていた数学の教科書を手渡すと、先生は素早く教科書の後ろの方にある解答一覧のページを開いて力強く折り目をつけ、白衣のポケットから大きめのカッターナイフを取り出してその刃を教科書最上部の切り口にあてた。
「あぶないから触らないで」
前のめりになって行為を止めようとした僕を制止して、先生は折り目に沿って思い切り良くカッターを手前に引いた。紙の繊維を裂く細い音がした。先生は切り取られたページを取り除きながら、十数回ほどその作業を繰り返したところでカッターを置き、ばらばらになったページを重ねて白衣の胸ポケットに挟んであった黒いクリップで左上を綴じた。
「よし完成」
「どういうことですか」
切り取って作られた解答集を片手にどこか得意気な表情を浮かべている季子先生を唖然とした気持ちで見つめて訊いた。
「これからは予習したらノート私のとこに持っておいでよ。私がマルつけてあげるからさ」
「それってなんか意味あるんですか」
先生が口角をあげて笑った。
「わからなくていいのよ。はい、教科書返すね」
季子先生は清々しい様子でそう述べると、少し声をひそめて「この前私が公園に居たことは内緒だからね」と言い添えて立ち上がり、自分の席の方に歩いて行ってしまった。僕は歩き去る先生の背中を眺めながら切り取られた十数ページ分の隙間で微かにたわんだ教科書の背表紙を指で触っていた。
「一問以外はマル。その一問も計算が間違ってるだけで考え方はあってるから基本的には問題ないし、さすがこの進学高校で学年トップテンに入る柊(ひいらぎ)くんは違うね」
マルをつけ終えた季子先生が笑みを浮かべ軽い調子で言った。
「お褒めにあずかり光栄です」
大げさに固い表情を作ってうやうやしく応じる。
「謙遜しないんだ」
先生は楽しげに言って小さく笑った。
こういう瞬間、この一ヵ月で出来上がった二人の間の空気のようなものを実感して、自分の体の中が温かいもので満たされていくのを感じた。先生と向き合ってためらいのない眼差しで正面から見据えられると、不思議と胸の真ん中あたりの澱みがほどけて体の輪郭がやわらかくなる気がした。
「そういえば柊くんてノートにも教科書にも裏表紙に住所書いてあるよね」
先生が机の上に裏返しに置かれた教科書を見やって言った。
「ああこれは小学校の時に無くならないようにって親に書かされて、それ以来癖で書いちゃうんです」
「へー、さすが秀才を育てる家はちがうね」
茶化したように言った先生の言葉に少し胸が疼いた。
「荻原先生お願いします」
不意に背中の方から季子先生を呼ぶ美術の大田先生の低い声がして、季子先生が少し椅子から腰を浮かせ僕の向こう側にむけた返事をした。僕は自然と沈み込む気持ちに抗えず、顔を俯かせた。
「じゃあ今日はこれで終わり。今日もよく出来ました」
先生がノートを閉じて僕の前に置き、本と解答集を持って立ち上がった。
「ありがとうございました」
努めて明るい声で発したお礼の言葉に先生は一度うなずき、そのまま僕の横を通って快活な足取りで席の方へと戻って行った。僕は鮮明な足音が小さくなっていくのを目の前に置かれたノートを見つめながら聴いていた。
一人になった僕はノートを始めのページからめくり、この一ヵ月の間に記してきた答えとその上につけられた赤いマルの重なりを見返していった。数十ページにわたるやりとりの積み重ねを見ていく間に、再び気持ちが浮き上がってくるのを感じた。僕は目を閉じて一度細い息を吐くと、制服の上着の胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、昨日最後に解いた問題の答えの二行下のスペースに今日の日付を丁寧に書き入れた。
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