卵かけごはん

夢美瑠瑠

卵かけごはん


掌編小説・『卵かけごはん』




今時に珍しいような古風な私小説作家である古木寒巌(こぼく・かんがん)氏は、


もう円熟と枯淡の、老境に差し掛かって、日々の無聊の中にも、文学的な感興を


触発される事象を様々に見出して、俳句や随筆や短編の小説を細々と


古ぼけた大学ノートに書くことで、露命を繋ぎ、口を糊し、自分の面目や社会とのつながりも


どうにか保っている、そういうまあ悠々自適ともいえる日常を


過ごしていた。俳人としても、万太郎とか漱石のように一定の評価を得ていた。


「日々静謐」という最近に上梓した随筆集は、新聞の書評に取り上げられたので、


5千部ほど売れて、古木氏は思わぬ臨時収入を得た。


そうして、顔なじみの編集者氏に勧められて、パソコンを買って、


ワープロを使って小説やらの原稿を書いてみようか、そういう成り行きになった。


「つまりパソコンには多種多様な機能があって、ワープロ機能もその一つなんです。


昔はワープロ専用機というのがあったんですが、時代に合わなくなって廃れました。


立ち上げて・・・このボタンですね。しばらくするとスタート画面になるから、


このアイコンをクリックして、「ワード」というソフトを起動します。


そうして・・・」


編集者氏の説明は小一時間続いたが、実は古木氏には殆どちんぷんかんぷんだった。


まあ「習うより慣れろ」で、自分でいろいろ弄っているうちに分かってくるか?


と高をくくっていたのだ。


さて、と居住まいをただして、自分で文章を書いてみよう、ということになった。


「あわれ、あきかぜよ」と打ってみた。


10分かかった。


「会われ、秋風よ」と、出た。変換キーというのが分からずに、「¥」とか「*」とか「$」


とか「%」がたくさん並んだが、消し方も分からないので、みょうちきりんな文章ができて、


しかも、「会われ」しか出ないという哀れなことになった。


勿論どうすれば、「哀れ」が出るのかもよく分からないのだ。


「この分では原稿用紙一枚に半日かかるな」と、ひとりごちたが、やっぱり


習うより慣れよ、と思って悲観はしなかった。大体彼は何でも呑み込みが悪い方で、


学校の勉強でも、小説の作術でも、女性との交際でも、人並みに格好がつくまでに


随分時間を要したものだ・・・


ワープロの習得に飽きてしまって、


それでも何となく試行錯誤を重ねているうちに、使い方を覚えてきて、


インターネットのいろんなサイトとかを見つけたりしたので、


アイドルのブログを読んだり、


音楽ビデオで最新流行の音楽とかを観て、年甲斐もなく体を揺すったりしていたが、


そのうちに、つるべ落としの日が落ちて、


硝子戸の外に暮色が垂れこめてきたので、パソコンはひとまず打ち切って、


晩酌にすることにした。


最近は通じにいいというので、古木氏は卵かけご飯に凝っていた。


周到で料理のセンスも優秀な老妻は、紀州の「うめたまご」を使った、


熱々の卵かけご飯に山椒の葉っぱを載せて、


強精のためにとろろ汁とすりつぶした高麗ニンジンを混ぜて、


ひと瓶1万円の極上醤油を振りかけてくれていた。


この甲斐甲斐しい、賢い妻のおかげで、彼は文学的に成功できたのだ。


ずっと卵かけご飯のおかげか、体調も良く、よく眠れる。


ワープロなんてものは、妻に出会うまで散々舐めてきた人生の辛酸に比べれば


何てことはない・・・そう思った。


妻に出会ってからずっとそうだったように、


また彼は楽観主義者であり、それゆえワープロという黒船の来襲も、


それに伴う難儀も、いずれ全て滑稽譚となって、


随筆のタネとなることであろう・・・



<終>

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