3
「樹、樹起きて。樹、いーつーきー」
ゆさゆさと片手でベッドを揺する。樹の寝起きはすこぶる悪く、下手すると殺されかけるレベル。いつもなら勝手に起き出すまで放置しているのだが、今日は別だ。ただ礼侍とて寝癖だらけの頭で、ひたすらにベッドを揺すり続けて。
「おーきーてってばー。樹、急患ー。
瞬間。がば、と樹の体が起き上がる。否、反応したのは体だけの様で、彼自身はまだ起きていない。しかし、自分の体が勝手に起き上がったのだ、起きないはずが無いだろう。寝ぼけているのか、ぱちくりと目を瞬かせ、ぼんやりと礼侍を見つめていた。その顔には、礼侍がやったの? なんて書かれている。
「ちーがーいーまーすー。ほら、とにかく準備して。出かけるからね」
「…………どこに…………?」
「ここから一つ先の町だね。“言霊”絡みかもって要請があったんだよ、行こう」
それで起こされた意味と、起きた理由がわかったのだろう。のそのそと起き上がり、顔を洗いに行くのかふらふらと部屋を出ていく。危なっかしいことこの上ないが、生活フロアには基本的に段差を作っていないので大丈夫だろう。樹が洗面所を使うのなら、自分は先に着替えてしまうか。彼の部屋を出て、自室へ向かう。
右腕の包帯を巻き直しながら、冷蔵庫の中身を思い出す。昨日見た限りでは……確か野菜と…………あれ、野菜しか無かったからオムライス作ったんじゃなかったっけ? 近いうち、どころか今日にでも買い出しに行かないとまずいかもしれない。いつもギリギリになってから買いに行く癖をやめようと思ってはいるものの、今回もやらかしてしまった。
そういえば、奥の方に吸うタイプのゼリーがあったな。朝食は食べながら行くか、帰ってきてから食べるか……。うーん、材料も無いし、帰ってからでいいか。行って適当なファーストフードで済ましても構わないし。とりあえず朝食問題はクリアしたとして、礼侍はいつもの右腕だけ半袖の白衣を羽織る。
買い出しとこういった急患の時しか使わない車のキーを探すうち、樹が目をこすりながらリビングに現れた。いつものぶかぶかなパーカーと、いつもより寝癖の酷い頭。
「準備できたよー………」
「その前にもう一回鏡見てきて? 頭すごいよ? あー……いやでもいいや、行こう」
洗面所に背中を押しかけたところで、そんな時間もないか、と思い直す。何しろ、本当に”言霊”だったとしたらこんなのんびりとしていられない。いや、来女木さんからの要請は九割がた勘違いだけどさ……。
気の抜けた返事を聞きながら地上への階段を上り、裏口から出てる。シャッターを下ろしたままなら、臨時休診ってわかってもらえるかな? そもそも滅多に患者さんなんて来ないけど。車庫を開け、車に乗り込む。樹も助手席に座るのを見つつ、エンジンを温める。
アクセルを踏み、田んぼと田んぼの間というギリギリの道を走っていく。シートベルトをつけた助手は、今にも寝てしまいそうだ。
「きゅうかんー……? だれからー…………?」
「いつものごとく来女木さん。また奇妙なことが起きたんですよ~~~!! って朝っぱらから電話してきたんだよ、あのマシンガンで」
口調を真似てやれば、誰かわかったのだろう。あー…と頷きつつ、樹はまたタートルネックの境界を掻く。その指も爪も、影のように真っ黒なのだが。
来女木都傘。町の平和を守るお巡りさんであり、新渡戸診療所の常連でもある。ただそれは患者としてではなく、礼侍たちと話すためだ。しかしその口から飛び出す言葉は常人の三倍以上は長く、そこまで話さないと喋れない呪いでもかかっているのかというほど。
そして何より、礼侍たちの追う「もの」に並々ならぬ興味を抱いていて―――。
「でも都傘、ちょっとしたことでもすぐ俺たちに電話してくるじゃん」
「九割がた勘違いとかカウンセラーの方の仕事だけどねー。とりあえず、要点だけでも聞く?」
「一応ー」
「端的に言えば、人体自然発火現象。二人組のうち、片方が発火。でもすぐ火は消えて、声をかけようとしたら逃げられたんだって」
半分しか開いていなかった樹の目が、鋭く前を見据える。ようやく田んぼ道抜け、舗装された道路に差し掛かった。アクセルを踏み入れ、ハンドルを回す。言われた住所まで、まだ近くはない。
「樹さんはどう考えます?」
「火はすぐ消えたんだよね?」
「あ、気になるのそこなの? まあ、そうらしいよ? 詳しい話を聞きたいならスマホ出すけど」
「んー、大丈夫。火がすぐに消えたんなら、俺たちの出番はないかな。単純に考えて、火がついたらどうなる? って話だから」
火がついたら? 信号にブレーキを踏みながら、頭の隅で考えてみる。火が出て、ついて? それからどうなるって、………ああ。礼侍も納得したのを悟ったのか、欠伸をしながら樹は続けた。
「人体自然発火現象自体が問題じゃあないんだよ、そもそも前提が間違ってる可能性があるからね。だから、前提を見直さなきゃいけない。問題は、「本当に人体自然発火現象だったのか?」」
「確かに、本当に発火したのなら、火は燻るはず……」
「それが無くてすぐに消えたってことは、炎じゃない別の何かだったってことだね。それがなんだったのかはさすがにわからないけど、二人組だったってことは、手品の練習か何かだったんじゃあないかな?」
また無駄足だったねー、なんて樹は笑う。なるほど、考えれば簡単なことだった。自然発火なんて大袈裟なこと言って、全く来女木さんは……。そもそも火を出す”言霊”なんて、どういう条件下で出るというのだろう。
経験は樹の方が上だが、知識は礼侍の方が上なのだから。
一応現場も見ておこうかと、さらに車を走らせること十分ほど。通勤時間と被ったのか、指定された住所には多くの人が行きかっていた。あそこまで人が通ってしまえば、もう燃えた痕跡などもきえてしまっただろう。今回は、来女木さんの見間違いでおしまい。そもそも昨日患者が来たばかりなのだから、そう連続で来てくれるほど運も無いだろう。
せっかく時間ができたのだ、このまま買い出しにでも行こうか。早朝セールとかやってそうだし。途端に興味を失い、うとうとと眠りかけている荷物持ちの肩を揺する作業に入った。
連続で患者など、来ないと思っていたのだが。
「えーと、
「………………」
「翔、返事しろって。翔」
青年は何も答えない。押し黙り、俯いたまま。付添人だろうか、同い年くらいのメガネをかけた青年も声をかけるが駄目で。………さて、どうしたものかなぁ………。はっきりと刻まれた隈に、やつれた頬。全てを寄せ付けないようなオーラは、精神科医としてもそれ以外としても心配になる。
かなり早い買い出しを終え、診療所に戻る。すると、シャッターの前で口論する二つの影があって。否、口論と言うより、帰りたそうにしている片方を片方がなんとか諫めている状態、といったところで。これは……まさか……。
買ってきたものをもう何でもいいからとりあえず冷蔵庫に詰めてと樹に指示を出し、声をかけてみればそのまさか。臨時休診とも書かれていないから開いているはずだという青年と、シャッターが閉まってるんだから休みに決まってんだろという青年の言い争いだった。
そうして慌てて謝り、いつも通り診療所を開けて今に至る、のだが。
「翔、…………合ってます、翔で。一番合戦翔です」
「あ、ありがとうございます。あなたは付き添いか何かで?」
「はい。それで、今日はその……翔の病気を、治してもらいたくて」
何度か声をかけてみたものの、一番合戦とカルテに記入された青年は無反応。付き添いであろう彼も根負けしたのか、肩を落として返事する。………返事ができるほどの余裕は無いのか、そもそもここに来ること自体不本意だったのか。どちらにせよ、どちらだったにせよ治療は必要だろう。
ただ、病気。まさかなぁ……なんて。こうも連続で患者が来ること自体珍しいのに、その二人ともがそうである確率なんて。ちらりと樹を見やれば、丁度彼も礼侍を見ていたようで目が合った。………え、まさか。ふと近寄った樹は、短く耳打ちした。
「感染してる」
「え、嘘でしょ」
「でも、感染してるのは翔じゃない方」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を上げたからだろう、椿木が訝しげにこちらを見やる。は、はは……と笑って誤魔化すものの、樹も戸惑っているようだ。感染しているのは一番合戦の方ではなく、付き添いで来たはずのもう一人……?
他者に作用を及ぼすタイプ、ということだろうか。ただずっと俯いたままの一番合戦を気遣う彼の目に、そういった思惑は見えなくて。……俺も確認すれば一発なんだろうけど、なるべく怯えさせたくないしなあ……。どうしたものかと腕を組めば、すんと妙な匂いが香った。否、どこかで嗅いだことがあるような。少し焦りを感じさせるような。
「………………拓真。もういいよ」
聞いたことのない声。少しだけ揺れた体で、喋ったのは一番合戦だと推測した。ゆっくりと上げられたその顔は、絶望と言う文字がよく似合う。どうしようもなくて、何もうまくいかなくて、諦めたような顔。全てを拒絶して、もういいよと閉じこもって。
ふわりと―――はっきりと。焦げ臭いような、匂いがした。
「もういいって、……だから言っただろ? 後悔するのは病気を治してからでもいいだろって、」
「違う! これは病気じゃねえ!! あいつが怒ってんだよ、俺も苦しめって! 自分が受けた苦しみを、お前も味わってみろって!!!」
「ッ!!?」
いきなり燃え上がった。そんな表現しかできないほど、一番合戦から唐突に火柱が上がった。なん……ッ!? あまりの事態に対応できず、ただただその場に立ち尽くす。天井に取り付けてあった照明がバチバチと火花を散らし、溶けたプラスチックが一番合戦に触れる前に昇華した。こんなの専門的な知識が無くてもわかる、触れたら即死………!!
「礼侍っ!!」
反応できていないと見て取ったのだろう。樹に首根っこを掴まれ、勢いよく後ろに飛ばされる。薬品棚に思い切り背中を打ち付け、後ろで何個か瓶が割れるような音がした。それも厭わず、樹は礼侍を庇うように前へ出る。樹なら―――いやでも、あれは、まずい。低くなった視点から二人が見える。火柱を上げる一番合戦、意を決したような付添人。
あんな近くにいて、もう一人は、無事だった。
「翔! 落ち着け!!」
途端、炎がぱっと消えた。跡形もなく、あれほどまでに燃え上がっていたのが嘘のように。エタノールの切れたアルコールランプ、ガスを遮断されたガスバーナー。そんなものたちが思い浮かぶほど、消火や自然鎮火ではありえないくらいに―――ぴたりと。
溶けた椅子や焦げた天井が、白々しくその場に居座っている。何事も無かったかのような場所で、一人一番合戦は唇を歪めていて。悔しそうに、苦しそうに。
人体自然発火、現象。
今朝の内容と―――全く、同じ。
何か、何か声をかけなければ。一歩踏み出したところで、一番合戦は診察室から飛び出した。付き添いの青年の静止の声も聞かず、段々と足音が消えていく。後に残ったのは、呆然とする礼侍と、なんだか納得したような顔をする樹、舌打ちをする付き添いの青年だけ。………人間、物事が処理しきれないと別の方向に思考が逃げるもんなんだな。修理費用はいくらくらいかかるんだろうなんて的外れなことを思いながら、そんなことを考えていた。
場所は変わって、第二診察室。樹はともかく、礼侍や付き添いの青年にはプラスチックの燃えた匂いは駄目だろう。ダイオキシンとかなんだとか、詳しいことはわからないが有害だった気がする。掃除はさておき移動したところで、青年は
聞けば一番合戦とは高校からの仲で、大学生である今もルームシェアをしながら一緒に暮らしているのだという。今回連れてきたのも、椿木が無理やり引きずってきたような形なんだとか。入り口でもそんな感じで言い争ってたしね。
「それで、一番気になってるとこなんだけど。翔の言ってた「あいつ」って、拓真じゃないよね?」
前置きも確認も何もなく、単刀直入に樹が口を開く。………常々思ってるけど、こういう教育ってどう施したらいいんだろうなあ……。一度言い聞かせたことはあるものの、お得意のああ言えばこう言うで丸め込まれてしまい、まるで歯が立たなかったし。元々礼侍自身弁が立つ方では無いのもあるだろうが。
樹としては、一刻も早く逃げた一番合戦を捕まえたいのだろう。気持ちはわかるし、その方が一番合戦のためにもなる。例え本人がどう思っていようとも、だ。ただ、連れてきたとはいえ椿木にも時間は必要だろう。
ぐっと、椿木は拳を握っている。先程の態度といい、一番合戦の炎上を目撃したのは一度や二度ではないはず。きっとその度にああやって傍にいて、声をかけてきたのだろう。多分椿木くんがいなかったら、一番合戦くんはすでに呑まれていたんじゃないかな。ほんの少しの短い間だったが、それがひしひしと伝わってくるような関係だった。
樹や、俺のように。
「……………俺も、詳しくは知らないんですけど…………たぶん、猫のことなんじゃないかなって」
「猫?」
繰り返した言葉に、椿木はええ、と頷く。まあ、原因は千差万別。昨日の少女のような例もあれば、一度叱られたことが原因だったこともある。人が受ける痛みや想いに基準は無く、それぞれ個人で有するものだし。ただ、動物が原因だというのは初めて見る例で。それに、あいつが受けた苦しみ……?
「少し前、あいつ、仲良くしてる猫がいるって言ってたんです。見せてもらったことは無いんですけど、たぶん親に捨てられた子猫だって。ただ、その猫が……殺された、みたいで」
「殺された……」
「それ以来、怒ったり泣いたりすると、あいつ発火するようになったんです。人体自然発火とか、そういうやつだと思うんですけど。声かけたりすると収まるんですけど、前は明るかったのがもう全然で……」
いきなり物騒な言葉が出てきたが、確かにそれなら。病気や老衰で死に別れたならともかく、殺されたなら一番合戦にとっても何よりの苦痛だっただろう。それが「あいつの受けた苦しみ」、か……。想像でしかないが、惨い殺され方だったのかもしれない。
夜もうなされるみたいで、あまり眠れていないみたいなんです、なんて。その言葉に、彼の顔を思い出した。深く刻まれた隈と、やつれた頬。彼らにとっては、発火と同じくらいそちらも悩みの種なのだろう。
「んー…………なんで殺されちゃったかはわかる?」
「いえ、そこまでは…」
「となると、どうするのが一番なのかなー。翔が発火するようになった原因がわかれば、対処法とかもわかりそうなものなんだけど」
「そうだね、そうすれば被害は最小限に抑えられるね。偉い偉い」
「………………そうだねー」
「樹がそこまで考えてくれるようになって、俺は嬉しいよ。ひとまず今は、一番合戦くんだ」
心の底からの本心を言えば、樹は膨れたようにそっぽを向く。それが樹にとってどれほどのストレスの上に成り立っているかなんて計り知れないが、そういった思考をしてくれるようになったのは本当に嬉しいのだ。思わずお礼を言いかけて、置いてけぼりにされている椿木にこほんと咳払いした。
とりあえず、原因はわかった。あとは一番合戦を捕まえ、治療を施せば大丈夫。……ただ、そこまで簡単に行くかなー……。今までのことを思い出し、今日も長丁場になりそうだと白衣を整える。昨日がすんなり行き過ぎただけだろうけど。
でも、これが俺たちの、道だから。
「椿木くん。一番合戦くんが行きそうな場所とかわかる?」
「……一人になりたいときとかに、いつも行ってる工場があるんです。もしかしたらそこかも」
「ここから近いー?」
「車に乗ればすぐですし、あいつ元陸上部だから充分あり得ると思います」
「じゃあ、まずはそこで。総当たり戦法で行きましょうか」
車のキーをポケットから取り出すと、拓真も来て、なんて樹は彼の腕をとった。珍しい、あまり関係のない人は巻き込まない性分なのに…。それが正義感とかそういうものではなく、「自分の全力が出せないから」なのは目を瞑っておくとして。そのまま裏口に回り、本日二回目の車庫へ向かう。今度こそ、今日はもう誰も来ないだろう。
地下空間に通じる扉にだけ鍵をかけ、三人で車に乗り込む。案内役として椿木を助手席に乗せ、車を発進させた。
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