だるまさんと転んだ。

逆塔ボマー

だるまさんと転んだ。

 ★


 飲み会の類は基本的に断ることにしている私でも、恩師の晴れの舞台となれば顔くらいは出さない訳にはいかない。

 最低限の挨拶だけ済ませて早々に抜け出してきたが、それでも家に辿り着いた時には9時を回っていた。


「ただいま」


 何度履いても履きなれない感のあるヒールを脱ぎながら声をかけると、どたばたと音が近づいてくる。

 大型犬が出迎えに来るような光景と思ってもらえば、大きな間違いはない……それがやかましく喋ることさえ除くのならば。


「きょーじゅー、おそーい!」

「これでも早く帰ってきたんだよ、喜旗きばたくん。それと『教授』はやめてくれ。大学はとっくに辞めている」

「なら理那リナさんも『キバタくん』はやめて下さいよねー」

喜旗きばたくんは喜旗きばたくんだろう。小百合さゆりちゃんとでも呼んで欲しいのか?」


 這うようにやってきた肉の塊は、私の腰の高さでいつものように騒いでいる。

 ぽんぽん、とその頭を叩くと、私は横をすり抜けて自室に向かう。

 窮屈なスーツを、さっさと脱いでしまいたかった。

 邪険に扱われた彼女は、頬を膨らませて短い両腕を振り回している。


 喜旗きばた小百合さゆり

 10歳以上年の離れた、私の同居人には……両腕の肘から先と、両足の膝から先が、それぞれ、ない。


 ★


 三名神みながみ理那りな。あまり自分の名前は好きではない。常々やめろとは言っているものの、教授きょーじゅとの呼称は確かにしっくり来てしまう。

 自分でも頭は良い方だったとの自覚はあった。記憶力、理解力、推察力。

 中学生の頃からいくつかの特許を取り、高校の頃から大学の教室に出入りし、やがて、先輩たちを追い抜いて最年少の教授の座まで最短距離で駆け上がった。

 興味の対象は幼い頃から一貫して機械と人体の相互作用。サイボーグ、義肢、福祉器具。人体の構造を踏まえて機械を設計し、人体を補う仕事をさせる。機械だけ、あるいは人体だけなら私よりも詳しい者はいくらでもいたが、どうにも皆、そこのバランス感覚はなかったように思う。


 一方で私自身も、人間としてのバランス感覚は欠いていたような自覚もある。

 例えば恋愛関係。人並みに男性とのお付き合いも試してみたが、一ヵ月と関係が持つことはなかった。

 女友達の類も、あまり居なかった。恋愛対象としては見られていないようではあったが、男友達の方が多いくらいだった。

 不思議と年配の偉い先生方には可愛がられたが、人付き合いは下手な方だったと言っていいだろう。


 さてそんな私が、脇目も振らずに研究を進めていったら、気づいた時には一講座の教授である。欲しかったのは名誉でもカネでもなく研究の環境と自由だったが、ハッピーセットでついてくる責任だけを選んで放り投げてしまう訳にもいかない。

 さてどうしたものかな、と首を捻っていた頃。私のゼミに入ってきた学生の中に、彼女がいた。

 普通に可愛い子だけど、相性は合いそうにない。そんな第一印象だった。


 ★


「きょーじゅー、トイレー」

「教授はトイレじゃありません。てか喜旗きばたくん、君は自分一人で行けるだろう」


 スーツを脱ぎ捨て、ラクなジャージ姿になった私の足元に、喜旗きばたくんが改めてまとわりつく。

 地面に座ったような形で、短い脚で器用にちょこまかと動き回る。

 事故の直後はこんなに自由に動けなかったし、トイレも一人で済ませられない有様ではあったが、今は一通り身の回りのことはできる。

 ついでに、家には私が自分の会社で作った介護ロボットが居て、多少のことなら声で命じるだけで手足の代わりをしてくれる。

 というか、私の開発した機械式の義手・義足もあって、装着すれば何不自由なく普通に暮らせるはずなのだが、彼女はあまり使おうとしてくれない。


「じゃあ、おふろー」

「なんでそこで『じゃあ』なんだ。それに風呂なら明後日には入浴介助の人が来るだろう」

「きょーじゅがいいの!」

「分かった分かった。ざっと洗ってお湯を張るから待ってろ」


 介護のシステムというのは有難いもので、当社の自慢のロボットがまだ対応しきれない入浴についても、週一で介護のプロが家まできては世話してくれるのだが。

 喜旗きばたくんはそれだけでは満足できず、たまにこういうワガママを言う。

 私自身、自分の身については今夜はシャワーで汗を流して終わりにするつもりだったが、仕方なく風呂場に向かう。


 ちらり、と見下ろす。見上げる彼女と目が合う。

 整った顔。吸い込まれるような瞳。豊かな胸。『教授』が『きょーじゅ』に聞こえてしまう、舌足らずな口調。

 そして……両手両足の断端に残る、痛々しい傷跡。

 手足だけではない、その綺麗な素肌のあちこちに、生々しい傷跡が残されていることを、私は知っている。


 にへらっ、と彼女が笑った。

 私は目を逸らした。


 ★


 彼女が巻き込まれたあの『事故』で、私は大学を追われることとなり、教授の地位も失った。

 監督不行き届き。擁護のできない不注意。学生に取り返しのつかない怪我を負わせてしまった教育者。

 彼女とその御両親との和解は早々に済んだが、それだけで終わりになる話ではなかったのだ。


 大学を去った私は、しかし、あちこちに支援してくれる理解者を得ることができ、いくつかの援助を得てベンチャー企業を立ち上げることになった。

 相変わらずの義肢、義足、介護機器の研究開発である。産学連携においての『学』の立場から『産』の立場への転身。


 会社を立ち上げてしばらくして、傷が癒えてリハビリも済ませた彼女も加わることになった。

 学生時代には強度計算もロクにできなかった彼女ではあったが、どうやら彼女の適性は別の方向にあったらしい。

 金の勘定に、法律的な話。任せてみたら、驚くほどの手際の良さであった。失った手足の代わりは私の作った機械がこなした。

 たちまちのうちに彼女は我が社になくてはならない存在となり、そして。


 色々と相談した結果、同居ルームシェアしようという話になった。

 自宅が事務所を兼ねる規模の会社にとって、結局それが一番簡単だった。


 ★


 何度でもあの時の光景がフラッシュバックする。

 彼女の方に倒れかかる、試作品の機械。

 実験中でリミッターを外して試していたそれは、そのまま動けば大変なことを引き起こすことは明らかで。


 私があと数秒、早く手を伸ばしていれば回避できたはずの事故。

 彼女があと数秒、早く飛びのいていれば回避できたはずの事故。

 だけど私と彼女は、どちらもそれを認識しながら――


 


 私は理解してしまった。手を伸ばさなければ、彼女の身体に深い『傷』が残ると。

 彼女は理解してしまった。飛びのかなければ、私の経歴に深い『傷』が残ると。

 私は理解してしまった。彼女がそれを理解したことを。

 彼女は理解してしまった。私がそれを理解したことを。

 下手したら彼女は身体的に死ぬかもしれない。

 下手したら私は社会的に死ぬかもしれない。

 ああ、それでも。だからこそ。


 いったいいつからだったのだろう。

 たとえそうなっても、互いに互いの存在を刻みたいと思ってしまっていたのは。


 手は伸びなかった。

 飛びのくことはできなかった。


 その時、私がどんな顔をしていたのかは分からない。

 彼女は笑っていた。

 にへらっ、と、どこか脱力したような、しかし、蠱惑的な瞳で。


 頬に熱い飛沫がかかった。遠くで誰かの甲高い悲鳴が上がっていた。


 ★


 程よく温かい湯の中で、彼女の身体が沈まないようにそっと支える。全身で抱きかかえるようにする。湯船の中で転んだら、彼女は自力で起き上がれずにそのまま溺れる可能性がある。まあしかし、もう手慣れたものだ、間違えはしない。


「……ねえ、きょーじゅ」

「なんだい、喜旗きばたくん」

「この手、放してみる?」


 何気ない風を装って、たまに彼女はこんな感じで私を試すようなことを言う。

 あるいはこれを言いたかったから、風呂をねだったりしたのか。

 下手な恋人同士よりも密着した姿勢のまま、私は静かに彼女の頭を撫でた。


「そうだね、気が向いたらね」


 顔は見えなかったが、にへらっ、と彼女が笑ったのが分かった。

 ちらりと鏡を見た。私の口元だけ、笑うかのように歪んでいた。

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