赤を纏う少女
──後ミェセアロス歴386年、王国ロドルア
深く息を吸い込めば、それは鼻の奥で苦みを持って広がる様がわかるような生き生きとした緑だった。それを穏やかに風が揺らしている。
しかし、少女はそれをわからないまま、浅く息を吐いては吸うを繰り返した。
雨で湿った土の色をした皮のブーツは、ぐんぐんと足元にかかる緑をかき分けるように進む。ひざにかかる程の長さをもった一枚布の黒い質素なローブが空気におされて広がると、その靴の大きさには似合わない華奢で色白い二本の脚が少女を前に前にと進めていく。
少女は早まる足を止めた。
脱げかけていたローブのフードが頭をすべるように落ちると、肩にまでのびた黒髪が露わになる。草原をそうするように、風が少女の髪も優しく揺らすと、陽のひかりにあてられて、黒髪の中に赤みが帯びて輝くようだった。
この国で黒髪は珍しくはない。ただ、赤がかかるのは彼女たちだけにみられるもので、ましてや子どもの内から赤がでることはほとんどない。
─赤は魔力が宿る色。
少女は大きく胸いっぱいに息を吸った。
草原の向こうに広がる城壁に囲まれたその街が少女の大きな、より淡い黄緑がかかった淡褐色の瞳を輝かせる。
「着いた!王都リドアージェ!」
そう、少女は魔女である。その名をリアという。
「…ア…ねぇ、リアってば!」
柔らかくふんわりとした感触を頬に感じる。目を開けるには勿体ないほど、気持ちがいい。しかし、頬を押す力が強くなっていくので、仕方なく瞼を開ける。
「いい天気だなぁ」
寝転ぶ木陰から見上げる木の葉の向こうには雲ひとつない青く澄んだ空が広がっている。
「何言ってんの!ねぇ、リア。いい加減王都に入ろうよ~」
ひょっこりと小さな黒猫がリアの顔を覗き込んだ。黒猫は子どものリアが両手にのせるには難しいが両腕で抱えるには簡単なほど小さい躰であり、黒く闇深い瞳は全体的に青みがかっていて、パチリと音がしそうなほどの大きな瞬きが愛らしさを際立たせている。
「うーん…」
黒猫に背中を向けるように寝返りを打つリアの鼻先を、草先がくすぐる。
「爪たてるよ」
不機嫌に呟く声に、向けた背中を地面に戻した。
「だって、気持ちいいんだもん~」
靴が脱げてしまうのではと心配になるほど細い足首を宙にあげ、リアは勢いよく身体を起こし、喋る黒猫に当たり前のように言い返す。
「ねぇリアわかってる?一人前の魔女になるためには──」
「十の誕生日と十月十日をすぎたころ、クラントルから修行の旅に発ち、自らの魔法をもって『
リアはくどくどと話し始めそうな言葉を遮って、生まれた村で聞き慣れたその言葉を詠唱する。リア自身も言葉通り十一の誕生日を前に村を出たばかりである。
「…そうだよ、僕らは無駄に村から出たわけじゃないんだから、やることやらなきゃ」
「でも、修行の中身もフレミェセアの花の在り処も教えてくれないんだよ?修行は自分で考えろ、花の方はわからんってなんだそれって話よ」
「だから、まずは王都に行ってみようって、決めたのはリアだからね」
釘を指すような言い方に、リアは下唇を突きだしてみせた。
リアは
ただ、リアにとって世界は、いつか訪れる旅立ちの時まで、開けるのを我慢しなければならない宝箱のようなものだった。
「リア、僕お腹すいたよ。ここのとこ、クスの実ばかりだし」
──らしい話で紛らわしたけど、本心はそっちか。
「それはテクがこれは嫌、あれはダメってするからでしょ!」
テクと呼ばれたその黒猫は、リアの細い足の上に腰を落とし、小さな耳を折りながらリアの顔を見上げた。
テクの好き嫌いを於いても、ここ数日の食事は満足いくものではなかった。
最初は村から出る時に備えたもので繋いでいたが、それも三日目には一食分しか残っておらず──初日の夜にはしゃいで食べすぎたのはテクもリアも同じであるが──四日目に出会った楽団の年長者に気楽なおじさんがいて、「モノやヒトは王都に集まる」とこちらの事情はさておきペラペラと自身の身上と共に教えられ、王都の西側に繋がるカンデナ高原を途中まで馬車に乗せてもらえて以降、テクが嫌がらないという条件の下、食べられそうな木の実や、野草を探して過ごしていた。
緩やかな傾斜だが、広大で穏やかな印象のカンデナ高原を有する王国ロドルアでは、無計画に旅を進めると吹きさらしにあうというのを学び始めたところであった。
遮るものがない満天の星を眺めることを楽しめたのは、楽団と別れて最初の一晩くらいである。
そうしてようやく、高原を抜け、目前まで来た王都を前にリア達はしばし、足を休めていた。
リアの顔に息を吹きかけるようにして風が吹いたので、瞼を閉じた。微かに聞こえる葉擦れの音が心地よい。旅路に天気が良くて良かったと思いながら、リアは音がする方を見上げた。
「ねぇ、テク」
「ん?」
「この樹って、
頭上で穏やかに木の葉を揺らす樹木を眺めながら言う。
その穏やかな印象とは裏腹に、深い茶色をした骨太な根元から真っ直ぐ空へと伸びる幹は、岩肌のような質感をもち、リアが両手を伸ばしても直径には足りないほどの太さで、中から覗くと頂上を探すのに戸惑うほど高さがある。そこから生えるどの枝も小柄のリアを乗せてもまだきっと余裕があるであろう強さが伺える。
「お、正解!神の手先なんて呼ばれ方もあるけど、古くから僕らに馴染み深い樹のひとつだね」
子猫にみえるテクだが、リアが生まれるよりずっと前からその姿をしている。時には世話のやける弟のように感じられることもあるが、テクとの一番最初の記憶は、まだ物心つく前、何が気に食わなかったのか、泣きわめいてやろうと思った時、その黒い尾を顔の前で、緩やかにあっちにこっちにと振っている姿である。
そうやって、あやしてもらうことが少なくなってからも、テクはいつもリアのそばにいた。魔法やそれ以外のことも、尋ねれば答えが返ってくるので、テクの年齢を聞いたこともあった。テクがただの黒猫じゃなく、魔獣だと理解したのはその頃である。
「でも、リアの口から樹名が出てくるなんてびっくりだよ、魔女の自覚ってやつ?」
誰しも得手不得手があるように、魔法にも得意、不得意があり、リアは特段物覚えが悪いわけではないが、難しい話はどちらかというと不得意であった。それを知って、わざとらしく言うテクを無視して、リアは立ち上がり、樹に手をあてた。
「私こんなに立派な樹、初めて見た」
その樹はただ大きいだけではなく、この国の歴史を長年眺めてきたのだろうかと、思いをはせるに相応しい威厳のような風格があった。
幹にあてたリアの手がぼんやりとした微かな光を放つ。それはリアの魔力が樹が持つ魔力と呼応しているからであろう。それに引かれるようにリアは手の甲に額をあてた。
「魔力のめぐりが柔らかいのに、力強い」
「ロドルアは本来とても安定した土地だからね、長くあればそのぶん力も大きくなる。リアがさっきからぼんやりしちゃうのもこの樹の持つ魔力に引っ張られちゃってるんだと思うよ」
そう言いながら、リアの肩を使って、テクはその樹の一番近い枝に飛び移る。
先ほどから、心地のよい眠気に誘われていたのを勘付かれていたことに一瞬目を泳がせるリアだったが、それが悔しくてムキになって言う。
「ぼんやりじゃなくて気持ちが良いの!…でもテクはそんなことないよね?」
「僕はリアほど魔力を吸収する量は多くないもの」
テクは細く長い尾で枝にすべらせるように撫でる。
「すごいよ!ずっとずっと昔からここにいるんだって。僕らが生まれるずっと前!声が解る樹がクラントル以外にもあるなんてなぁ」
「でも、とても珍しい樹なんでしょ?なのに、杖をつくるためにどんどん刈ったって、お母さんが言ってた気が…」
「おい!」
それは雷が落ちたかのような大きな声だった。一瞬それが音なのか言葉なのか分からなくなるほどで、リア達の会話を遮り、そしてリアの肩を大きくびくつかせた。
驚くリアが振り返ると、そこには濃い茶髪を短く刈り上げたリアより十近く年上であろう青年がこちらに大きな歩幅で向かってくる。
年頃にしては筋肉質な体つきと、左の腰に携えた鞘に収まった剣が、リア達に緊張感を走らせる。テクは樹から降りて、リアの腕のなかにおさまった。
「こんな時間に、こんなとこで何してるんだ!」
近付くと青年はリアが見上げなければ顔が見えないほどで大きな身体だとよく分かる。
「え、ひ、ひるね?」
たどたどしくリアが答えると青年は目を開いて驚いたように見えたが、その声はその青年が発したものではなかった。
「昼寝ぇ?ははは!」
ふと、視線を下げると、その青年の後ろから、リアと年がほど近い少年が顔をだす。背丈はリアよりは大きいが目線は青年よりもずっと下がる。
「可笑しいなぁ」と目を細めながら笑う少年は、深緑色の膝上丈のチュニックに黒のズボンと質素な服装なのに、どこか品性を漂わせるような、不思議な雰囲気を持ち、自然にみえるよう丁寧に整えられた茶色を含んだ金色の髪があどけない印象をのぞかせる。青年と同じように剣を携えているのに、恐怖心はどこかにいってしまうような朗らかな空気感がそこにはあった。
─なんだか消えちゃいそうだなと、リアはふと思った。
「笑い事じゃないよ、君はこの辺の子どもじゃないね?」
青年は、くすくすと笑う少年をたしなめながら、リアに目をやる。
「王都に!行く、予定だったんだけど、気持ちがよくて…」
少しずつ声を落とて話すリアに、青年は肩を落とす。辺りを見回してリアが一人でいることを戸惑いがある様子である。彼らにとって、小さな猫は「1」とされないようだった。
「ここにいるのは君だけ?大人たちは?」
「え、大人?えーっと…」
「ダ・カルテ村の商人の子じゃない?きょう登城するって話だったし」
言葉に詰まるリアを、年上の男を怖がっているように見えたのだろう、その少年が出した助け舟にリアは乗っかることにした。
彼らは、二頭四輪の荷馬車を連れていた。一頭でも引けそうな大きさの馬車で、その荷台にはいくらかの麻の布で織られた袋がすでに置かれていたが、まだ余裕があったので、リアは少年とその荷台に乗せてもらえることになった。
「運が良かったね」
ガタゴトと揺れる荷馬車を慣れた手つきで操る青年の背中を見ていると、横から少年が声を出した。
「え?」
「王都リドアージェは魔術で結界が施されてるんだ」
「魔術?」
「さっきの所からすぐに見えたでしょ?でも実際はだいぶ遠いから、歩いてたら今日中にはつかなかったと思うよ」
その言葉に、リアは灰色の石を積み上げた城壁を持つ王都のほうを見た。確かに経った時間ほど景色は近づいているようには思えない。緑の草原を丸みを持って横断する城壁とその奥に見える都と同じ名前を持つ城が変わらない大きさでそこにあった。
「はい、君にはこれかな」
少年は、ずぼんについたポケットの中から、その実をとりだし、リアの横に体を丸めているテクの前においた。
テクはそれは猫らしく、姿勢を低くし、鼻先をその実に近づけ匂いをかいだ。甘えた声で鳴いて、その実を咥えてリアの背中のほうに隠れるように座った。
「お礼かな」と少年は嬉しそうにリアに笑ったので、リアは笑って言葉を濁らせた。
その実は探せば見つかるくらいの甘味をもった淡泊な味だが、苦みは少なく、火を通さずとも噛み潰せる木の実で、栄養価の高さも持ち合わせることから、動物の餌から、軍の遠征まで幅広く利用される。何より、蓄えている魔力量も多いので、リアたちはこの旅路、選んでその実を食べていた。
「またクスの実」
背中から聞こえたその小さな声をリアは聞き逃さなかった。
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