魔女の旅人
おさなみ音
そして、世界は音をたてる
彼女たちが棲むのは朝は遅く、夜は早い、国の北西に位置する山村と言われている。一年中雪が残る「アランカル山脈」の麓、吐く息は白く、厚手の皮の手袋さえも突き刺すその寒さに、ここに人が居るのだろうかと、膝下ほどまで積もった雪道を歩く足の動きが鈍っていく。
「王子、戻りましょう」
そう、声をあげたのは誰だろうか。振り返るも、視線が定まらない。先程よりも身体に打ちつける雪が大きく、そして強くなっているようだ。
また、諦めるのか。奥歯に力が入るのが分かった。
幾度となく繰り返したこの作戦は父も第1王子である兄も決して叶うことは無く、父は王に即位し、兄は病床に伏した。
我が王族内にて極秘で行われるこの作戦は「クラントル」と呼ばれる、彼女たちが生きる村を捜し出し、契約を再度結び直すためのもので、資格者である私の遠征は今回で8度目となった。
靴先の方向を今まで来た─であろう道に向きを変える。顔を上げ、吹雪く景色に目を細める外側で近くの従者が鳥の形に折られた紙を手に握り締め、そして、宙に投げた。投げられた紙は炎を宿し、この吹雪の中揺らぐことなく私の前で道を照らし、ゆっくりと登ってきたらしい道を下っていく。
私は足を止めた。そして、そこにあると言われる村の方向を仰ぐ。
きっと、私がこの作戦を担うのは今回で最後になるだろう。年が明け、城下町の雪解けが始まったころ私はこの国の王になる。
次なる資格者は妻の身体の中で命を灯したと、作戦に発った夜、城に近い小さな村で後追いの従者から聞いた。翌朝、一団の出立が予定より少し遅くなったというが、村の酒屋に備蓄されたモノはおろか、家々にあったモノまで全てなくなり、酒豪と噂の村の男達が頭を抱え、仕事で使いものにならなかったのは別の話だ。
ただ、作戦の失敗は、王となる現実にも、父となる現実にも喉の奥に何かを落としたような苦しみが重い実感を与えた。私は遂げられなかった、託すものがすでに出来ているのだ。
『カチャン』
そう、耳の奥で鍵がかかる音がした気がした。
歩きだそうと足元に戻した視線をあげ、左右に広げる。吹雪で辺りは薄い灰色の世界が広がっているだけかとまた、視線をおろそうとした瞬間、右目の端に黒い何かを捕らえた。ハッと顔をあげる。
強く、もうほぼ横向きに吹く雪の塊の向こうに目を凝らす。視界がぼやける手前、雪片で覆われた木々の間を素知らぬ足取りで動いている。熊では無い。四足歩行だが、その動きに重量感はない。
すっと、あげた足が止まり、赤く鈍く輝る瞳が2つこちらに向く。
「…猫…か?」
上を向いていた躰と同じほどある細く黒い尾の先が、意志を持って、低く静かにこちらに向く。
いや、まさか。こんな厳しい雪山に。
そう思った矢先、顔にわりと大きめの雪が飛んできた。顔をそむけるも、すぐさま黒い猫がいた方を見る。しかし、そこには姿はない。
辺りを見回そうと左足を開いたその時、今度は耳の奥よりもずっと遠くで、
『カチャン』
また、いや、今度こそ鍵がかかる音がした。
そうか、最初の音は鍵が開いた音だったのか。確信めいた何かが身体の左側にある心の臓で居場所を見つけたように感じた。
「ファジ様、如何なされましたか。」
前を歩いていたはずの見慣れた従者が、足を止めていた私の顔を覗き込んだ。
「いや、今はない。」
思いの外、意志の揺らいだ物言いに従者は口を開きかけたが、口をつぐみ、そして、今度こそ口を開けた。
「下山道も依然、危険でございます。お気をつけくださいませ。」
そう言うと、従者は隊をなす列に戻り私と進んでいた隊の距離を器用に繋いでいく。
重みのある足取りを進めながら、豪雪の隙間を行き交う風音の中で、先の鍵音を想う。揺らいだ声には自覚があった。
それもそう──あの黒猫は、いや、あの獣は、確かに私をみて微笑んだのだ。
それは実に妖しく、奇異な様であったが、そこに威迫はなかった。
むしろ、懐旧の情や慈しみすら孕んでいた。
そうか、かの者達は未だこの地で息絶えず暮らしているのか。荒野を無鉄砲に探し歩いたこの十数年を左手の拳に握りしめた。
城に帰ったら、すぐさまに事を記そう。
次の資格者の小さな道標となるように。
私が掴んだ、最初で最後の彼女たちの証を。
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