#殺伐感情戦線 第1回

カバなか

面影

 わたしの実家はサラリーマンの核家族で父も母も健在だから、仏壇というのは祖母の家でしか見たことがなかった。

 家族で帰省したときに、線香に火を付けてお鈴を鳴らし、みんなで手を合わせる。

 お仏壇のロウソクの火を消すのに息を吹きかけたらダメだ、ということを父から教わったことを覚えている。でも、仏壇の中央に置かれている額縁のことがよくわからなかった。

「カナエがもっと小さい頃に亡くなったおじいちゃんなんだよ」

 祖母はそう言ってくれていたけど、わたしにはそれが人の姿だということがよくわからなかった。

 ためつすがめつしても何か記号の集まりとしてしか認識できなかった。人の顔? 抽象的で見ていると気持ちが悪くなってくる。みんな、その祖父とわたしはそっくりだと言うのに。


 どうやら、みんなは写真に写った姿でもその人だとわかるのだ、と気づいたのはもう少し後のことだった。それまでは、いったい祖母が愛おしげに触れるこの遺影というものはなんなのかと不気味で仕方なかった。

 わたしには、写真に映る人物がどうしてもうまく認識できないらしい。どういうことかはわからないけど、そこまで困ることはなかった。香織の遺影と同居することになるまでは。


 香織には、親しくなってからけっこう早い段階で写真の人物が認識できないことを伝えていた。

「私にはよくわからないけど、カナエちゃんがそう言うんならそうなんだろうね」

 自分の学校の成績がよくないことを気にしていた彼女は、自信なげにそう言った。わたしは人間の写真を見て答える問題以外は得意だったから、香織によく勉強を教えていた。

 香織の家はお父さんが既に亡くなっていて、お母さんと少し年の離れた妹の由香ちゃんと三人暮らしだった。

 その日も、わたしは由香ちゃんの遊びの相手をしながら、香織に宿題を教えていた。彼女らのお父さんの仏壇の前で。

「私はお父さんのこと、よく覚えてるから……。でも由香はあまり覚えてないかもね」

 香織がつぶやいたのは、多分わたしだけが聞き取れた。由香ちゃんの前で、不用意な話題を出してしまったなと思った。

 由香ちゃんは、お絵かきをしていた。大好きなヒマワリの横で、香織とわたしと由香ちゃん自身が手をつないでいる絵だ。

 わたしはひっそりと、香織への恋心を由香ちゃんに察せられているのではないかとヒヤヒヤしていた。ばかな。幼稚園児に?


 わたしと香織は女性同士だったけれど当たり前のように惹かれ合ったし、性的な好奇心をお互いに隠すことはしなかった。

 わたしの家でも彼女の家でも愛を確かめあったし、あまり裕福とは言えない家のために香織が働き始め、わたしが大学を卒業して一人暮らしを始めたアパートでは、もちろんタガが外れたようにカラダを重ねた。

 香織は、何度同棲しようと誘っても首を縦に振らなかった。由香がいるから、というのが理由だった。

 わたしはここまで香織に愛されている由香ちゃんに嫉妬しながらも、彼女の家族を可能な限り助けようと思った。それが、彼女を愛した自分の責任だと思った。


 香織が亡くなる前にいちばん気にしていたのも由香ちゃんだった。何という病気だったか名前は忘れた。その名前を覚える前に香織は逝ってしまった。

 実際どういう仕組みで香織が死んだかは、わたしにとっては重要なことではなかった。香織が死ぬのが恐ろしかった。そして、彼女が亡くなっても、わたしは彼女の遺影を認識できないという事実と向き合わなければならないことに気づいて、愕然とした。

 わたしは彼女の死を恐れていた、というよりは彼女の死んだあとの自分と向き合わなければならないことに恐怖していた。彼女の顔貌を、体を、そのぬくもりを、すべて忘れてしまうことに。

 亡くなる前の香織は、痛々しくやせ細っていた。わたしは健康だった頃の香織がうまく思い出せなかった。写真はいくらでもある。でも、わたしにはそれが香織だとわからないのだ。香織もそのことに思い至ったのか、何も言わなかった。ただ、由香ちゃんとお母さんをよろしくね、とだけ言った。

 本当は、元気だった頃の香織の記憶ではなく、目の前にいる香織に全力で向き合うべきだったと思う。

 でも、何が「本当」なのかは、わたしにはもうわからなくなってしまった。


 お葬式は、わたしと香織のお母さん、そして由香ちゃんで挙げた。

 香織のお骨は、お父さんと一緒に仏壇に祀られた。遺影は二つ並んでいた。そこでは香織と、香織のお父さんが笑っているはずだった。

 わたしはその遺影を焼き増しして、自分にくださいと言った。由香ちゃんは泣き腫らした目でこちらをじっと見て、しばらくしてから「はい」と言った。


 何が写っているか、わたしにはわからない写真が由香ちゃんから郵便で届いた。額縁がわたしのリビングルームの棚に置かれ、それが”仏壇”になった。わたしと香織の初めての同棲だった。

 わたしは毎日その”仏壇”に線香を上げて香織の冥福を祈った。

 香織の顔を思い出そうとするたびに、どんどん印象が希薄になっていくのがわかった。

 わたしは頼りない記憶をよすがに彼女のことを想った。愛していた、じゃなくてずっと愛していると思った。

 それはもはや信仰だった。顔のわからない遺影が、わたしの十字架だった。忘れまいとすることが、香織のためにできることだと思った。忘れたくないと願った。

 ――どうしようもなく忘れてしまうことを、許してほしいと祈った。


 誰も訪れなくなったわたしの部屋に、由香ちゃんが訪ねてきた。

 久しぶりに見たその顔は、驚くほど香織に似ていた。あるいは、そう思いたいだけなのだろうか? 本当は、わたしはすっかり香織の顔を忘れてしまっていて、信仰の中でありもしなかった香織像を作り上げているだけなのではないか?

 由香ちゃんは大学の学費をわたしが出したことへのお礼を丁寧に言った。でも、わたしは上の空だった。そこにいるのは、紛れもなく香織だ。たぶん正確に言うならば、香織が亡くなったあとにわたしが信仰していた香織の姿だったけれど。


 そうなるのが自然だったかのように、わたしは由香ちゃんを抱いていた。

 わたしの下で嬌声を上げているのは、わたしたちが一番幸せだった頃の香織だった。健康で、元気で、わたしを愛してくれた香織。わたしはこの瞬間だけは幸せだった。それは錯覚ではなかった。

 由香ちゃんの肉体を貪るほど、本当の香織に近づけると思った。確かに。たぶん。きっと。


 わたしは今や、金銭の援助を盾にとって若い女性の肉体を求める最低の人間だった。それに加えて、他の女を思い出すためにその妹を抱いている女だった。でも、由香ちゃんはわたしの求めを何も拒絶することがなかった。彼女から求めてくることさえあった。

 香織を思い出すために、香織が最期まで心配していた由香ちゃんを汚している。あんなに幼かった由香ちゃんは今や、成熟した大人の女になっていた。

 もう由香ちゃんを通してしか、香織を思い出せないから。そう思い込みたかった。わたしは香織のために生きていた。生かされていた。でもそれは、もしかしたら、負い目といったほうが正しかったのかもしれない。

 香織は死んだし、ずっと死に続けていた。わたしは生きていたし、由香ちゃんもそうだった。


 何も考えずに、わたしは眠った。由香ちゃんを抱いて、リビングルームのソファの上で夢も見ずに。

 わたし以外の人間が見たら、由香ちゃんが笑顔で写っているとわかる写真が、”仏壇”からわたしたちを見下ろしていた。



(了)

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