泥棒

 雨の日は傘泥棒に気を付けなければならない。

 大学生の頃は何度も傘を盗まれたことがあるし、何度か盗んだこともある。

 自分の傘を盗まれたときは心底腹立たしいのだが、誰かの傘を盗むときは、そこにあるから使った、くらいの感覚で、罪を犯していることにさえ気付いていなかった。

「俺の傘どこだッ!」

 居酒屋の傘立てに唾を飛ばしている部長を目の前にして、そんなことを思い出していた。

「傘が……ないんですか?」

「ない!黒いやつ!絶対ここに置いたのに!」

 怒りとアルコールで部長の顔は真っ赤だ。

 高橋さん、次いで伊藤さんと目が合い、気まずい空気が流れる。

「買ったばっかりなのに!けっこう高かったんだぞ!人の物を盗むなんて考えられん!」

「ま、まあ部長、落ち着いてください。良かったら私の傘で一緒に駅まで……」

 言い終わらないうちに部長が俺の傘を掴み、体を寄せてくる。その力強さに嫌な予感がした。

「まったくけしからんな!よし、気が変わったぞ。こうなったら飲むしかない!次いくぞ、次!」

 やっぱりか。

「一軒だけ2時間で終わるから」が部長の誘い文句なのだが、料理が不味いだの、店員の態度が悪いだのと、なにかと理由をこじつけて2軒目、3軒目と朝まで連れ回されるのがいつものパターンだ。

 今日の店は料理の味良し、店員の愛想良しで、俺たちも安心して店を出たのだが、まさか傘が理由になるとは。

「あの、雨もひどいですし、今日は……」

「関係ないだろ雨は!明日は休みなんだし、少しぐらい良いじゃないか」

「いえ、休みといっても皆さんそれぞれ用事などありますでしょうから」

「なんだ、俺と飲むのが嫌なのか!」

「い、いやそういう訳ではなくてですね……。あの……」

「いいから行くぞ!」

 部長が無理やり俺の傘をぐいっと引っ張り、行き先も決めずに歩き出す。

 高橋さんに助けを求めようと首をひねったが、なにやらスマホをいじっている。たぶん奥さんに帰れなくなったことを詫びているのだろう。新婚なのに気の毒だ。

 伊藤さんは嫌悪感むき出しで、太い鼻息を漏らしている。確か明日は朝早くから友人と約束があると言っていたはずだ。

 俺も明日は彼女とデートの約束があるんだが。

 改めて横を見ると、初めから傘なんて持っていなかったかのように晴れやかで上機嫌な部長が、俺と傘を共にしている。

 泥棒だ、と思った。

 この人は俺たちの時間を盗んでいる。

 家族と、友人と、恋人と過ごす時間。身体を休める時間。趣味に没頭する時間。ぼーっとする時間。どれも大切な時間だ。

 でもきっとこの泥棒は、罪の意識などこれっぽっちもないのだろう。

 くそっ。今日も諦めるしかないか。

 気付かれないようにため息を吐く。

「部長、次はこの先に新しくできた焼鳥屋なんてどうですか?」

 せめてもの抵抗で、部長と肩を寄せ合いながら、傘を少しだけ自分の方に引き寄せた。





 <了>

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