鳳仙花 ~私に触れないで~

 今日も、階下から母とその友人の悩ましげな声が漏れ聞こえてくる。


「はぁ、また今日もか……」


 友人多数。成績は中の上。おまけに彼氏持ち。

 なんとも順風満帆な高校生活。


 この樋口家の一人娘である私――結衣ゆいが持つ悩みといえば、母とその長年の友人が昼間からお盛んすぎることぐらいだった。


「あれで気づかれてないと思ってるからなぁ、お母さんってば」


 天然というべきなのだろうか。どこか抜けているというべきなのだろうか。

 ともかく、憂鬱なテスト地獄から解放されて一息つきたくともつけない。そんな悶々とした思いを抱きかかえながら、私はベッドにただ横たわって無為な時間を垂れ流していた。


「ほんっと、あんな人のどこがいいんだか」


 母の友人こと凛子りんこさんの底意地の悪そうな笑みを思い起こしながら、盛大にため息をこぼす。


 凛子さんと母は、学生時代からの付き合いらしい。

 ただ、交際を始めたのは、ここ数年のことなのだろう。顔もろくに思い出せない父がいた頃は、我が家に顔を出すこともほとんどなかったから。


「……あっ、終わった」


 ふと、音が止んだことに気がつく。


 その瞬間、喉が渇いていたことを思い出した。我慢していたのだが、気づいてしまえばもう我慢も限界に近い。

 観念した私は、重苦しい息を吐きながら階下へと足を運ぶ。


 なんとも気が重い。なにせ……――。


「お、久しぶりじゃないか、結衣。してるよ?」


 ――階段を下りた先には、凛子さんがいるということなのだから。


 わざわざ『邪魔』という言葉を強調して言うあたり、彼女の意地の悪い性格を物語っている。


(邪魔だってわかってるなら、さっさと帰ってほしいんだけどなぁ……)


 それを口に出せない小心者の自分にも、嫌気がさす。


「で、もうお帰りですか? やることはやったでしょ」


「ハハッ! なかなか手厳しい言い回しを覚えたもんだ! さすがは多感な時期って感じだね!」


 こちらの棘のある言葉も、凛子さんには通用しない。受け流されるだけだ。

 ただ、私もこの態度を止めるつもりはない。


「ほんと、お母さんもあなたもおかしいです。女同士なんて、ありえない」


 だが、一層鋭くした視線にも怯むことなく、彼女は近づいてくる。


「……ふぅ。まったく、あたしの後ろをちょこちょこついて回ってたあの可愛らしい結衣ちゃんはどこに行ってしまったのかねぇ」


 呆れるように、わざとらしく肩をすくめて、私の頭へと手を伸ばす。

 その手が頭に触れる寸前、私は彼女の手を全力で払い除けた。


「さ、触らないでっ!」


 母に気づかれないように潜めていた声を荒げ、大きく後じさる。おそらく、顔も引き攣っていることだろう。


「……そこまで拒絶されると、さすがに傷つくなぁ。半分、親みたいなもんじゃない?」


 まったく傷ついている様子のない凛子さんを睨みつけ、吐き捨てるように言い放つ。


「私は、あなたを親だなんて思わない! それに、あなたと母の関係も認めてませんから!」


 絶対の拒絶を言い残し、私は再び階段を駆け上がる。


 認めない。認めるわけがない。


 ――だって、私はこの人が大嫌いなのだから。


   ◆


「ごめん、別れてくれ」


 翌日、彼氏に呼び出された私を待っていた言葉は、なんとも無情なものだった。


「……え、なんで?」


 しばらくの沈黙の後、ようやく絞り出せたのはたったそれだけ。

 困惑した私とは裏腹に、彼氏は感情の見えない鉄仮面で冷たく突き放す言葉を吐きつける。


「ほかに好きな人ができた。だから、別れてくれ」


 彼の自分勝手な言葉が、心臓を射貫く。


「ど、どうして? 私に何か不満があったの? それか、傷つけるようなことをした……? ねえ、教えてよ?」


 痛む胸で、揺れる心で、震える言葉で、精一杯の疑問を絞り出す。

 それでも、彼の鉄仮面は揺るぎなく、冷徹に告げるばかり。


「いや、なにも」


 たった一言。それだけだった。


「え……」


 いったい、彼は何と言ったのだろう。何も聞こえてこない。


 いったい、彼はどんな思いなのだろう。何もわからない。


 いったい、彼にとって私はどういう存在だったのだろう。何も、なにも……――。


「じゃあ、そういうことだから」


 呆然と地面を見つめる私を置き去りに、彼は去ってゆく。

 私には、もう虚ろな目を上げ、その背を見つめることしかできない。


「どう、して……?」


 絞り切ったカスのような声を漏らす。

 すると、去る彼に歩み寄る女子生徒の姿が目に入る。


 そこで初めて、私は彼の言葉の意味を理解した。


 ――ああ、私はまただったのだ、と。


   ◆


 土砂降りの雨すら、このささくれだった心を癒してくれない。


 私みたいに暗く淀んだ空を見上げて、ただそんなことを思った。


「バカみたい……」


 その言葉は誰に言ったんだろうか。

 私を捨てた彼? それとも、捨てられた私? それとも……。


 そんな私の負の思考を断ち切ったのは、あの憎たらしい女性の声だった。


「あら、びしょ濡れじゃないかい」


 どうやら、気づかないうちに家に帰りついていたようだ。玄関に憎たらしい女性こと凛子さんが、心配そうな目で佇んでいた。

 母が帰ってきたとでも思ったのだろう。手には濡れた身体を拭くためにタオルが握られている。


「ほら、これ使いな。あと、風呂でも入って温まりなよ?」


(ここでも、私は、か)


 私のために用意されたわけではないタオルを受け取り、力のない手つきで身体中を軽く拭う。そして、私のために用意されたわけではない風呂場へと、覚束おぼつかない足取りで向かう。


 わかっている。こんなことを思うのは、ただの八つ当たりだと。


 それでも、私は心に刺さった棘を無視することはできなかった。


   ◆


 風呂上りの私を待ち受けていたのは、凛子さんの「ちょっといいかい?」という寝室への誘いだった。


 昨日、二人がシーツに皺を刻んでいたであろうベッドに腰かけ、息をつく。


「……で、なんですか? これでも暇じゃないんですけど」


 精一杯、強がった言葉を絞り出す。

 しかし、それすらも見透かしているように、凛子さんは真剣な目つきで私を見つめて黙り込む。まるで、私から話すことを待っているよう。


 何も言わないまま、静かな時間が過ぎる。


(ああ、昔もこんなことあったなぁ)


 ふと、思い出す。


 普段は意地の悪いことを言ってくるくせに、昔から泣いたりいじけたりしたときには、こうして何も言わずに傍にいてくれたのが凛子さんという人だった。


 思い出すともう、口からこぼれ落ちる言葉を止められなかった。


「私、さっき彼氏にフラれたんです。『ほかに好きな人ができた』って」


 話を始めても、凛子さんは隣でただ頷くだけ。

 その心地よさに、さらに口は一人歩きを続ける。


「不満も、何もないって言われて。もう、何が何だかわからなくなって……」


 言いながら、思う。きっと、彼にとって私は手頃な存在で、ただ本当に好きな人を撃ち落とすための予行演習のために使われていただけなんだろう、と。


 口に出せば出すほど、惨めになる。


 どこに行っても私は余りもので、ただの当て馬程度の存在にしかなれない。


 ああ、惨めだ。


「……まあ、そんなくだらない話ですよ」


 締め括り、凛子さんの応答を待つように黙り込む。

 でも、いくら待っても、待ち望んだ声はやってこなかった。


 なぜか不安になって彼女の顔を覗き込むと同時、彼女の手が私の両肩に力強く掴みかかる。


「り、凛子さ……――」


 言いかけていた言葉を遮るように、押し倒される私。

 押し倒した当の本人は私に覆いかぶさり、耳元にそっと顔を近づけてきた。


「やっ、やめっ……」


 振りほどこうとするも、彼女の方が力が強い。それに、消沈しきった今の私には、抵抗できるほどの力もなかった。


「ねえ、そういうときって、どうしたらいいか知ってるかい?」


 耳元からの囁きが、びくっ、と身体を跳ねさせる。


「い、いや……私は、お母さんじゃない……それに、女同士なんて……」


 せめてもの抵抗を、口から息とともに漏れ出す。

 だが、それもお構いなしで、彼女の手はさらに強く私をベッドに押し付ける。


「でも、小さい頃はよく言ってくれてたじゃないか。『あたしのお嫁さんになる』って、さ」


 囁き声が、私の思考を溶かしてゆく。


「それでも、嫌かい?」


 耳元から顔を離した凛子さんと、目が合う。


 今にも溶けてしまいそうな脳は、もう使い物にならない。

 だからだろうか。私の口からは、繕うことのできない剥き出しの想いしか吐き出すことができなくなっていた。


「……いやよ。だって、あなたも私を一番に見てくれないから」


 子どもの頃は、女同士だとか、そんなことどうでもよかった。

 ただ、彼女が好きだった。


 だから、子どもなりに何度も好きだと伝えた。


 でも、彼女は軽くあしらうばかりで、私を一番に見てはくれない。

 いつでも、彼女の一番には母がいる。


 だから、嫌い。大嫌い。


「あっ……」


 でも、そんな惨めで微かな抵抗を遮るかのように、凛子さんの唇が私を襲う。

 そして、唇を離し、私に告げる。


「そんなもの全部、忘れさせてあげる」


 まるで、チェックメイトの宣言のよう。挑戦的に言い放ち、彼女の唇は、彼女の手は、私の力なく投げ出された裸同然の身体を貪ってゆく。その一度一度が、母への裏切りとか、女同士であることへの嫌悪とか、どうでもいいのだと押し流す。


 彼女が私に触れる。そのたび、快楽が脳をむしばんで。


 彼女が私に触れる。そのたび、私の心は壊れて。


 彼女が私に触れる。そのたび、わたしは……。


 ――ああ、それ以上私に触れないで。戻れなくなってしまうから。

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