世界一安全な車

鏡水 敬尋

世界一安全な車

 会社のセミナールームの席は、ほぼ埋まりかけていた。


 前方の大型スクリーンに何かの映像が投写されているらしかったが、室内が明るいため、あまりに像が薄く内容は判然としない。


「時間となりましたので、そろそろ始めたいと思います」


 演台の前で、部長の荻野が、卓上マイクに向かって言った。その声は何倍にも増幅され、セミナールームの左右に設置されたスピーカーから流れた。


 明かりが落とされ、スクリーンに映されていたものが明瞭になった。それは自動車の静止画像だった。メタリックな光沢を放つ、シルバーのセダンである。

 その映像をバックに、荻野部長が説明を始める。


「今日は、我が社初のオリジナルブランドカー、セフティのご紹介をいたします」


 室内でどよめきが起きた。セフティの開発は、この会社――株式会社 人命ファーストの一大プロジェクトなのだ。

 もちろん、議題は事前に周知されていたが、それでもやはり集まった社員たちは興奮を抑えきれないようだった。


「皆様、ご存知の通り、セフティは、世界一安全な自動車を目指して開発されました。構想2年、開発7年を費やし、今日、ようやく皆様に全貌をご紹介できる運びとなりました。後ほど試乗の時間も設けておりますので、ぜひご参加ください」


 誇らしげな顔で、荻野は続ける。


「結論から先に申し上げます。セフティは、絶対に人の命を奪うことがありません。ドライバーや同乗者はもちろん、歩行者や他車のドライバーを含めてです。事故を起こす確率自体が極めて低く、万が一の場合にも、絶対に死亡事故は起こさない、そんな夢のような車がついに実現したのです」


 再び、会議室内がどよめく。


「一体どうやって」

「我が社のエンジニアも、なかなかやるじゃないか」

「人命を守ることこそが、社是だからな」


 皆が思い思いの言葉を発する。どよめきが収まるのを待たずに、荻野は続ける。


「セフティの開発にあたり、車の安全性を高めるための技術を、徹底的に調査しました。自動運転、自動ブレーキ、エアバッグ、各種センサー類、シャーシ、タイヤ、エンジン、何をどう改良すれば究極の安全にたどり着けるのか。我々がまず目をつけたのは、やはりセンサーと自動ブレーキです」


 聞き手の期待をあおるように、荻野は一旦言葉を切り、やがて続けた。


「セフティは、前方のみならず、文字通り全方位に向けてセンサーを装備しました。このセンサーにより、動物、静物を問わず検知し、必要に応じて自動ブレーキを作動させます。これにより、例えば、バック駐車の際に、誘導してくれてる友人を誤っていてしまう、または、発車の際に、車の下に子どもが潜り込んだことに気づかず、車を発進させていてしまう、という事故も防ぐことができます。自動車で起こりうる、あらゆる人身事故を防ぐことができる設計になっています」


 室内が再度どよめきに包まれた。

 しかしここで、最前列近くの席に座っていたある男が挙手をした。


「質問いいですか」


 瞬時にして、どよめきは消え去り、室内は静けさに支配された。なぜなら、挙手をして質問を投げかけようとしているその男は、社内でも悪名高い橋本だったからだ。

 マーケティン部所属の橋本は、人命最優先のこの会社において、二言目には市場の理論を持ち出し、人命よりも利益を優先するかのような発言を繰り返すせいで、これまでも多くの社員とトラブルを起こしていた。


 荻野に促され、橋本はその場で立ち上がった。


「この後で説明されることとは思いましたが、どうしても気になったもので」

「構わんよ」


 相手が橋本とあって、荻野の顔には警戒心が浮かび、口調も強くなった。

 室内の緊張感が高まる。


「センサーと自動ブレーキで事故を防ぐと言っていましたが、それだけで事故を防げるとは思えません。後方や下方にもセンサーを向けること自体は否定しませんが、車の事故の大半は、やはり前方で発生します。他社の自動車も、それこそ最新のセンサー、最新の自動ブレーキを装備してはいますが、それでも前方で発生する事故を完全には防げていないのが現状です。一体、そこの課題をどうクリアしたのか、それをお聞きしたいのですが」


 この質問を受け、荻野はにやりと笑った。


「いい質問だ。ちょうどこの後に、そこを説明しようと思っていた」


 聴衆は緊張感に包まがれながらも、期待を高めていく。

 荻野が、右手に持ったスティック型の装置を操作すると、スクリーンに、でかでかと文字が映し出された。


【 最高時速 5 Km 】


「これが結論だ」


 荻野は続ける。


「つまるところ、自動車のような重量を持った物体が、時速数十kmで走れば、必ず事故は発生し、人が死ぬ。自動ブレーキやセンサーの性能をどんなに高めても、これは避けられない。もし、数十kmで走る自動車を、瞬時に停止できる自動ブレーキを作ったとしても、その場合、ドライバーや同乗者がただではすまない。なので、最高時速 5 km、これが答えだ」


 あちこちから感嘆の声が上がる。


「たしかに、それなら安全だ」

「目から鱗だ」

「死亡事故ゼロの車の誕生だ」


 周囲が大いに盛り上がる中、橋本は表情ひとつ変えなかった。


「その車、売れませんよ」


 室内の空気が凍りつき、荻野の顔が強ばる。


「なぜ、売れないと」


「自動車は、高速で移動できるところに価値があるからです。時速 5 kmと言えば、徒歩と同程度の速度です。そんな速度しか出せない自動車には価値がありません」


 橋本の指摘は鋭い。しかし、荻野も、この質問は想定していたらしく、堂々と反駁はんばくする。


「先ほど言ったとおり、時速数十kmも出せば死亡事故は必ず起きる。つまり、従来の自動車に乗っている限り、わずかではあるが、人を殺してしまう可能性を常に抱えることになる。しかし、このセフティであれば、その可能性がゼロになるのだ。これは、他社製品にはない強み、つまり価値とは言えないか」

「私は、その、時速数十kmを出せることこそが、自動車の価値であり、存在意義だと言っているのです」


 この後、2人はしばらく意見を交わしたが、議論は平行線のままだった。表情を引き締めて荻野は問う。


「君の論理では、消費者は、人を殺しても構わないと思いながら自動車を運転し、他の自動車メーカーは、人が死んでも構わないと思いながら自動車を売っているということになる」

「どこまで明確に意識しているか、程度に差はあるでしょうが、そいういうことです。自動車に限らず、道具というものは、生身の人間にはできないことができるようになる点に価値があります。自動車において、その価値は、生身の人間には出せない速度で移動ができるところにあるのです。そして、その価値は、事故を起こせば人が死ぬかもしれないという危険性と不可分なのです」


「自動車の価値はそこだけはない!」

「と言いますと」


「移動の快適性だ。エアコンの利いた車内に居ながら移動ができる。さらに、運搬力も挙げられる。手で持ち運ぶことが困難な重さの荷物でも、車に乗せれば楽に運ぶことができる。徒歩と同じ速度だとしても、徒歩よりは格段に快適で楽な移動が可能だ。運搬力という点にといて、セフティは他社の自動車にも引けをとらない。エンジンにも最新の技術を使用しており、なんとその最大出力は 350 馬力だ」


 室内で驚きの声が上がる。


「350馬力!?」

「一般の自動車としてはトップクラスじゃないか」


 しかし、橋本は冷静だ。


「でも、最高時速は 5 km なんですよね」


 自信ありげに荻野が応える。


「そうだ。パワーや性能にこだわるユーザにも訴求できるよう、高馬力を実現した。エンジンの生み出す高出力を、自動ブレーキで相殺し、常に最高速度が 5 km になるよう、コンピュータ制御している。この調整には、大変な苦労があった」

「やっぱり、売れませんよ。その車」


「それは君が、従来の消費者しか見ていないから、そういう発想になるのではないか。私は、このセフティが、自動車の新しい市場を切り拓けると信じている」

「ほう。新しい市場ですか」


「そうだ。実際に市場調査も行い、絶対に事故を起こさない自動車に普及して欲しいという意見を多数もらってる」

「それは、従来の速度、性能を維持したままで、絶対に事故を起こさない自動車なら普及して欲しいと思われるでしょう。ちなみに、どういった人達を対象に調査を行ったのですか」


「今まで、事故が怖くて自動車を買えなかったという人や、自動車事故で家族を失った人達だ。セフティは、そういった、安全性を第一に考慮する消費者に訴求することができる」

「そういった人達は、セフティが販売されたところで買いませんよ」


「なるほど。君の意見は分かった。しかし、先ほど言ったように、私はこのセフティが新しい市場を切り拓けると信じている。絶対に人を殺さない自動車には、一定数の需要があるはずだ!」


 こぶしで演台を叩きつけながら、荻野は言い放った。その熱気にあてられ、会議室内には、賛同の意を込めた拍手の渦が巻き起こった。

 しかし、そに水を差すように橋本が言う。


「あと、そもそも、その車、販売できないんじゃないですかね」


 拍手がぴたりと収まり、荻野は橋本を睨みつけながら言う。


「どういうことだ」

「道路交通法上、最低速度が定められた道もありますし、最高時速が 5 kmの車というのは、販売自体が差し止められる可能性があるかと思います」


 ここでも荻野はにやりと笑みを浮かべた。


「そこに関しては心配無用だ。そのあたりの関係者に対する、根回しと贈賄の準備はできています」

「そういうことをあまりおおっぴらに言わないほうがいいですよ」


「全ては人命のためだ! 人命を守るためであれば、法律を変えることも、法律を破ることも厭わん! 法律は人を守るためのもののはずだ。現行法が人を殺すのであれば、その法律が間違っていると言わざるを得ない」


 再び荻野は、こぶしで演台を叩きつけた。会議室には再び熱気がよみがえり、拍手の渦が巻き起こった。



 数カ月後、セフティは発売された。荻野の言ったとおり、セフティが事故を起こすことはなく、道路上で人を殺すことはなかった。セフティがまったく売れなかったからだ。

 この失敗は、会社が傾くほどの損害を出した。責任を感じた荻野は、高速で走る車の前に踊りてて自殺した。


 結果的に、世界一安全な車であるセフティは人を殺した。

 資本主義の世界においては、売れない車もまた、人を殺すのだった。

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