第3話

 平和で、のどかな時間が流れている。私の周りをゆくまばらな人々と子供たち。きっとみんなそれぞれに悩んだり悲しんだりしながらも、それを補っていける愛情をお互いの心に持ち、正しく愛し合って暮らしているのだろう。それとも一見穏やかで平和に見える彼らも、心の中ではけだものを持て余し、すべてを愛という言い訳でごまかし、ねじふせて過ごしているのだろうか。


 横を通り過ぎた親子の会話が耳に入る。だらしない黒い上下を着た男親が、似たような衣服を着せている年端もいかない子供に対していちいち不機嫌で嫌味な言い方をして、自分は賢くてしっかり子供を教育している気分に浸っている。その向こうでは軽そうな頭を装飾だらけの頭髪でくるんだ痩せっぽちな母親が、泣きじゃくる子供の手を掴んでぐいぐい引きずって歩き去ってゆく。安っぽい言葉で繰り返し怒鳴りつけながらも、三言に一度は手に持ったタバコを咥えて煙を吸い込んでいる。そのタバコを火が点いたまま植え込みに投げ捨てて、母親は尚も泣き止まない子供に苛立ちながら去って行った。

 どいつもこいつもロクでもない。きっともっとロクでもない親に育てられたんだ。私は、自分だけはこうはならないぞと心に決めていた。だけどもし万が一、このロクでもない連中が生涯で一度も妻や恋人を裏切ったことがないのだとしたら。心の中でさえ純潔を守っていたとしたら? より低俗で下劣なのは私の方だ。まひなに恋をしてからというもの、何を見聞きしても彼女のことを思い出すか、自分の行いを振り返ってか、ため息ばかりつくようになっていた。これでは私が愛することをやめた妻と、似たようなものなのかもしれない。

 

「お父さんジュース!」

「ん? ジュース飲むか?」

 娘からの唐突な求めを聞いた私は辺りを見渡して自動販売機を探した。ああ、あんなところにあった。象とニホンザルの檻のちょうど真ん中にアニメのキャラクターをあしらった自動販売機がぽつんと立っている。子供に人気のキャラクターで、果汁入りジュースの入った紙パック容器にもかわいいイラストがあしらわれている。うちの娘も御多分に漏れず、この喋るアンパンと仲間たちが大好きだ。

「ん。」

 私の後ろからぬっと出が出てきて、売っているのと同じジュースが差しだされた。それが妻が持っているカバンの中にいくつか入っていることは知っていた。

「同じの。あるから」

 そんなことは見ればわかる。だがせめて差し出すにしても、こっちの目を見て話したらどうなんだ。

「いらんの?」

「買ってもいいけど」

「同じやって」

 立ち止まってぎくしゃくと話す私と妻に気付いた娘が、妻の手に持ったジュースを見つけて無邪気に駆け寄ってきた。

「お母さんありがとう!」

「はいねえ! 座って飲んでね」

 どうやら不機嫌なのは私に対してだけらしい。まあ、子供に罪はないし、巻き込んで八つ当たりをしたくないから、私も妻に対しては同じように接しているつもりだ。やっぱりお互い様、か。

 

 ペンキのはげかかったベンチに娘を挟んで三人で座り、私は背中をそらして伸びをした。青い空は相変わらず雲一つなく、澄み切っている。娘はジュースの紙パックの片隅に書いてあるなぞなぞクイズを読んで、妻に答えをせがんでいる。名前も知らない鳥が鋭い鳴き声を残して飛び去って行く。その声を追うように顔を動かすと、不意に妻と目があった。妻は一瞬驚いたような顔をして、すぐに目をそらした。私も妙に居心地が悪くなり、顔を動かした。


 そして再び中空を泳いだ私の視線は、すぐ目の前50メートルほどの場所を急速にとらえていった。他の色んなものがどんどん視界から外れていって、最後に残った若い男女。それは、まぎれもなく私の愛する女性、川口まひなだった。とすると、隣に居るのが……。

 彼女はこちらを振り向くこともなく、横に居る男性と仲良く手を繋いで歩いて行った。日の当たるアスファルトがまぶしく反射して白く光る方へ彼女が消えてゆくのを、私は呆然と見送った。じりじりと陽射しが強くなってきて、私の輪郭を一筋の汗が伝ってゆく。

 私は妻と娘を深く、しみじみと愛していた。だが、心の奥底ではそれがはっきりと重荷になってきているのも感じていた。そしていつの頃か、妻の考えていることや気持ちがわからなくなっていた。傍から見たら何も変わらず平和に過ぎてゆくように見える時間の中で、私の心だけが大きく変わってしまったからだ。誰かの気持ちがわかるだなんて、本当はひどく傲慢で、滑稽な独りよがりでしかない。今頃になってそんなことを思うのは、私が愛する女性の気持ちを、いま何よりも知りたいと思っているからだろう。

 そっと横を向いて、「傍から見た私の幸せ」をじっと見た。なんだかむなしく感じた。

 はじめは、軽い遊びのつもりだった。お互いに決まった相手が、私には妻と子供が居て、彼女にも恋人が居た。全てわかったうえでの単なる遊びのつもりだったのだ。その気持ちが揺らぎ、やがてわが身を焦がす恋慕と嫉妬の炎がここまで激しく燃え上がるとは、あの時の私にはまったく想像もつかないことだった。今はただ、その炎に焦がされてひたすら黒くくすんでゆく自分の心に茫然とするばかり。そんな自分が少し愛おしく、取り返しのつかない予感に頭がくらくらした。


おしまい

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