追懐の刻
「ねぇルシオラちゃん知ってる? 悪い子は怖いおじさんに連れていかれちゃうんだって」
そんな噂を耳にし始めたのは数週間前。友人のエリィが最近口にするようになった。
「そんな怖いことどこで聞いたの?」
「あのね、うちの近くにいた子最近見ないの……。きっと悪いことをして連れていかれたんだわ」
そういえばエリィの近所にいた男の子。私たちと年齢が近いが意地悪なことを言うので相手にしていなかった。
エリィを遊びに誘うときに男の子の声をここ数日聞いていない。まさか噂は本当なのだろうか。
「私、悪いことしていないから、そのおじさんに会うことはないよ」
「もちろん私だって! もし悪いことしちゃったらすぐにごめんなさいしようね」
「あたりまえよ」
くすくすと笑いながら小川に映る形がくずれた太陽を見た。話に花が咲いてしまって、いつのまにか太陽は西に傾きはじめている。
「私そろそろ帰らないと。お夕飯のお手伝いしなきゃ」
「うん。私も帰るよ。ルシオラちゃんまたね!」
元気に手を振りながらエリィは家のある方角へ去っていった。
私も足早に自宅へと戻る。
「お母さんただいま。あれ? シンは?」
「おかえりルシオラ。遊び疲れて寝ているわよ」
私と同じ薔薇色の髪を揺らしてこちらを向いたお母さんは困った顔をしてくすくす笑っていた。
「もうお夕飯できるから起こしてきてちょうだい」
「うん。わかった」
隣の寝室に手足を投げ出して寝転んでいる弟をゆすって起こす。
「シン! お夕飯だよ! 起きないとシンのぶんも全部食べちゃうよ!」
「んーやだ。ねぇちゃん起きるからぁ」
眠い目をこすっているシンの手を引いて居間へ連れていく。シンは夕飯の匂いを嗅いだ瞬間足早に席へついた。
「母ちゃん腹減った!」
「はいはい。たくさん食べてね」
私はそそくさとお母さんの元へ走ってよそられたスープをシンの元へ運んだ。
今日はいつもよりお野菜が多い。それだけで心が弾んだ。
シンも同じで具が多いとよろこんでいる。半分に分けたパンを置いて夕飯の準備は終わった。
「それじゃあ食べましょう」
「いただきます!」
いつもは芋しか浮いていないスープ。今日はにんじんやとうもろこしが入っていて彩をそえていた。
一口食べるとスープの味にうま味が増していておいしい。
「今日は少しだけお野菜もらったからたくさん入れてみたのよ。二人ともおいしい?」
「うん! おいしい!」
私たちの笑顔を見たお母さんは満足そうに笑った。お母さんのお皿を見るといつも野菜が数えるほどしか浮いていない。
そしてお母さんのパンはない。いつも心配になってしまう。
「お母さんもたくさん食べてね?」
「お母さんはすぐお腹いっぱいになっちゃうから、このくらいがちょうどいいのよ」
そう笑ってスープを口へ運んだ。何度もしたことがあるやり取りだが、いつもお母さんだけ少なくて心配になってしまう。
それをしり目にシンはばくばくとスープとパンを貪っていた。
お母さんの空いている席を見やる。
本当はそこにいるはずのお父さん。記憶が薄れてしまっているが確かにいた存在。
お父さんは軍人でシンが生まれる前に戦争で亡くなってしまった。
ときどきお父さんがいてくれたらこんな極貧生活をしなくてもいいはずと恨むこともある。でも恨んだところでお金が入ってくるわけではない。
お母さんの稼ぎだけでは苦しいが、近所の人たちに野菜や食べ物をもらってなんとか食いつないでいた。
「お母さん。私大きくなったらたくさんお金を稼いでいっぱいごはん食べさせてあげるね」
「母ちゃん俺も! 俺は軍に入ろうかな! かっこいいもん!」
「ルシオラ、シン。ありがとう。お母さん楽しみだわ」
お母さんの笑顔で心が満たさせる。お父さんがいないぶん、私がお姉さんなのだからしっかりしないと。
何度目かわからない決意を胸にした。
その日の夜。村が静寂に包まれるとき。人の声と物音に気がついた。
まどろみのなか耳を澄ませると男の人の声が聞こえてくる。
今日、エリィが言っていたことが頭の中に浮かんだ。
“悪い子は怖いおじさんに連れていかれる”
もしかして今、連れていこうとしているのかもしれない。でもそんなことは信じられない。
エリィの言葉の真実を知りたくて寝台をそっと抜け出した。
今は恐怖心よりも好奇心のほうが勝っている。台所へ行き、壁に空いている穴から外をのぞく。
いくつものかがり火が見えた。縄で縛られている複数の子ども。そして数名の大人がいた。
「何……しているの?」
その中には見かけたことのある子どもと親の姿があった。
子どもが男に引き渡されると代わりに小さな袋をもらっている。何だろうと思っていると受け取った親は麻袋から何かを取り出した。
かがり火に反射する光。銀貨だということがわかった。
悪い子は怖いおじさんに連れていかれたわけじゃない。自分の子どもを親が売っている。
真実を理解したとき、膝ががくがくと震えた。それじゃあエリィの近所の男の子は売られてしまったのか。
そして私の家族はお金に困っている。いつか私も売られるのではないのか。
でもお母さんはそんなことをするはずがない。お母さんを信じたい。
ぐちゃぐちゃになっている思考回路を抑えながら寝台へと戻る。いろいろな考えが頭の中をめぐって一番鳥が鳴くまで眠ることができなかった。
「ルシオラ? 顔色悪いわよ。大丈夫?」
お母さんに声をかけられて肩が跳ねた。
昨晩、子どもを売るところを見たなんて言えない。
朝の爽やかな空気とは裏腹に私の心はどろりとしている。
心配をかけないように私はすぐ笑顔を貼りつけた。
「だ、大丈夫! なんでもないから!」
急いでパンとスープを口の中に押し込んで席を立つ。
「エリィに会ってくる!」
「気をつけていってらっしゃい」
「えぇ! 姉ちゃんもう行くの!?」
お母さんとシンの声を背中で聞きながら足早に家を出た。
私はすぐエリィのところへ行かず、誰もいない小川へ足を運んだ。
一度落ち着いて昨日の出来事を考えたかった。
ばしゃばしゃと小川で顔を洗う。服の袖でしずくをぬぐった後、ちょうどいい岩へ腰をかけた。
「本当にエリィにいうの?」
自問を口にする。この話はエリィを怖がらせるだけ。でも私一人で抱えていられない。
それになんで私たちの村に子どもを買う人がくるのか。もっと大きな街のほうが子どもがたくさんいるはずなのに。
「ルシオラちゃんいた!」
「え……エリィどうしてここに!?」
「さっきルシオラちゃんの家にいったら私の家に行ったって聞いたの。ここに来ているとおもって来たら正解だった!」
いつも会う約束をしているときはここの小川に集まっていた。
エリィはにこにこしながら私の隣へ座った。
いつもなら少し話したあとキノコや木の実を探しにいく。
楽しい時間のはずなのに顔がこわばる。
「ルシオラちゃん? どうしたのそんなに怖い顔して?」
「あの……エリィ……」
彼女は不思議そうな顔をして私を覗き込んだ。
「わ……私見たの! 昨日の夜、子どもが売られているところを! きっとエリィの言っていた男の子は売られてしまったのよ!」
「えっ!? 本当に!? 誰に売られていたの?」
エリィは半信半疑なのか好奇心が勝った表情をしていた。
「自分の親だよ。私の近所の子が売られているのを見た」
「自分の子どもを売ったってこと!?」
「そう……だと思う。私の家……お金に困っているから……お母さんに売られちゃうんじゃないかって……お母さんはそんな酷いことするわけないのに……怖くなって……」
お母さんを信じていない自分が嫌だ。でも売ろうとして私が拒否をしたらシンが売られてしまうかもしれない。それも嫌だ。
俯いていると横からエリィが優しく抱きしめる。
「大丈夫。ルシオラちゃんのお母さんとってもとっても優しいもの! そんなことしないよ! それにね私いいこと考えたの!」
「いいこと?」
顔を上げてエリィを見つめると胸を張って私をみていた。
「そんな悪い人たちが村に出入りしているなら村長さんに教えればいいのよ! きっと村の大人たちを集めて追い払ってくれるわ!」
エリィの言葉にはっとした。そんな悪い人たちの出入りは村長さんや村のみんなが快く思うはずがない。私の重かった心が徐々に軽くなっていく。
「そう……そうだよね! 村長さんに教えに行こう!」
私はエリィの手をとって村長さんの家を目指した。
扉を叩いて返事が返ってくるのを待たずに開ける。
驚いた表情で村長さんと奥さんがこちらを向いた。
「ルシオラちゃん、エリィちゃんどうしたの?」
奥さんが足早に私たちの元へ駆け寄ってくる。村長さんもただ事ではないと思ったのか読んでいた本を閉じて私たちのところまで来てくれた。
私とエリィは顔を見合わせてうなずいたあと、言葉を発する。
「村長さん大変です! 子どもを買う人が夜に村へ来ています! 何人か売られている子を見ました!」
「そんな悪い人許せないです! 村長さんどうにかしてください!」
村長さんは驚いた表情をして私たちを見ていた。そして、無言のまま膝をつくと私たちの肩に手を置く。
「みて……しまったのか?」
「えっ……」
怖かったね。心配しないで。そんな言葉が第一声だと思っていた。
予想と返ってきた返事の違いに次の言葉を失ってしまう。
「村長……さん?」
「この村が存続するために受け入れは仕方なかったんだ」
「どういうことですか!?」
食い気味にエリィが村長さんへ詰め寄ると顔をこわばらせていた。
「村全体が貧困なことは知っているだろう。私だって受け入れたくはなかった。しかし、このままだと死者が出てしまう。そうなる前にこうするしかないんだ」
村長さんの言葉に私たちは押し黙る。確かに私たちの村はお金に困っている。でも、子どもとお金を天秤にかけるという行為が受け入れられない。
「何も知らなければ怖がらずに済んだ……」
「あなた!」
奥さんの声に村長さんが目を見開いた。疲弊した様子でふらふらと椅子へ座る。
心配した表情で奥さんは私たちを見つめた。
「……今、村長は疲れているんだよ。今の話は忘れてお外で遊んでいらっしゃい」
「……はい」
私たちは背中を押されて村長さんの家から追い出される。呆然として私は青い空を見上げた。
私とエリィはとぼとぼと小川まで歩いた。子どもの売買は村長さんが容認している。もしかして貧しい家庭には話をしているのかもしれない。
子どもを売らないかと。
殺すよりはいいと考えた親の最後の優しさなのかもしれない。
私はお母さんに言われたら受け入れられるだろうか。お母さんとシンを助けられるならそれでいいと思い始めている。
「ねぇ、エリィ。もし私が売られてしまったら、お母さんに伝えて。私は覚悟をしていた。シンもお母さんも大好きだよって……」
「ルシオラちゃん……。わかった。必ずルシオラちゃんのお母さんに伝える!」
エリィは私の手を力強く握る。彼女はまっすぐな瞳で私を見ていた。
「でもね。私たちが森で頑張って食料をとってくればきっと回避できるよ! 明日は遠くまで足を運んでみよう! たくさん木の実やキノコを採ってきて驚かせよう!」
「エリィ……」
涙をにじませながらエリィは震えていた。こらえきれなかった涙がぽろぽろと落ちている。
「ルシオラちゃんは私の友達だもん……。どこかに行っちゃうなんて嫌だよ」
嗚咽をもらしながら泣き出してしまったエリィをそっと抱きしめた。私のことで泣いてくれる友達がいる。それだけで十分だった。
「エリィ、ありがとう。私、最後まであきらめないよ。お母さんのことも信じる」
「うん。明日からまた頑張ろう、ルシオラちゃん」
まだお母さんが私を売ると決まったわけではない。それに数日前から人買いが来ているのであれば、すでに私は売られているはずだ。
お母さんは私とシンを売らないように必死に頑張っている。私もお母さん以上にがんばらないと。
いつもの朝。私は寝台の上で目覚めた。売られなくてよかったと内心ほっとしている。
今日からエリィと少し遠くまで行こうと約束している。
そのために朝から集まろうと決めていた。
私の隣ではシンはまだすやすやと眠っている。布団をかけなおして、居間へ向かった。
「お母さんおはよう」
「あら、ルシオラ。今日は早いわね」
「うん。今日はエリィと早く集まる約束をしているんだ」
「本当、二人はなかよしね。怪我だけはしないようにするのよ」
頭をなでてくれる優しいてのひら。思わずお母さんの腰に抱きついた。
「どうしたのルシオラ。今日は甘えん坊さんね」
「今日はそんな気分」
今だけお母さんを独り占め。どうしてもシンの前だと姉だから甘えてはいけないという言葉が頭をよぎり、素直に甘えることができていなかった。
「うれしいわ。ルシオラは最近ぜんぜん甘えてくれないから親離れしちゃったのかと思った」
「私が甘えることがうれしいの?」
「もちろんよ。私のかわいい子どもだもの。たまには甘えなさい。シンには内緒でね」
お母さんの言葉で私の心は見透かされていたことがわかった。急に恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「わ、私シンを起こしてくる!」
お母さんから離れて寝室へ足早に向かった。
朝食を食べ終えて私はエリィと待ち合わせの小川まで足を運ぶ。今日はどこへ行こう。
森の奥は危ないから小川沿いを歩こうかな。魚がたくさんいるところがあれば捕って帰りたい。
今日の予定のことを大岩に腰掛けながら考えていた。
しばらく小川を眺めていたが一向にエリィが現れる気配がない。寝坊してしまったのだろうか。
しかし、太陽が高くなってもエリィは現れなかった。
「エリィどうしたのかな。風邪ひいたのかな」
私はエリィの家へおもむくことにした。東のはずれにある大きな一軒家。
私たちの村では裕福な家庭だ。貧乏で薄汚い私といるとエリィの両親はあまりいい顔をしなかったので極力会わないようにしていた。
扉を叩くと、エリィのお母さんがあらわれた。私を見た瞬間、顔をしかめる。
「何か用かしら?」
「おはようございます。エリィちゃんはいますか?」
「……。エリィはお勉強をするために王都へ行ったわ。しばらく帰ってこないの」
「えっ!? でも、昨日そんなことは……」
急に決まったことなのだろうか。それでも、エリィが私に言わず出ていくはずがない。
「ごめんなさいね。朝早くに出かけたから、あなたに会いたがっていたけれど」
そのとき、彼女の後ろで兄弟たちが騒いでいる声が聞こえてきた。
「すっげぇ! 銀貨がたくさん! 姉ちゃんこんな値段で売れるんだ!」
「あの貧乏人の子をばかにするなってうるさかったから、いなくなってちょうどいいよ」
耳を疑いたくなるような言葉。まさか、エリィを売ったのか。エリィの家は食に困っているわけではない。むしろ、普通に生活をしていけるだけのお金はあったはず。
それなのに。なぜ。
「エリィを……売ったんですか?」
母親は顔を歪ませて黙っていた。私に気がついたエリィの兄が足早に玄関へ歩いてくる。
「エリィはもういねぇよ。二度とうちに近寄るなよ貧乏人」
ほとんど無意識だった。私は兄の胸倉をつかんで殴り飛ばしていた。
「この下衆野郎! エリィを、私の大切な友達を……!」
さんざん暴れまわったあと、エリィの父親にぶん殴られて家を追い出された。
大声で泣きじゃくりながら小川まで走っていく。
昂っている感情を抑えるためにばしゃばしゃと顔を乱暴に洗った。
なぜエリィは売られたのだろう。あの家族の思考が理解できない。
村で唯一の友達で、優しくていつも私のことを大切にしてくれたエリィ。
もう二度と話すことも会うこともできない。
エリィは私をたくさん助けてくれたのに私は彼女に何もしてあげられなかった。
ぽろぽろと流した涙は小川の流れに溶けていく。
「エリィ、ごめん、助けてあげられなくて……」
私はエリィに届かない謝罪を日がくれるまで続けた。
家へ戻ると腫れた顔を見たお母さんは慌てて頬を冷やしてくれた。幸いシンは遊び疲れて寝ている。
「どうしたのルシオラ!? 何があったの!?」
「転んだだけ……」
「それは転んだ怪我じゃないわよ。怒らないから言ってごらんなさい」
優しくほほ笑んでくれるお母さんを見て感情が抑えられなかった。頬に当てていた布を投げてお母さんに抱きつく。
「エリィが家族に売られた! エリィの家は裕福だったじゃない! 何で! 何でそんなにお金が欲しいの! 私にはわからない!」
嗚咽をもらしながら泣いている私を優しく抱きしめてくれた。気持ちが落ち着いたころ、お母さんは真剣な表情で私を見る。
「お金の価値や大切なことはみんなそれぞれ違うのよ。みんなルシオラと同じではないの。エリィちゃんのお家には何か事情があったかもしれない」
事情は何であれエリィを売ったあいつらを許せなかった。何もできなかった自分も許せない。
「それで、エリィちゃんのお家で暴れたのね?」
「エリィの兄がエリィのことを酷く言ったから殴った。私は父親に殴られたけど……」
お母さんは驚いていた。私はふだん粗暴なことはしない。人を殴ったのは初めてだった。
怒られるかと思っていたがお母さんは何も言わずに頭をなでてくれた。
私の気持ちを酌んでくれたようだ。
「今日はゆっくり休みましょう。さぁ、お夕飯の支度を手伝って」
「……うん」
お母さんはいつも通りに接してくれた。私も気持ちを落ち着かせるために身体を動かす。
起きてきたシンに頬のことを心配されたが、先ほどと同じく転んだと説明した。
純粋に信じてくれるシンを見ていると心が穏やかになる。クセのある毛をなでると満面の笑みをうかべた。
翌日、エリィといつも待ち合わせをしている小川へ足を運ぶ。もしかしてエリィが来てくれるのではないのか。人買いから逃げ出して私のところへ戻ってくるのではないのか。ありもしない期待を胸に抱いて小川の周りを探す。
子どもが売られる噂はずっと昔から聞いていた。強制労働をさせられる。遠い国の実験の被検体にされる。さまざまな怖い噂を大人たちが口々にしていた。
エリィがどうなってしまったのかを考えると怖くなってしまう。
そのとき、こちらへ向かってくる急いだ足音。もしかしてエリィかもしれない。
振り向くとそこには息を切らしたシンがいた。
「シン!? どうしたの?」
「姉ちゃん大変! 母ちゃんが!!」
お母さんが倒れた。シンを連れて急いで家へ戻ると、近所のおばさんと医者がお母さんを囲んでいる。
お母さんは辛そうに浅い呼吸を繰り返していた。
「お……お母さん!!」
私はお母さんの寝かされている寝台へすがりついた。今朝は元気だったのに一体なぜ。
シンは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。おばさんが一生懸命慰めている。
お母さんはこのまま死んでしまうのか。不安で仕方なかった。私は医者へ詰め寄った。
「お母さん大丈夫ですよね!?」
「栄養失調と風邪が重なって症状が重くなっている。薬を処方したいけどお金はあるかな?」
「お金は……」
居間の引き出しを漁って麻の金袋を取り出す。有り金をてのひらにのせて医者の前へ差し出した。
「これでお薬は買えますか?」
「……残念だけど足りないね。自己治癒に頼るしかなさそうだ。何か助言してもらいたいことがあれば、あとで診療所へ来なさい」
医者はそそくさと家を出て行ってしまった。あまりにもあっけなく去っていった医者に呆然としていると、おばさんが声をかけてくれた。
「ルシオラちゃん。あとで風邪に効くスープをもってきてあげるからお母さんに飲ませてね」
「あ……ありがとうございます。お母さんがこんなことになるの……初めてで」
「大丈夫。きっとお母さんはよくなるわよ」
こぼれそうになる涙を必死にこらえた。私がしっかりしなければいけない。シンとお母さんを守らないと。
「じゃあまた来るわね」
おばさんはそう言い残して去っていく。
それからシンと必死に看病をしたが、三日たってもお母さんの熱は下がらなかった。
おばさんの作ってくれたスープもなくなってしまっている。
お母さんはこのまま死んでしまうのではないのか。死んだら私たちはどうなるのか。
すべてお金さえあれば解決できることなのに。
そのとき、人買いのことが脳裏をよぎった。私はいくらで売れるのだろうか。
エリィの家族が見ていた金袋を思い出す。あふれるくらいの銀貨。もし私が同等の価値ならばシンとお母さんは数年間安定して暮らせるはずだ。
近くの寝台へ寝転んでいるシンを見やる。シンもお母さんの看病に必死でやつれてしまっていた。幼いシンに辛い思いをさせたくない。
私が、お母さんとシンを守るんだ。
そう心に決めたとき私は小川へと走った。身体や髪を洗ってなるべく清潔にする。家の引き出しから一番いい服を取り出した。
自分は価値がある子どもだと思いこませればもっとお金をくれるはず。
私は人買いがくるまでの間、身なりをきれいにしてシンとお母さんのために保存食を作った。
皆が寝静まった深夜。家の扉を開けて村の入り口へと足を進める。今夜も人買いが来ていて数名が取引をしていた。
私は男たちの前へ出ると不思議そうな顔をされる。
「お嬢ちゃんこんな夜中にどうしたのかな?」
「……私を買って欲しいの。いくらになる?」
男たちたちは顔を見合わせるとげらげら笑い始めた。私は臆することなく男たちを見つめる。
「自己申告とはな。何を企んでいるんだいお嬢ちゃん」
「前に親と共謀してうちらから金をかすめ取ろうとした奴らがいたんだよなぁ」
私が男たちをだまそうと思っているようだ。みずから身売りをする変わり者はそうそういない。
どうにか取引を成立させなければ。
「私はだましたりしない。疑うなら馬車に乗っているあいだ縄で縛ってくれてもいい」
一人の男が無精ひげをこすりながら私の前へ歩いてくる。
「お嬢ちゃん。身売りしたあと自分がどうなるかわかっているのかなぁ? 貴族のクソ野郎どもに遊ばれたあと犬の餌にされちまうかもな」
「覚悟している」
本当は男の言葉を聞いて足がすくんでしまいそうだった。しかし、自分は他の子どもと違うところを見せて、価値を高めなければ。
震えるてのひらを強くにぎりしめた。少しでもシンとお母さんにお金を渡したい。
男はまじまじと私を見たあと馬車へ引き返した。そして、手に持っているのは膨らんでいる麻袋。
「親に行けと命令されたかなんだか知らんが、それがお嬢ちゃんの売価だ。強気な子どもは変態貴族がさぞ気に入るだろうな」
初めて感じるお金の重さ。中をのぞくと大量の銀貨が入っていた。これでお母さんとシンは助かる。
「あの……家にお金を置きたいんだけど……」
「あぁ……俺がついていく。逃げられたら困るからな」
作業をしていた小太りの男が私のそばへ来た。男を案内して家までたどり着く。
「最後に家族へあいさつしていい?」
「かまわないが、遅かったらお嬢ちゃんの家を荒らすからな」
「わかった。すぐに済ませる」
急いで家の中に入り、金袋を引き出しへとしまう。そしてシンが寝ている寝台へ向かった。
隣で寝ているお母さんは相変わらず息苦しそうだ。それを横目に気持ちよさそうに寝ているシンの肩をゆすって起こす。
「シン……起きて」
「ん……何? 姉ちゃん……」
「シン。よく聞いて。明日、居間の引き出しを開けて、中にあるものをお医者さんにもっていって」
「あぁ……うん」
寝ぼけているのか返事があいまいだ。それでも私は言葉を続けた。
「シン。お母さんを守ってね。頼むよ」
「何言ってんの……。母ちゃんも姉ちゃんも……俺が守るよ」
幼いけど一人前の男の子なんだと感心した。そう思ってくれているだけで十分だ。
「シン……。ありがとう」
私はシンの手を握った。大切な弟の最後のぬくもりを感じる。
お母さん黙ってこんなことをしてごめんなさい。シン、お母さんを必ず守るんだよ。
心の中で二人に言葉を送って私は家をあとにした。
さようなら、愛しい私の家族。
手足を拘束されて荷台へ押し込まれる。中には成人の女性一人と私くらいの男女の子どもが数名乗っていた。
みんな親に売られたのだろうか。俯いており誰も話そうとしない。
「今夜はこれで終わりみたいだな。出発するぞ」
男が一人荷台へ乗り込んだ。私たちが逃げ出さないように見張るためだろう。
馬車がゆっくり速度を上げる。私が生まれ育った村の灯りが遠のいていくのを眺めていた。
本当にこれでよかったのだろうか。
「おとうさん……おかあさん……」
隣にいた女の子がすすり泣く。慰めたかったが、声を出すと男に何をされるかわからない。
私はそっと女の子の手を握った。
自分は進んで身売りに出たが、この女の子は違う。親に売られてしまった。
どれだけ絶望したか。悲しいか。苦しいか。
もし私がお母さんに売られてしまったときは、きっと女の子のように泣きじゃくっていたと思う。
ぽつぽつとこぼれた雫が私の手の甲を濡らしていった。
どのくらいの時間がたったのだろう。馬車は荒れた道を走っており、激しい揺れで一睡もできなかった。
荷台は四方を布で覆われているので外の様子はよくわからない。かろうじで差し込む明かりで朝になっていることがわかった。
そのとき、布に当たる激しい雨粒。雨の上がった次の日はエリィとよく水たまりで遊んでいた。だから雨の降っている日はわくわくしていた。しかし、今は楽しい思い出をよみがえらせるだけで鬱陶しく思う。
馬が止まり、御者の男が荷台へ顔を出した。
「兄貴、山道じゃなくて平地に降りましょう」
「平地だと兵士に見つかりでもしたら面倒だ。もう少し走れば洞窟がある。そこまで行け」
「あぁ、そうっすね。あそこなら馬車も入る」
話し終えた男は馬をまた走らせる。私たちはどこへ連れて行かれるのだろう。自国なのか隣国なのか、それよりもっと遠い国なのか。
隣にいる女の子を見やると、泣き疲れて眠っていた。私も少し眠りたい。そんなことを思いながら揺れに身を任せる。
うつらうつらして、意識が遠のいていく。次に目が覚めたときはどこにいるのか。
そんなことを考えていると、男の叫び声とともに荷台がぐらりと傾いた。
大小の岩が荷台を貫く。身体は空中へ投げ出され、何度も衝撃を受けた。人の悲鳴と馬のいななきが混ざり合って消えていく。
「……つめたい」
気がついたとき、私は地面に横たわっていた。容赦ない豪雨が身を突き刺す。
全身を何度も打ちつけたので身体中が痛い。起き上がると目の前の光景に短い悲鳴がもれた。
大岩に潰された馬と荷台。血と泥水が混じり合って川のように流れている。
思わずあとずさり、目を背けた。
落石にあってみんな死んでしまった。なぜか私は助かっている。
荒い呼吸を繰り返して、なんとか落ち着こうとした。
そのとき、私の足の自由を奪っていた縄がほどけていることに気がつく。
衝撃で緩んだようだ。足は痛いが動く。
この状況では生きている人はいないだろう。私はまだ死にたくない。生への執着心が足を動かした。
そのとき、男の唸り声が聞こえる。
「くっそ……商品が……。誰か一人でも生きているやつは……」
まだ男が一人生きていた。捕まりたくない。
私は弾かれるように雨の中を走り出した。
「……誰か生きているな!! 逃がさねぇぞ!!」
私のうしろからばしゃばしゃと足音が聞こえてくる。
嫌だ、嫌だ。死の覚悟はできていたはずなのに。希望が見えると覚悟が揺らいだ。
生きたい。お母さんに会いたい。シンに会いたい。
心のなかで何度も叫んだ。
全身に打ちつける雨は刺すような冷たさなのに、血液は沸騰したように熱い。
死に物狂いで肺と足を動かした。止まるな。足を動かせ。呼吸をしろ。
闇雲に走っていると舗装された道が見えてきた。左右どちからに走れば街や村にたどり着く。
うしろを振り返って男を確認しようとしたとき、木の根に足を取られた。
派手に転倒してその勢いで道に転がり出す。
「危ないっ!」
声がしたほうを向くと二頭の馬が前足を上げていた。とっさに縛られている手で頭を守る。
馬の蹄は勢いよく顔の横へ降りた。間一髪で踏みつぶされることはまぬがれた。
身体はさきほどの恐怖でがたがた震えて立ち上がることができない。
「どうしたのですか!?」
「何かあったのか?」
「すみません。子どもが飛び出して来まして……。ご夫妻お怪我はありませんか?」
「えぇ、私たちは……。どうしてこんな早朝に子どもが……」
歩いてくる複数の足音が聞こえる。睡眠不足と体力を使い切って、意識がもうろうとし始めた。
「……助けて……ください」
必死に絞り出した言葉。届いたのだろうか。
私の意識は暗闇に沈んでいった。
闇の中をひたすら走る。どこへ行けばいいのか、この暗闇からいつ抜けられるのか。うしろから足音もなく気配だけが追ってきている。怖い、怖い。誰か、私を導いて。
私の思いに呼応して一筋の光が現れた。そこから伸びている女性の手。
私はすがるようにその手を握った。
あたたかい。ぼんやりとしている視界が木の天井を映す。どこからかわからないが波音が聞こえてくる。ここはどこなのだろう。
顔を横に向けると、ひとりの女性の姿。美しい顔立ちで着ている服が一般人とは思えないほどきれいで清楚な服だ。お母さんと同じ桃色の艶のある長髪が窓から入ってくる風に揺れた。
女性は私に気がつくとそばまで駆け寄ってくる。
「目が覚めたのね。大丈夫?」
「あの……ここは」
「船の中よ。突然目の前で倒れたから保護してしまったのだけれど……」
落石事故の記憶がよみがえる。勝手にがたがたと全身が震え出した。人買いの男に追われる恐怖を鮮明に覚えている。
「だ……大丈夫? ここは安全だから落ち着いて。ね?」
右手を両手で優しく包んでくれた。女性のぬくもりが温かく懐かしく涙が出そうになる。
「お名前……言えるかしら?」
「ルシオラ……です」
「可愛らしい名前ね。私はマナよ。ごめんなさい私たちの都合なのだけれど、うちに一旦連れて帰ってもいいかしら?」
「はい……。あの……助けてくれてありがとうございます」
マナさんは優しく頭をなでてくれた。今、人買いの脅威から脱出できたことを実感して涙がこぼれる。
「こわかった……いたかった……くるしかった」
「……もう大丈夫よ。ルシオラ」
彼女のぬくもりがお母さんと重なる。泣き疲れた私は再び眠りの国へ誘われた。
次に起きたときは食べ物のいい匂いに包まれていた。
少し離れた机の上にはまだ湯気を登らせているスープとふんわりとした白いパン。それを見たとたんにお腹の虫が大合唱をはじめる。身体は正直だ。
起き上がろうとしたが全身がずきずき痛み、上手く動かせない。
毛布をめくるとかわいらしい桃色の服に着替えさせられており、肌の見えるところのほとんどが包帯で巻かれていた。
そのとき、マナさんと一人の男性が一緒に入室する。危害を加える男性ではないとはわかっているが、身体が強張った。
「よく眠れたかい? ルシオラ」
「あ……はい……」
男性は優しくほほ笑むと寝台の横に跪いた。
「私はデイレー。マナの夫だ。あと二時間ほどで王都につく。朝ごはんは食べられるかな?」
「お腹すきました」
私の言葉を聞いた二人はくすくすと笑った。マナさんがスープとパンを手渡してくれたので胃の中へかき込む。
食べたことのない味付けのスープ。野菜と調味料の味が口の中ではじけている。パンはやわらかく何個でも食べられそうだ。
「食欲があってよかったわ。お家についたらルシオラのこと教えてくれる?」
「はい。わかりました」
二人は下船の準備をするために退室する。優しい夫婦に保護してもらえて安堵した。
しかし、私はどこへ連れていかれるのだろう。王都と言っていたが自国ではないことは確かだ。どこか遠い遠い国なのかもしれない。
船が到着をしたようで外が騒がしい。寝台から動けない私をデイレーさんが抱き上げてくれた。
個室から出て甲板へと移動する。そこには見たことのない人の数、きれいな煉瓦造りの家々、白いお城。
景色がきらきらと輝いていた。
「ようこそ、私たちの住んでいるルナーエ国へ」
「ルナーエ国? ミステイル王国から遠い国ですか?」
「お隣の国だよ。さぁ行こうか」
船を降りて街の中を進んでいく。そして、一軒の屋敷へと到着する。
デイレーさんとマナさんはとても裕福な家庭のようだ。
大きな扉を開けると正装姿のおじいさんが歩いてくる。
「旦那様。奥様。おかえりなさいませ」
「留守中何かあったか?」
「お手紙を数枚預かっております」
「あとで確認する」
おじいさんはちらりと私のほうを見たが何も言わなかった。
そのまま大きな部屋へ入り椅子へおろされると、マナさんが飲み物をもってきてくれた。
「林檎の飲み物だけど飲める?」
「いただきます」
初めて飲むりんごをまるかじりしているような不思議な飲み物。そのまま勢いよく飲み干してしまった。
「あら、おかわりいるかしら?」
「あっ……はい」
なみなみと注がれていく淡い黄色の液体。王都にはこんなものもあるのかと驚いた。
マナさんが席へつくと、デイレーさんが口を開く。
「ルシオラ。つらいかもしれないけど君のことを聞いてもいいかな?」
「大丈夫です」
私がミステイル王国のとある村に住んでいたこと。お母さんと弟がいたこと。貧しかったこと。身売りに自ら出たこと。
そして、落石事故に遭い、人買いから逃げたこと。
「そうか。つらかったな」
「ルシオラは家族思いね」
二人の優しい言葉に思わず涙がこぼれた。
「家に帰してあげたいが、仕事の都合で一か月先になってしまうけどいいかな?」
「それまで私たちの家で休んでいて」
家に帰れる。うれしさがこみ上げたがすぐに考え直した。
私が売られたことは何人かに見られている。きっと村長さんも知っているはず。
その私が帰ってくれば人買いの仲間がお母さんやシンに何かするかもしれない。三人とも村から追い出されるかもしれない。
私が帰ればお母さんとシンが危険に晒される可能性がある。
「……帰れない。帰りたくても……帰れない」
私はやっぱり家族の元へは帰れない。二度とお母さんとシンに会うことはない。
これから私はどうやって生きていけばいいのだろうか。
不安だけが胸の中に積もっていった。
自分ではどうすればいいのかわからない。デイレーさんの仕事の区切りがつく一か月後にミステイル王国に連れていってくれるそうだ。
それまではデイレーさんとマナさんにお世話になることになった。
そのなかでわかったことがある。デイレーさんとマナさんはノックス家という貴族であり、裏方から国を支えていること。まさか、あの早朝に貴族の人に出会うとは思いもよらなかった。
私には大きすぎる個室を与えられたが、不安で眠れない日々が続く。そんなとき、マナさんが部屋に来て私が眠るまで手を握ってくれていた。
手のぬくもりや髪をなでる仕草がお母さんと重なる。恋しいけど私は一人で生きていかなくてはいけない。
自分に何度も言い聞かせていた。
二週間がたったころ。痣まみれの身体はよくなり、私はすっかりデイレーさんとマナさんに懐いていた。
買い物もマナさんと出かけることが多くなっている。そんなとき、何度もかけられている言葉があった。
「あら、お母さんのお買い物のお手伝い? えらいわね」
本当の親子ではないので毎回口ごもってしまう。マナさんは話を合わせて私を娘として話をしていた。
その表情がとても穏やかでうれしそう。
そういえばマナさんとデイレーさんの子どもを見かけたことがない。
買い物を済ませて大通りを歩いているときにマナさんへ問いかける。
「あの、マナさん。マナさんとデイレーさんの子どもって別の部屋とかにいるの? 私と会わないほうがやっぱりいいのかな?」
マナさんは表情を曇らせた。聞いてはいけないことだと察する。
「んー。ルシオラにはちょっと早い話かもしれないけど……。私は子どもができないのよ。だからルシオラを見ていると子どもがいたらこんな感じなのかなって思うわ」
「あ……その……ごめんなさい……」
悲しそうに語っているマナさんを見て質問をしたことを後悔した。
「いいのよ。ルシオラが知りたかったことだもの。さぁ家に帰って林檎のパイを作りましょう」
明るくふるまっているマナさん。私も前向きに生きていかないと。マナさんの姿を見て私も頑張ろうと思った。
期日までの間デイレーさんとマナさんは私を自分の子どものように優しく接してくれた。二人と離れてしまうことが寂しくなってしまう。しかし、いつまでもお世話になっているわけにはいかない。
ミステイル王国に行けばきっと孤児院へ入れられるはず。大人になってお金を稼いだらお母さんとシンに会いに行こう。
端的に自分の人生設計を考えていた。
そして、私をミステイル王国に送ってくれる前夜。いつものように食事を済ませて食後の団らんを楽しんでいた。
私は今まで保護してくれた感謝の気持ちをこめて二人の前で深々と頭を下げる。
「デイレーさん、マナさん。いままでありがとうございました。お金を稼げるようになったらお返しします」
「そんなにかしこまらなくていいんだよルシオラ。こちらこそ楽しい時間をありがとう」
「本当、あなたとの時間はかけがえのないものだったわ」
優しくほほ笑んでくれる二人に涙があふれそうになる。あのとき、二人に会わなければ私は死んでいたかもしれない。デイレーさんとマナさんは命の恩人だ。
「前も話したけど。ミステイル王国の王都の孤児院に送ることになるけどいいかな?」
「はい。あとは気にしないでください。大丈夫です」
二人は顔を見合わせたあと、真剣な表情になった。そして、静かにデイレーさんが話し始める。
「……ルシオラに提案があるんだ。君が嫌でなければ私たちの養子にならないか?」
「……えっ!?」
思いもしない言葉に思考が停止する。私を養子に。一体なぜ。
「孤児院に行って里親に出されるかもしれないからね。それなら見知らぬ人よりも私たちが養子にしようかと思ったの」
私はただの田舎娘。貴族としての立ち振る舞いなどできない。こんな薄汚い子どもは二人には似合わないと思った。
そのとき、マナさんが膝を折って私の肩に手をおく。
「というのは建て前……。ルシオラ。あなたと会った日のことは覚えている?」
私は静かに頷いた。
「あの日、ミステイル王国のお医者さんのところに行っていたの。子どもが望めないとわかった日ですごく落ち込んでいた。そんなときにあなたと出会ったのはアイテイル様のお導きだと思ったわ」
「アイテイル様……?」
マナさんは壁にかけてある一枚の絵画を教えてくれた。立派な額縁に入れられて飾られている銀髪の女性。以前から誰だろうと気になっていた。
「ルナーエ国を建国した初代女王で女神様よ。いい縁を結んでくれる女神様と言われているの。だからあなたとの縁はアイテイル様がくださったものだと思うわ」
次いでデイレーさんが跪いて穏やかな表情を向けられる。
「書面上は娘になるが、身構えないでほしい。君の本当の両親がいることは承知しているし、君を取り上げるつもりもない。もちろん私たちが貴族であるゆえに所作を勉強しなければならないこともある」
「どう……かしら? もちろんルシオラの意見を一番に尊重するわ。無理強いはしない」
二人のことは大好きだし、誘いはうれしい。でも私がただの運だけで貴族の家に転がりこんでいいのだろうか。
デイレーさんの言っていた里親に出されるというのも嫌だ。それならデイレーさんとマナさんの元にいたい。
私の中でいろいろな思考がぶつかり合い弾け飛んでいる。
どのみちお金を稼げるようになるまではお母さんとシンには会えない。それなら私を救ってくれた二人に恩を返すことがいいのではないだろうか。
頭の中にあったいろいろな意見がひとつの選択肢をつかんだ。
「あの……私でよければお願いします」
返事を聞いた二人は花が咲いたような笑顔になった。こんな私を受け入れてよろこんでくれるとは思わず泣きそうになる。
「ルシオラ! ありがとう。明日からも一緒ね」
「久しぶりの休みだから三人でどこかへ行こうか」
マナさんはきれいな涙を流していた。私も溜めていた涙がぽろぽろとこぼれる。
こうして私はもう一つの家族を手にした。
あの日から二年の月日が流れた。貴族にふさわしい所作や言葉使いをマナさんから叩きこまれた。厳しいこともあったが、マナさんはできると盛大に褒めてくれる。デイレーさんも身につけた所作を見て感心してくれる。
それがうれしくて二人のために頑張ろうと思っていた。
勉強も家庭教師から習い、少しでも身につけようと努力する。
しかし、まだ一つだけできていないことがあった。それは二人のことを父、母と呼ぶこと。それだけは未だにできない。私は本当の娘ではないことの境界線を自分で引いていた。
そうでないと二人に甘えてしまいそうな気がする。
今日はいつもよりきらびやかな服を着させられる。デイレーさんが、女王陛下と謁見するらしい。私が直接会うわけではないが、城に入るのでそれなりの服を着ざるを得ない。
「ルシオラ。似合っているわよ」
「なんだか緊張してきた」
「大丈夫よ。万が一陛下に会ったときはいつも通りにあいさつをすればいいわ。それに陛下は厳しいお方ではないわよ」
一度、年始に遠くから女王陛下を見たことがあった。飾られている女神アイテイル様にとてもよく似ていて、アイテイル様の血筋だということを物語っている。
そのとき、部屋の扉を叩く音が響いた。
「二人とも支度はできたか? 陛下を待たせてはいけないからそろそろ行こう」
「今行くわ」
デイレーさんとマナさんの間に入り、大通りを抜けて城の中へ入る。
いつも堅く閉ざしてある城門の先にある白を基調とした立派な城。足を踏み入れると城下町とは異なる雰囲気に圧倒された。
私は二人と別れて待機用の部屋へ案内をされる。そこには侍女ともう一人騎士の服に身を包んだ女性がいた。
侍女は飲み物を机に置くと部屋から退室して女性騎士と二人きりになる。
椅子に座って彼女に視線を合わせるとにこりとほほ笑んだ。
「ノックス家のお嬢様ですね。護衛も兼ねて夫妻の謁見が終わるまでご同室します」
「よろしくお願いいたします」
軽く会釈をすると彼女は入り口の前に立った。
ミステイル王国で、女性が兵士になるなど聞いたことがない。凛とした彼女の立ち姿に憧れを抱いている。
彼女だけ特別なのだろうか。
「お伺いしてもよろしいですか?」
「えぇ、私に答えられることであれば」
「女性の騎士はたくさんいるのですか?」
「そうですね……。全体の四割が女性騎士だと思いますよ。正確に人数は把握していませんが」
四割と聞いて驚いた。ミステイル王国との違いに困惑する。隣国だけどこうに違うのか。
「どうして騎士になったのですか? 危険なことも多いですよね?」
危険な野獣や魔獣の討伐、南に位置するオリヴェート国との小競り合い。少なからず命をかけている。怖くはないのだろうか。
「私は幼いころ、とある女性騎士に命を救われました。その恩に報いるため騎士になったのです。今度は私が誰かを助け、大切な人を守り、女王陛下を守護する剣になりたいと思いました」
彼女の瞳は強さと凛々しさをたずさえていた。私も守られているだけじゃなくて誰かを守る存在になりたい。騎士という職業に憧れを抱いた。
「騎士になるにはどのような手順があるのですか?」
「そうですね。十二歳から十五歳まで少年騎士の選抜試験があります。少年騎士は星永騎士や騎士団長様直々の英才教育ですのでほとんどの少年少女が将来、将校か星永騎士になりますよ。一般募集は十八歳過ぎてからですかね。こちらのほうが簡単な試験で入れますが、一年間の訓練があるので正式な騎士になるのは十九歳からですね」
少年騎士の試験。あと二年後に受けられる。しかし、剣術の心得などないし、剣を握ったこともない。
そんな私が試験に臨んでも落選することは火を見るよりも明らかだ。
「あの……王都で剣術を習うところはありますか?」
「まさかお嬢様は騎士になるおつもりで?」
うなずくと女性騎士は眉をさげた。貴族のお嬢様に教えていいものかと悩んでいるのだろう。
「お嬢様の将来は引く手あまたですよ。どうしてもですか?」
「どうしてもです!」
私の強い言葉に彼女は少し考えたあと、口を開いた。
「一校だけ少年騎士になる前の養成校があります。そちらで習うことができますよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「きちんとお父様とお母様の了承を得てくださいね。お嬢様は……未来の後輩になるかもしれませんね」
穏やか表情でほほ笑む女性騎士。私の憧れを否定せずに騎士になる道を教えてくれてありがたく思う。
そのとき、扉の向こうから小さな話し声が聞こえてきた。
謁見が終わって二人が迎えにきてくれたようだ。
扉が開かれるとそこにはデイレーさんとマナさんそして女王陛下と騎士団長様がいた。
扉の前にいた女性騎士は深々と頭を下げている。
女王陛下の襲来で頭が真っ白になった。
「ルシオラ。女王陛下と騎士団長様がおいでになってくださった。ごあいさつなさい」
デイレーさんの言葉に私は慌てて椅子から立ち上がり、スカートの裾を少しつまんだ。
「お初目お目にかかります。ルシオラ・ノックスです」
「立派なあいさつですね。わざわざ城へ足を運んでくれてありがとう」
女王陛下の美しさと威厳と優しさが混じった感じたことのない雰囲気に圧倒されてしまう。そして隣に佇んでいる騎士団長様。女王陛下の夫でありルナーエ国いちの剣術使いと聞いていた。
「いえ、女王陛下。こちらの都合で連れてまいりましたので。娘とお会いしてくださってありがとうございます」
「まだ会わせられませんが、我が王女と王子があなたくらいの年齢になったとき、お話し相手になってくれるとよろこびます」
「そ……そのような言葉を頂けて光栄です」
私は深々と頭を下げた。そういえば双子の王女と王子がいたことを思いだした。さぞかし愛らしい王女で凛々しい王子なのだろう。
「ノックス卿。いつも有益な報告書を感謝いたしております。これからもよろしくお願いしますね」
「今の仕事が落ち着いたら、いい酒を用意しておきますよ」
「騎士団長様の選んだお酒はいつも絶品で飲みすぎてしまいますよ」
楽しく談笑しているデイレーさんとマナさん。さきほどの女性騎士の言葉を思い出す。
“恩に報いるために騎士になった”
私も二人に頼ってばかりではなく恩に報いたい。騎士になることが正しいことかわからないし、騎士になれるのかもわからない。
それでも二人を守りたい気持ちが強かった。
その日の夜、さっそく騎士養成学校へ入りたいことを伝える。
デイレーさんとマナさんに反対されるのならあきらめるしかない。夕飯が終わり紅茶をいただいている最中に話をもちかけてみた。
「ルシオラ。今日はきちんとあいさつできて偉いな。貴族としての振る舞いは申し分ない」
「えぇ、今日はよく頑張ったわ。女王陛下とも会えてよかったわね」
「あの……二人に話したいことが……」
「どうした? 何かあったのか?」
デイレーさんが不安そうな顔を私に向けた。
「私、将来騎士になりたい。だから少年騎士の養成学校に通いたいです」
「えっ!?」
二人は驚いた表情を見せた。今まで貴族の令嬢として育てていたのだから当たり前の反応だ。
「る……ルシオラ、本気なの? 危ないこともあるのよ?」
「わかっている。それでも私はなりたい」
「……理由があるんだろう? 聞かせてくれるか?」
私は小さくうなずいてから、二人を見据え、姿勢を正す。
「私、この二年間お世話になってばかりだった。騎士になって、拾ってくれた恩に報いたい」
デイレーさんは少しの沈黙のあと、言葉を紡いだ。
「……そうか。ルシオラが決めたことなら最後までやってみなさい」
「あなた。いいのですか?」
「君は本当に心配性だな」
「あたりまえです! 私はルシオラの母親……あっ!」
マナさんは慌てて口を手で押さえた。そして小さく「ごめんなさい」と呟く。
「今までわがままを言わずに貴族の所作や勉強をしてくれていた。今度は私たちがルシオラのしたいことを応援してもいいんじゃないか?」
「……そうね。騎士になりたいなんて驚いたけど……応援するわ」
「ありがとう……デイレーさん、マナさん」
それから入学手続きを済ませ、騎士の養成学校へ通った。初めて持った剣は重く、騎士としての責任の重みなのだと思った。
初めは「貴族の娘がなぜ」といぶかしがられたり、教師がひいきしたりするのではと周りで言われていた。
そんな陰口をすべて実力でねじ伏せてやった。いつの間にか学校で上位に食い込むほどの成績で、私にとって騎士は天職なのだと思う。
少年騎士への試験も無事合格すると。デイレーさんとマナさんはよろこんでくれた。
しかし、これから親元を離れて騎士の兵舎でほとんどの時間を過ごさなくてはいけない。うれしいと同時に寂しさも覚えた。
そして、騎士の兵舎へ移る朝。荷物をまとめて玄関へ向かう。いつもデイレーさんをマナさんと一緒に見送っていたが今日は二人に見送られる。
「ルシオラ。思う存分、勉強してくるんだぞ」
「うん。今度は星永騎士になることが目標かな」
「きっとなれるわよ。そう信じているわ」
二人の慈愛の眼差しが暖かい。私を本当の子どもとして育ててくれたのだと感じた。
「星永騎士になったら必ず報告するよ。いってくるね……父さん、母さん」
「る……ルシオラ! いま……母さん……って……」
涙をこぼしている母さんに抱き寄せられる。どうしても気恥ずかしくて言い出せなかった言葉。
今言う自分はずるいなと思う。
父さんを見やると視線を逸らして目に手をあてていた。
「お休みの日は帰ってきてね。あなたの好きな林檎のパイを作って待っているわ」
「うん。そうするよ」
まだ泣いている母さんの背中をさすっていると、肩に父さんの手がおかれた。
「辛いことがあればいつでも相談にのるからな」
「わかった。そのときは頼るね」
「ほら、マナ。いつまでもルシオラに抱きついていたら出て行けないだろう」
母さんは名残惜しそうに離れていく。
いつかシンとお母さんに紹介したい。私を育ててくれた父さんと母さんを。
床に置いてしまった荷物を再び持って、玄関の扉を開ける。
「改めて……いってきます!」
まぶしい朝の太陽。小鳥のさえずり。優しい風。すべてが新しい出立を祝福してくれているように見えた。
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