彼女は、不摂生だった 2

「マジかよ、そこで諦めんじゃねぇよ……!」


 住宅街の一角にある小さな公園のベンチで、亨子は漫画本を握り締めた。


 仕事帰りに虎吉の家へ寄った亨子は、彼の妹が厳選したという漫画を借り受けた。『これなら、本が苦手な先輩でも読めるッス』とは虎吉の言葉だ。馬鹿にされた気がするも、資料がないよりはいい。


 家に辿り着くまで待ちきれなかった亨子は、早速、本の頁を開いてみた。それは普段、漫画すら読まない亨子にも読みやすく、気づけば夢中になっていた。


 人間と吸血鬼が恋をする物語だった。伝えられそうで、伝えられない。くっつきそうで、くっつかない。どうやったら、そんなもの思いつくのかさっぱりであったが、亨子の読む手は止まらなかった。


 結局、借りてきたものを最後まで読んで、亨子は本を閉じた。それが現行の最新巻だった。


「あいつら、どうなるんだ……」


 本を紙袋へしまいながら、亨子は想像を巡らせる。


 種族の違う二人には障害が多い。恋人になるのだろうか。別離の道を行くのだろうか。まだ、行く末が分からない展開である。


 それでも、吸血鬼について知ったことはあった。


 彼らは人を愛したとき、血を欲するあまり吸い尽くし殺してしまう。だから、人を愛せない。愛する者を殺したくないからだ。


 人も、彼らを愛せない。罪を背負わせたくないからだ。


 オズレノも、そうなのだろうか。だとしたら、人は誰も、彼を愛してやれないのだろうか。


「……ま、あいつには家族いるっぽいし、独りって訳じゃないか」


 亨子は、胸中を満たそうとしていた哀愁を振り払った。彼はきっと、独りじゃない。


「亨子さーーーん!」


 ふと、遠くから声がした。自分を呼ぶそれに、亨子は立ち上がって手を振り応える。


 定番の衣装を身に付けたオズレノが走ってきた。そんな格好で怪しまれないのか訊いたが、どうやら関係のない他人には普通の服に見えるらしい。見え方は、自身でコーディネート可能という万能品だ。


「亨子さん! よかった!」


 近くへ寄るなり、オズレノが抱きついてきた。亨子の顔が、彼の胸へすっぽりと収まる。


「ちょ、オズ、なんで」


「だって、亨子さん遅いからぁ」


 オズレノは情けない声を出した。彼は泣いてしまいそうだった。察するに、帰りが遅いのを心配して探してくれたのだろう。


 彼の優しさに心がほわっとして、亨子は微笑む。自分も、今は独りでなかった。


「ごめん、悪かった。おまえが待っていてくれたんだっけな」


 マントの内側にある泣きそうな背中を軽く叩いて、さすってやる。


 オズレノは鼻水をすすって、腕の力を緩め顔を上げた。彼は抱き締めたままだったが、不安で甘えたいのだろうと亨子は思い、そのままで向き合う。


「なに、してたんですか?」


「ん、ちょっと調べ物を、な。吸血鬼のこと、あんまり知らないからさ」


「え、ボクのためですか? 遅くまで?」


 オズレノは目を丸くする。


 亨子は首を傾げた。


「当たり前だろ。協力するって決めたんだ」


 当然のことだった。彼の驚く理由が分からない。


 オズレノは黙り込んで、亨子をじっと見つめてきた。至近距離で見合うと、彼の端麗な造形をはっきりと認識してしまい、どきりとする。


「亨子さんって実は、美人ですよね」


 不意にオズレノが呟いた。彼は至って真顔である。


「な、なんだ、急に」


「ボク、今、ものすごく血が欲しいです」


「は、はぁ!?」


 オズレノが首へ顔を寄せた。亨子は慌てて、それを押し留める。


 綺麗な顔立ちが、むぅ、と不満そうに眉根を寄せた。


「前に、亨子さん言ったじゃないですか。『私の血、やるから』って」


「おまえ、断ったじゃねぇか! 好みとか、なんとか言って!」


「それは、もう忘れてください。亨子さんのがいい。亨子さんじゃないと嫌です」


 オズレノが熱っぽく言うのに、亨子は頬を赤らめて呻った。


 あのときは面倒事を解決したい一心だった。いや、今も解決したいのだが、なぜか気持ちの整理が追いつかない。


「亨子さん」


 くりりとした可愛さのある茶色の瞳が、真っ直ぐに見つめてきた。真摯しんしなそれに心が揺り動かされる。肩を落として帰宅する姿を思い出す。


「……わかった」


 亨子は観念した。協力すると言った責任を果たすなら、今だ。


 オズレノが嬉しそうにして目を細めるのに、心音が大きくなる。彼の長い指が作業着のファスナーを降ろしていき、はだけさせ、亨子の首元が露わになる。


「いただきます」


 オズレノが肌へ口づけた。舌の這う感触があって、身体からだの奥が騒ぐのに思わず声が漏れてしまった。気恥ずかしさがやって来て、亨子はぐっと唇を引き結ぶ。マントの内側で、自分より広い背中の服を掴んだ。


 ちくりと針が刺さったような痛みが走る。しかし、彼はすぐに顔を上げた。


「不味い」


「は?」


「血が、とても不味いんです」


 そう呟いて、オズレノは整った顔立ちを不細工に歪めた。

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