第12話 背中を押してくれるもの

 翌日、多希子は皐月の家に出向いた。

 あらいらっしゃい、と彼女の母親はにこやかな笑顔で迎えてくれた。

 皐月の家はリベラルな教師一家だった。母親は元教師で、結婚して退職したのだという。

 家は多希子の家とは比べものにならないが、それでも真ん中に廊下があり、玄関横に「応接間」の洋室がある、ある程度の余裕がある家庭の和洋折衷型の家と言えた。

 そしてその家の中には、小さいながらも皐月の居場所、というものも確保されている。彼女の上に兄が居るという状況なのに、彼女の居場所もあるあたり、進歩的な家と言えよう。


「ふうん」


 差し向かいで座った皐月は、前日の話をしばらく半目開きで聞いていたが、終わるとぱっと目を開けた。


「で?」

「で、って?」

「いや、あんたがわたしの所に来る、ということは、何を期待しているのかな、とね」

「冷静ね。そういうとこ嫌ぁよ」

「だってなあ。そのハナさんは最初はともかく、あんたのこと気に入ってしまったから、その後何だかんだ言って、『巻き上げ』もせずにちょくちょく会ってたんだろ? あんたおごったりしたかい?」


 多希子は首を横に振る。


「だろ? じゃあ別に、いいじゃないか。彼女の立場だったらやりえる話だろ?」

「それはそうだけど」

「じゃあ何に対して落ち込んでるんだよ。その夢、の話?」


 多希子は黙ってうなづいた。


「確かにあんたの家の場合、親父さんが社長である以上、なかなか難しいだろうが。そうだな。でも、まだあんたはぶつかってもいないからな」

「あなたは強いから。それにあなたのお家の場合、あなたが高等師範に行くこと、応援してくれてるじゃない。家とは事情が違うわ」

「それはたまたまの結果さ。まあ確かに、そういう家に育ったから、そういう夢を見た、というのは否定しないがね。それはあんたと同じだよ」


 ぐっと詰まる。皐月は腕組みをして、首を軽く傾げた。


「わたしは確かに運が良かったさ。だからその運を最大限に利用しようと思う。それだけのことさ。流されるのは嫌いだからね」

「流される」

「進むも意志、逆らうも意志さ。実のところ、ちょっとだけ、母上の抵抗という奴があったのだよね」

「ええっ?」


 皐月は頭をかく。あのひとが、と先ほど紅茶とカステラを運んできた彼女の母親の姿が心をよぎる。


「あのひとは教師時代、結構色んな目にあったみたいだからね。だからわたしにはその苦労させたくない、と思ったんじゃないかなあ」


 なるほど、と多希子は思う。


「だけどあのひとの時代とは少しは違っているはずだし。それに、わたしはあのひとじゃあない。同じことがあのひとには苦労になっても、わたしにもなるという保証はないし、その逆も同じだ。だったらやってみないことには分からないだろう?」


 確かに、と多希子はうなづいた。


「時には抵抗の意志がある、ってことを見せなくてはいけない時もあるんだよ」


 軽い口調だったが、友人の目は真剣だった。多希子はそれを見て、何やら逆に、苛立つものを感じる。


「そうよ私、それはすごくよく分かっているのよ! あのひともそうなのよね! みんな強いのよ! でも私そんな強くないわ! だから悔しいんじゃないの!」


 叫ぶ様に言うと、思わずぽろり、と涙が出てきた。

 感情が激していたから、涙腺が緩んでしまったらしい。はいはい、と皐月は多希子に近づくと、その肩を抱く。多希子はわっと友人の胸に泣き崩れた。


「なあ多希子、あんたは何だかんだ言っても、強いよ」


 頭を撫でながら、皐月は言う。喉に引きつりを覚えながら、多希子はそれに答える。


「嘘ばっかり」

「大丈夫。好きなようにしてみなよ。ただし本当に好きなことをね」


 背中を押すくらいのことは、自分にもできるんだ、と。



「この間、少し、私、安心しました」

「安心?」

「だって、あなたがあんな風にお友達とおしゃべりなさるなんて思わなかったんですもの」


 ははは、と彼は笑う。

 宇田川と会うのは二週間ぶりだった。夏休暇ももうじき終わろうとしている。日比谷公園の木陰で待ち合わせをしていたら、頬を軽く秋風がよぎった。

 そのまま二人は、何処に行くともなく、話しながら歩いていた。

 ハナとはずっと会っていない。

 毎日が変わり映えしなく、ようやく彼が連絡をしてきた時には、ぱっと視界が明るくなったようだった。


「それはまあ、学生時代の友人と、あなたと話す時の口調が同じではいけないでしょう」

「何故ですの? 私が社長の娘だから?」

「まあそれもあります」


 正直なひとだ、と多希子は思う。


「でもそれと同時に、あなたが女性だから、ということもある。それもできれば、好意を持ってもらいたい対象として」

「それは、私のことを好ましく思っている、ということですか?」

「はい」

「どうして?」


 さて、と彼は一度首を傾げる。


「まあ率直に言ってしまえば、当初は『いい縁談』ですね」

「本当に正直なひと」

「だけど、どうしても合わないひとだったら、すっぱり断ろうとは思っていました。何せ僕はああいう気性で。友達には結構ずけずけとものを言ってしまって、時々恨まれることもあったし」


 そんなことが、と多希子は肩をすくめる。


「だからまあ、最初会った時は、ちょっとなあ、と思ってたんですよ。上手いこと口実つけて、断ってしまおう、と。まあ確かに社長の令嬢、というのは美味しい。だけどつまらない相手だったら、それで一生過ごすのは出世よりつまらないよなあ、と思ったんですよ」


 本当にずけずけ言うな、と多希子は思う。だがずけずけと言われるだけの相手に、自分がなっているのか、と思うと少しこそばゆい気持ちがした。


「出世なんていうのは、別に女性の手を借りずとも、色んな方法でのし上がることも可能でしょう。それもできないというのは、僕のポリシイに合わない」

「大胆な御発言」 

「どうも。だけどあなたが、建築の話を振った時、建築家になりたい、と言われたから」

「え?」


 多希子は思わず問い返していた。


「それまでのあなたとの会話は実に退屈だった。まあ実際あなたも退屈じゃなかったですか?」


 図星である。


「そんなに違っていましたか?」

「ええ。まるで。そう、大陸で会った女性達の中に、時々そういう方が居ましたね」

「大陸に」

「こっちでは色んな制約があってできないことが多い女性が、大陸に飛び出してきて、必死でその道を探そうとしていたりします。他にも、欧州から渡ってきた女性とか、民国でも都会の女性の中には居ましたね」

「私本当に、視界が狭いんですね」

「や、視界が狭いのはあなたのせい…… も多少はあるけれど」

「……」

「でも大半は環境のせいですよ。目隠しされていては、見られないものが往々にしてある。そんな中で夢を見られることの方が、よっぽど凄い。あの日比野と一緒に居た彼女、が前にあなたの言った洋裁師になりたい子でしたよね?」

「ええ」

「彼女のように、働くことが当然の階級に生まれ育ったなら、ある程度そういう夢は見られるんですよ。周りにお手本があるから。だけどあなたはそうではないでしょう」


 確かに、と多希子はうなづく。


「だとしたら、意志としては、あなたのほうが、強いかもしれない」

「誉めすぎですわ」


 多希子はうつむく。そして少しの間、二人の間に沈黙が行き過ぎた。


「宇田川さん、あなたにお聞きするのは失礼なことなのかもしれません」

「どうぞおかまいなく」

「だって私は、確かにこうやってあなたとおつきあいしていますけど、結局は今結婚がどうこう、なんて考えたくないんです」

「それはそうでしょうね」

「だからそういう相手、として紹介されているあなたにお聞きするのは、見当違いなのかもしれないですけど」

「どうぞ」


 多希子は立ち止まり、ぱっ、と彼の方を向いた。


「どうしたらいいんでしょう? 私」

「どうしたら、とは?」


 彼もまた、足を止めた。


「何とかしたいのに、私の悪い頭では、考えが手詰まりなんです。建築家になれるかどうか、でなく、なりたいから、その方法を探しているのに、その取りかかりが私には分からないんです。私が目を閉じているだけなのかもしれないのですが、その目の開き方が分からないんです」


 それこそ、目隠しをされていたから、急にそれをはぎ取られても、どうやって周囲を見渡せばいいのか、判らないのだ。

 彼はしばらく黙っていた。何を考えているのだろう、と多希子は思ったが、その表情からは読みとることができなかった。


「少し、座って話しましょう。そこの、松本楼ででも」

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