第1章 歯車 その3
「また仕事ぉ?」
数日後。神殿での仕事を終え、帰り際に立ち寄ったいつもの食料庫の中で、エルティスはおかしな声を上げた。その言葉には、不満がぎっしりと詰め込まれている。
神殿都市ルシータは、特殊な街である。
神の神託を受ける巫女姫、そして魔法を使いこなせる神官たちにより構成される街であるため、ルシータの民の職業は大きく偏っていた。
神殿の中での仕事と、神殿の命を受け街の外へ出て行く仕事。ほぼその二つしかないのだ。
人が生活するうえで、衣食住は不可欠である。どんな街にも、たいていはそれなりにそれらをまかなう者たちがいるのだ。しかし、ルシータにはそれらを生業とする者たちがほとんど存在しなかった。
菜園を持っていたり、洋裁の技術を持っている者もいるが、あくまでも趣味の範疇でしかない。ルシータの民全てをまかなうことは無理である。
必然的に他の街と連携を必要としており、そのためにデュエールを始めとした数名が外交役として赴くことになるのだ。彼らと、各街に併設されている治療院へ派遣される神官、それが街の外へ出て行く仕事である。
神殿での仕事は、魔法を使う神官は言うまでもなく、巫女に仕える娘や、雑用、小間使いまで含まれる。神官になることを拒んだエルティスは、現在は神殿の小間使いとして働いていた。
外交役は、ファレーナ国内全てを回り歩かねばならないため、年中忙しい。そのせいでデュエールはほとんどルシータにはいなかった。
ふくれっ面のエルティスを見て、デュエールは肩をすくめる。
「ああ、今回は少し遠くまで。休みが長いと思ったら、こういうところにつけが回ってくるんだな」
「どのくらい、かかるの?」
エルティスは俯いて問うた。
「……二ヵ月。あるいはそれ以上……」
「そんなに、かかるの……」
エルティスはそう言うのがやっとだった。
こうしてデュエールの口から会えなくなることを告げられるのは大嫌い。いつまで経っても、慣れることなんてできそうもない。その間、犬神がいてくれるからといっても、やはり独りであることは否めないから。
それでも、まだ二ヶ月という期間が外に赴く仕事の中でも短い方ではあるのだ。王国の端まで行く連絡役の中には、一年近く帰ってこない人もいる。
理由は簡単。長い間デュエールに会えないことを、ミルフィネル姫が嫌がるから。
公私混同されるのは確かに腹が立つけれど、でも、それでデュエールが早く帰ってきてくれるのならいくらでも我慢しよう――。
俯いたせいで拗ねたようにでも見えたのだろうか、デュエールはエルティスの頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
見上げたエルティスとぶつかるその瞳は優しい緑の光。
「騒ぎ起こさないでおとなしくしてろよ」
「……そっちこそ、その辺で行き倒れてたりしないでよね」
エルティスは照れ隠しにデュエールの手を払い、そっとその場所に手を当てた。軽く触れられただけなのに、まだ温かさが残っている気がする。
顔を見合わせた二人は、そのまま笑い出した。
こんな時間が、好き。
「いつ、出発?」
あらためてデュエールを見て、エルティスは切り出した。言ってくれるのを待つよりは、聞いてしまった方が良い。
「明後日」
「明後日……ずいぶん、早いね」
あまりの早さに、エルティスは驚いた。珍しいことだ。いつもなら、一週間程度前には知らされているはずなのに。
「なんだか、神殿側の手違いで、明後日出発しないと間に合わなかったらしい」
「……明後日じゃあ、髪を切るのは間に合わないか。二ヵ月後なら、少し伸びそうだね」
ふとエルティスは思い出した。小さい頃からの習慣で、デュエールの髪はエルティスが切っていたのだが、また仕事に出ないうちに髪を切る約束をしていたのだった。
下手に父親に切られるよりはまだエルティスの方がいい、と始まった習慣だったが、エルティスの腕前がなかなかだったせいか、この年齢までそれが続いている。一応神殿にも髪を扱う床屋はあるのにも関わらずだ。
「ああ、そういえばそうだった。いいや、帰ってきてから切ってもらうから」
デュエールは伸び気味の髪をつまんで笑う。
「……あたしでいいの? 一応床屋もあるんだよ?」
「いいよ。エルティスの方が思ったとおりに切ってもらえるし」
そう言ってもらえるのは、なんだか嬉しい気がしたけれど。エルティスは確かめるようにもう一度尋ねた。
「『帰ってきて』から切るのね?」
「ああ」
すっと、エルティスの心のつかえが取れる。
大丈夫。また、待てる。二ヶ月くらいなら、寂しくならずに待っていられる。
それは、細かい内容こそ異なるが、いつもデュエールが旅立つ前に行われる当たり前のやり取りだった。
ほぼ旅立つための用意で、一日二日はすぐにつぶれる。
エルティスが次にデュエールを見たのは、旅立つ前日の夕方だった。
夕方になり、夕飯は何にしようとエルティスが考えていたところ、扉が叩かれる音がした。
「エルティス、差し入れ」
扉を開けると、顔を出したのは包みを片手に持ったデュエールが立っていた。にっこり笑って包みをエルティスに向かって差し出す。
「父さんが持ってきたんだ。神殿での残り物だけど、って」
温められたのだろうか、包みからはほのかに食欲をそそる美味しそうな匂いがした。
デュエールの父・ジュノンは神殿での料理長をしている。ファレーナ王国内を巡り料理の修行をしたとかで、その腕は間違いない。神殿で様々な料理を味わえるのは、種々の料理を修め新たな味を開発する彼がいてこそだ。
エルティスはデュエールから包みを受け取り、結び目を解いて布を広げる。少し大きめの弁当箱の蓋を開けると、目一杯おかずが詰め込まれていた。
「……美味しそう!」
目を楽しませるように綺麗に盛り付けられた弁当箱の中身に、エルティスは目を輝かせる。今にもお腹が音を立てて空腹を訴えそうだ。
「美味しそうだろ? うちの夕飯も、それ」
父親をほめられて嬉しいのだろう、デュエールは弁当を指差しにこやかに言った。
「この量なら、明日のお昼くらいまで食べられそう」
「日持ちするって言ってたから、風通しのいいところで冷やしておいたらいいんじゃないか?」
「うん、そうする。ありがとう、デュエール」
蓋を閉め、包みを元通りにして、エルティスは礼を言う。デュエールは明日の早朝には出発してしまうけれど、この弁当箱は使い終わったら洗ってジュノンに返せばいい。
しぼむように、会話が途切れた。
……もう少しだけ、一緒に。
「……明日の準備は、終わったんだ?」
「ああ、後は寝るだけ。本当、ばたばたしてて疲れたよ」
慌てて話題を切り替えたエルティスに、デュエールは何の気なしに応じてきた。疲れた、と口では言うものの、そんな様子は微塵も見せない。だから、軽い気持ちで言ったのか、本当は疲れているのか、エルティスには読み取れなかった。
小さい頃は、もっとすぐにデュエールのことがわかっていた気がする。今もこうしてやり取りがあるけれど、昔よりもずいぶんと互いの距離は遠ざかっているのかもしれない――彼が自分を愛称で呼ばなくなったことが、すでにそれを証明しているような――。
「じゃあ、早く寝なくちゃね。明日出発できなくなったら大変」
エルティスが声を張り上げていうと、デュエールは苦笑した。
「……確かに。寝過ごしたら大変そうだ」
「明日も早いんだよね。……今回も、見送らないからね」
エルティスはぽつりと呟いた。
ここ数回、デュエールが仕事に赴くとき、エルティスはルシータの入り口である城門での見送りをやめていた。別に早起きが苦手というわけじゃない。姿が少しでも見れるのなら、早起きだって何だって、する。
「今回も、するんでしょう、見送りの儀式」
エルティスが尋ねると、デュエールはそのまま苦笑していた。
どのくらい前からだったかは定かではない。旅の間守られるようにと見送りの儀式と称し、ミルフィネル姫が数人の神官を引き連れ城門でデュエールを見送るのが最近の慣例になっていたのだ。
だから神官ではないエルティスは立ち入りを許されないし、彼女もそこへは近付かない。
ただ、門のところでは見送らない、だけなのだけれど。
デュエールを見ると、彼はわかっている、というような表情をしていた。他の誰が気付いていなくてもいい。デュエールだけわかっていれば。
ふと、デュエールが何かを思い出したような顔をした。
「ああ、そうだ。土産は何がいい?」
それもいつものやり取りのひとつである。
エルティスは外に行くことが許されない。麓の村に住む唯一の姉にすら会いにいけない。その彼女を思いやってなのか、デュエールはいつも土産の事を聞いてくるのだった。それに対して、いつもエルティスはお菓子が食べたいだとかその町の名物が見たいと答え、デュエールはそれに見合ったものを買ってくる。
だが、今回、彼女の口をついて出たのは、土産物の希望ではなかった。今まで思ったことはあっても言ったことはなかったのに、何故かその時は言わずにはいられなかった。
「お土産なんて要らないから、……早く帰ってきて」
瞬間、デュエールが目を見張る。それを見て、エルティスはもう次の瞬間には言ったことを後悔していた。
次に続く言葉を捜して、エルティスは視線を彷徨わせる。何とか見つけ出した抜け道に、思わず声を張り上げた。
「あ……そう! ほら、また前みたいに体調崩して、ジュノン小父さんを手伝えなくなったりしたら、大変だし!」
前々回、エルティスがやや体調を崩しており、それを理由にジュノンが家事手伝いを断る、ということがあった。
帰ってきてみたら散々たる有様だったので、デュエールはすっかり懲りていた。その惨状を知っているエルティスも苦笑するしかなかったくらいなのだ。
洗濯をすれば服は皺だらけになり必ずどこかほつれる。掃除をし、片づけをすれば必ず何か物がなくなり、探し出すのに苦労する。一流と呼ばれ、料理ひとつにはあれだけの才能を発揮するのに、その器用さと感性が他の家事には一切使われないらしい。
父子二人になったとき、呆れるほどの状態に、父は母に支えられていたのだと実感したという話をエルティスはデュエールから聞いていたが、それで納得した。そして、そんな幼い頃からザラート家の料理以外の家事全般はデュエールの仕事だったりしたのだ。
エルティスの叫びに、デュエールは苦笑している。笑っているのは、父親のことなのか、それとも不自然なエルティスの振る舞いになのか。
「俺のいない間、父さんのこと頼むよ。あの人、料理の腕と凝り具合は天下一品なのに、本当他のことはまるっきり駄目だから」
ついでに最後に駄目押しをする。「いいって断られても、やってくれてかまわない」と。
「うん、任せておいて。ぴかぴかにしておくから」
エルティスは胸を張って引き受けた。
彼女にしてみれば、家事そのものは結構好きだし、何よりデュエールが喜んでくれるから、引き受けずにはいられない。そして、ジュノンとは長い付き合いで、小さい頃はたくさん世話になっているからだ。
「頼むよ、あの時みたいなのは二度とごめんだから。……それと」
うまく誤魔化せただろうかと息を吐いたエルティスは、デュエールの口調が不意に変わったのに気付く。どうしたのかと顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見ているデュエールの瞳とぶつかった。
……ずっと、こっちを見ていた?
まばゆい夏の陽光に照らされる深緑の色をした瞳。一直線にこちらを射るその光に見つめられて、エルティスは目をそらせなくなった。
デュエールの言葉はそこで一端途切れる。再び訪れる沈黙。
先ほど経験した、話題が途切れたときの沈黙とは種類が違っていた。
いつも穏やかな雰囲気をしていることが多いのに、時折―――本当にごくたまにそんな瞳で見つめてくることがあって、そんな時、いつもエルティスは動けなくなるのだ。
この人に、心まで絡めとられているから、きっと、そのせい。
「エルティス……、あの、な……」
何かを紡ごうとするデュエールの声は、掠れていた。
次の言葉を、エルティスは黙って待つ。あるいは聞き取れなくなってしまうほど小さい声を聞き取るように、聴覚だけが鋭さを増していく気がした。
だが、いつまで経っても次の言葉は吐き出されない。珍しいことだった。デュエールは、そうして半端な状態で言葉を止めておくことなどほとんどないのに。
自分から言葉を発することもできず、しかしこの不思議な雰囲気の沈黙にエルティスが耐えられなくなってきた頃。
ふとデュエールが視線を逸らした。視線の束縛から解放されて、エルティスはほっと安堵の息を吐く。
「……いい。帰ってきてから、ちゃんと言う」
「?」
付け加えるように言った彼の言葉に、何故だかため息が含まれているような気がしたのは、エルティスの気のせいだっただろうか。
「言いたいことがあったんだけど、仕事が終わって、帰ってきたときに言うよ」
デュエールはそう言い直した。今の言葉に含まれる約束。『帰ってきた』とき。エルティスがそれを支えにして日々を過ごす言葉。
その言葉が繰り返される限り、必ずデュエールはここへ帰ってくる。
「『帰って』きたら?」
エルティスが尋ね返すと、デュエールは静かに頷いた。
帰ってきたら、デュエールの髪を切る。そして、彼の言おうとしていた言葉を聞く。
確かに交わされた約束。デュエールがまたルシータへ帰ってきて、彼女のもとを尋ねてくれることの証。
今はそれだけでいい気がした。ささやかだけれど、嬉しかった。
「仕事、頑張ってね」
「ああ、行ってくる」
そんなやり取りの後別れて、手を振ってデュエールを見送ったエルティスの心の中にはいつもと違う不思議な感覚が残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます